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Left Alone

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  第 34 章 

 薄暗い廊下のベンチでボンヤリしていると、桑原が隣にどっかりと腰を下ろした。
 手には自分のとアタシの分の紙コップを手にしていた。無言で差し出されたそれを無言で受け取る。警察で出されるコーヒーといえば不味いというのがテレビドラマの定番だけど、そのコーヒーは意外と美味しかった。
 同じフロアにある大会議室にはひっきりなしに人がの出入りしている。捜査員たちは一様に眉間にシワを寄せて、全身にピリピリした空気を纏っている。時折、アタシに気づいては不審そうな視線を無遠慮に投げつけてくる刑事もいた。アタシが何者かは別として、場にそぐわないことは間違いなかった。
 もっとも、桑原がジロリと見返すと、彼らは急に何かを思い出したように視線を逸らして足早にその場を去った。
「あのさ――」
「……村上だがな」
 ほぼ同時にしゃべりだして、アタシと桑原は顔を見合わせた。
「どうしたの?」
「いや、そっちこそ。何か訊くことでもあんのか?」
 おそらく、口にしようとしたのは同じ事柄だった。アタシは桑原の話の続きを促した。
「奴にかけられてる容疑が分かった。不正アクセス禁止法違反、並びに地方公務員法の守秘義務違反――早ぇ話が警察のデータベースへのクラッキングと、それによって得られた情報を外に洩らした疑いだ」
「クラッキング!?」
 相変わらずコンピュータ関係には弱いアタシでもその言葉は知っていた。コンピュータ・システムに侵入してデータを盗み出したり、あるいはシステムを破壊する行為のことだ。
「ちょっと待って。いったい何を盗み出したっていうのよ?」
「さあな。そこまでは――」
 アタシは語尾を濁す桑原の彼の横顔を見つめた。タメ口で話しているせいであまり意識してなかったが、薄く差し込む陽射しで逆光になった容貌には年齢を感じさせる翳が貼りついている。
「どうしてそんなこと、教えてくれるの?」
 桑原は少し意外そうにアタシを見た。
「どうしてって……知りたくねえのか?」
「そういうわけじゃないけど。でも、そういうのって外部には公開しないなんじゃないの?」
「蛇の道は蛇ってな。もちろん片岡は関係者に緘口令を敷いただろうが、そういう話はどっかから洩れ聞こえてくるもんさ。それより、どうして監察事案が非公開なんてことを知ってる?」
「……別に。そうなんじゃないかって思っただけよ。それよりアタシの質問に答えて」
 ごもっともな指摘は適当にごまかした。自分の背後に弁護士がいることは今はまだ知られないほうがいいような気がした。
「気に喰わねえのさ。あいつらのやり口がな」
 桑原は立ち上がった。いつの間にかショートホープのパッケージを手にしている。規則や決まりごとを気にする男とは思えないが、さすがに灰皿のない廊下でタバコに火をつけるわけにはいかないようだ。携帯用の灰皿を持ち合わせているようにも見えない。
 結局、元の小部屋に戻った。記録係の刑事も休憩に行っていて部屋にはアタシと桑原だけだ。他に椅子がないので休憩前と同じようにテーブルを挟んで向かい合う形になった。
 桑原はタバコに火をつけた。
「自分たちの捜査の邪魔をされたから?」
「それもある。だが、それ以上に村上が身動きが取れなくなったのを見て、これ幸いとばかりに襲い掛かる根性がな」
「だからって、腹いせにそんなこと、無関係なアタシに話していいの?」
「寝言は寝てから言え。お前が無関係なわけねえだろ」
「……どういう意味よ?」
 桑原は粘っこい視線でアタシの顔をたっぷり三〇秒ほど眺めた。それから頭を掻きながらわざとらしいほど大げさなため息をついた。
「つい二時間ほど前、監察官室の阿呆どもが村上のマンションにガサをかけた。奴のノートパソコンを押収するためだ」
 村上の部屋にはクルーズ何とかというセットで買うとかなりの値段になるパソコンデスクと椅子があって、その上には確かにノート型のコンピュータが置いてある。もっとも周辺機器のケーブルやらがたくさん繋がっていて持ち運びはできないので、ノート型である意味はあまりなかったが。
「そのパソコンがどうかしたの?」
「村上が持ち出したファイルは奴のデスクのコンピュータには入ってなかった。まあ、そんなところに証拠を残すバカはいねえだろうがな。となれば、自前のパソコンに入れてた可能性が高い」
「なるほどね。それで?」
「なかったのさ、そいつが。周りの機械のケーブルを乱暴に引っこ抜いて、本体だけ持っていかれてたらしい」
「……へぇ。で、それとアタシに何の関係が?」
「片岡たちはパソコンを持ち出した奴を躍起になって捜している。ホコリの積もり具合からして、持ち出されたのはつい最近――ここ数日以内のことだ。その間に村上の部屋に出入りした人間がいないか、訊き回ってるのさ」
 おおよそ、何が言いたいのか分かってきた。
「で、何か聞き込みの成果は上がってるの?」
「捜査員の一人が大家から面白い話を聞きつけてる。村上の部屋にはしょっちゅう出入りしている若い女がいた。身長は一七〇センチ台、髪は黒で、肩よりも少し長いくらい。化粧っ気はねえが、目鼻立ちはハッキリしていてなかなかの美人だってな。クルマは緑のロードスターをけっこう荒っぽく乗り回してるらしい。一度、村上自身が知人の娘だと話したことがあるそうだ」
「アタシが持ち出したと思ってるんじゃないでしょうね」
「さあな。俺はまったく興味ねえよ。片岡のヤロウがどう思ってるかは知らねえが」
「誰かが持ち出したと決め付けるのは早計なんじゃないの? あいつが自分で何処かに隠したのかもしれないじゃない」
「モノによっては断線してるケーブルもあったそうだ。あの村上が他人のもんならともかく、自分のもんにそんなことすると思うか?」
「……しないか」
 村上なら時間に追われていても外したケーブルを輪ゴムで括っていきかねない。と言うより、あの男は職場でどんな人間だと思われているのだろう。
「言っとくけど、アタシはあいつの部屋の掃除をしてただけだからね」
「掃除してただけ、か。適当なこと言ってんじゃねえよ」
 桑原はせせら笑った。
「何が適当なのよ?」
「若い男の部屋に若い女が出入りしてて、何の関係もありません、ただ掃除をしてやってただけです、なんて与太話を信用しろっていうのか? 白状しろよ。お前、村上とデキてたんだろ?」
「……どうしてそういうことになるの?」
「付き合ってもいない男の部屋の掃除する女なんていねえからさ。男のほうだって、その気がなきゃ女を自分の部屋に入れたりしねえよ」
「そんなこと、分かんないでしょ」
「そういうもんなんだって。俺の豊富な人生経験によると」
 鼻で笑ってやった。
「あんた、邪推って言葉、知ってる?」
「こんな仕事をしてるとな、まさかそんなハズねえだろう、と思ってたことが当たってたりするもんなのさ」
 桑原は歯を剥いて得意げに笑った。思わずぶん殴りたくなるような笑顔だった。
「仮にアタシがあいつとそういう関係だったとして、何か問題があるの?」
「おまえ、バカだろ?」
「バカ!?」
「そうさ。現職の警官が未成年の女を部屋に入れてるってだけで、村上のことを面白く思わねえ人間にとっちゃ首根っこを押さえたのと同じなんだぜ。淫行で挙げる格好の口実だ」
「……アタシ、十九歳なんだけど」
「通いの掃除婦をやり始めたのは最近の話じゃなかろうが。大家は少なくとも一年以上前からその女を見てる」
 確かに村上の部屋の掃除を始めたとき、アタシはまだ高校生だった。もちろん、本当に村上を青少年保護育成条例で逮捕しようとすれば、アタシと彼の間に性的な関係があることを立証しなくてはならない。福岡県警がどれだけ優秀でも、存在しないものを立証することなどできるはずはない。
 ただ、疑いがあるというだけでも身柄を拘束することは可能なのだった。まさに今、村上がそうされているのと同じように。
「しかし、なんだ。村上もまだ若いってのに、お前みたいな女を部屋に入れといて手ぇ出さなかったってのは、にわかには信じられねえな」
「自分を基準にモノを言わないで」
 村上がそんな男だったら――どんな形であれ歩み寄ってくれるのなら――逆にどれだけ救われるだろうか。もし彼が求めてきたのなら、アタシはたぶん拒まなかったはずだ。
「ご期待に沿えなくて申し訳ないけど、あいつ、そんな素振りを見せたこともないわ」
「どうかな。お堅い村上のことだ、おまえがハタチになるまで待ってただけかもしれんだろ」
「いい加減にしてよ。あいつはそんな男じゃない」
「それこそ、そんなこと分かるもんか」
 何が面白かったのか、桑原は翳のある残忍そうな笑みを浮かべた。
「まあ、とりあえず、それはいい。誰がノートパソコンを持ち出そうが、俺が知ったことじゃねえからな。ただ、さっきも言ったが片岡がどう考えてるかは分からん。覚えがないんなら、しっかり身の証しを立てられるようにしておいたほうがいいぜ」
 桑原はタバコを揉み消して、替わりを出そうとパッケージを振った。しかし、さっきのが最後の一本だったらしかった。小さく舌打ちしながら、桑原は新しいパッケージのセロファンを剥がした。
「……ひょっとして、心配してくれてんの?」
 桑原はしばらく返事をしなかったが、やがて、いかにもつまらなそうに「……佐伯さんには世話になったからな」と言った。

 結局、それ以上は訊くことがない――と言うか、警察もまだそこまで事件の全体像をつかめているわけではないという理由で、アタシは開放されることになった。
「いつでも連絡がつくようにしておけよ」
 桑原はまるでアタシにそうする義務があるかのように言った。話すたびに口の端で禁煙パイプがユーモラスに上下する。禁煙の貼り紙を平気で無視するこの男も、さすがに庁舎の廊下で歩きタバコというわけにはいかないらしい。
「バイト中とお風呂入ってるときはとれないけど?」
「そのときは留守電に吹き込む。第一、そんなにしょっちゅうモデルの仕事があるわけでもねえだろ」
「もう一つ、居酒屋のバイトもやってんの」
「どこの店だ?」
 財布の中に入れっぱなしにしていた店の割引券を渡した。内緒にしておいても構わないが、アタシは警察の存在を逆手にとってオーナーから休みを引き出すつもりだった。腕に覚えがある空手家の常としてウチのオーナーも結構”若気の至り”をやらかしている人なので、警察が店員の身辺をウロチョロするのにいい顔はしないに違いない。
 ご迷惑をかけちゃいけませんから――。
 そんな台詞を脳裏に浮かべた。そのまま「ずっと来なくていいよ」と言われたらどうしよう、という一抹の不安が過ぎらなくもないが。
「意外と働き者なんだな」
 桑原は本当に意外そうにアタシを見ていた。
「学生がみんな遊び呆けてるわけじゃないってことよ。これでも一応、副店長なんだから」
「そいつはすげえな。その権限でちょっと安くならねえのか?」
 桑原は割引券を仔細に眺めていた。店の所在地と電話番号が載ってるから渡したのだけど、この調子じゃ本来の用途で使われそうだ。
 お礼に送っていこうかという桑原の申し出を丁重に断って、アタシは博多署を後にした。
 外は気が狂ったような猛暑だった。とっくに昼を過ぎて空腹だったにもかかわらず、それほど食欲は湧いてこない。それよりも眠気のほうが限界に近づいている。そのまま、タクシーを拾って自宅のベッドまで直行したくなる誘惑を何とかこらえた。
 由真のケイタイに電話をかけた。
「あ、終わったの?」
 いつもと同じようで、どこか気だるげな声だった。冷房嫌いというから暑さに強いのかと言えば、そういうわけでもないらしい。何処にいるのかと訊くと「家の縁側」という答えが返ってきた。
「悪いんだけど迎えに来てくんない? アタシのロードスター、長浜に停めっぱなしだし、取りに行かなきゃなんないから」
 さすがにアルコールは抜けただろう。眠気はステアリングを握れば覚めてくれるはずだ。ところが由真は「それだったらすでに回収済み」と言った。
「どういうこと?」
「武松さんだっけ、あのクラブのバーテンさん。あの人から連絡があってね。倉庫街で真奈のロードスターを見たって。あの辺、最近取締りが多いらしいから、クルマ屋のお兄さんに頼んで運んでもらったの」
 今ひとつ話が見えないが、とりあえず余計な違反で捕まるのを防いでもらったということだった。思うところはあるが素直に礼を言っておくことにした。
「でも、どうしてあの人がアタシのクルマを知ってたんだろ?」
「あたしがしゃべったの。この前、検察庁の前で逢ったときにね」
「ふうん……」
 由真がクルマの話をするとはちょっと意外だ。よほど話のネタがなかったんだろうか。
 迎えに来る話は、由真の「手が空かないんでタクシーで帰ってこい」というにべもない返事であっさり終わった。タクシーを拾おうと駅前通りまで出たところで、片付けておかなくちゃならない用事を思い出した。
 手近な日陰で茹だるような陽光を避けて、さっき交換したばかりの高坂菜穂子の番号を呼び出した。通話ボタンを押すのにほんのちょっと苦々しさを感じたが、とりあえず分かったことだけは知らせておく必要がある。
「ずいぶん時間がかかったわね」
 開口一番、菜穂子は呆れたような口調で言った。労いの言葉を期待していたわけじゃないが、その言い草はないだろ。
「担当の刑事がすぐ話が脱線するオジサンだったんです。村上さんの容疑、分かりましたよ」
「そう。――ちょっと待って」
 メモを取る準備をしているようだった。電話の向こうから雑踏のようなざわつきが聞き取れた。おそらく彼女もどこか外にいるのだ。
「いいわよ。で、何の容疑?」
「不正アクセス禁止法違反、それと地方公務員法の守秘義務違反。法律用語としてあってるかどうかは知りませんけど」
 余計な訂正を聞かされるのはまっぴらだった。菜穂子は普通に続きを促した。
「具体的には?」
「担当の刑事が言うには、警察内部のコンピュータから情報を持ち出そうとしたか、あるいは本当に持ち出しちゃったかってことらしいですね。狙いが何だったのかまでは、さすがにその刑事も知らないようでしたけど」
「でしょうね」
 当然のように彼女は言った。
「それと、警察は――って言うか、この件を調べてる監察官室の片岡ってオヤジが村上さんの部屋を捜索したみたいです。持ち出した情報を自宅に隠してるんじゃないかってことで」
「そんな馬鹿なことするわけないでしょ。恭吾ならどこか、もっと見つからないとこに隠すわよ」
 アタシもそう思う。けれど、やってるのは片岡警視なのでアタシに言われてもどうにもならない。
「で、何か見つかったって?」
「いえ、発見はなかったみたいなんですけど、警察が踏み込む前に村上さんのパソコンを持ち出した人物がいるんです。ケーブルとか、ずいぶん荒っぽくぶっちぎってるみたいですね」
「それ、いつの話?」
「ホコリの積もり具合からいって、そんなに時間は経ってないような話でしたよ。菜穂子さん、最後に村上さんの部屋の掃除したのっていつです?」
 合鍵を返した日に見た村上の部屋は、どう考えても本人ではない誰かが掃除していた。そして、それはアタシ以外ではこの人しかありえない。
「一昨日のお昼。そんなに念入りにやったわけじゃないんで、ほんの三十分ほどね」
 とぼけても無意味だと悟ったような、ちょっとバツの悪そうな口調だった。
「何とか自分でやろうとしたみたいなのよ。でも、恭吾の家事オンチは筋金入りだから。で、週一の契約であたしにお声がかかったってわけ。掃除と洗濯をやったげる代わりにその都度どこかで奢るっていう条件でね」
 彼女は村上が連れて行ったという店の名前を列挙した。今泉や警固周辺の洒落たカフェやダイニングばかりだった。
「……結構、高い店ばっかりですね」
「あなたを怒らせなきゃ、しなくていい出費だったのにね」
 菜穂子は喉の奥で笑った。何と答えていいのか分からなかったので、アタシは答えなかった。
「とりあえず、分かったことといえばそれくらいですけど。あ、それと警察はアタシをパソコン持ち出しの容疑者に挙げるかもしれないって。どうしたらいいんですか?」
「現場不在証明を立てるのが一番だけど。でも、犯行時刻が分からなきゃ無理よね」
「やっぱり、取調べは免れないってことですね」
 声にウンザリした響きが混じるのは隠せない。桑原とでもあれだけ億劫だったのに、片岡警視が相手では苦行を通り越して拷問と言ってよかった。あの冷徹な眼差しと向かい合うくらいなら、最近繰言が増えた祖父の看病で一日を潰したほうがマシだ。
 ところが、菜穂子はフンと鼻を鳴らして「そんな心配は要らないわ」と言った。
「どうしてですか?」
「まだ、そのパソコンが情報漏洩の重要証拠だって証明されたわけじゃないもの。持ち出したのが誰であれ、今のところは所有者である恭吾が被害届けを出さない限り、その相手を窃盗とか証拠隠滅で取り調べることはできないわ。――ま、その届けを勝手に出される可能性はあるけど」
「もし、そうなったら?」
「ならないって言ってるでしょ。あたしは何のためにいるの? 大丈夫、そんなことはさせないから。もし警察に身柄を拘束されるようなことがあったら、すぐ連絡してちょうだい。名刺は渡したわよね?」
 オープンカフェでもらった名刺は財布の中だ。弁護士が来るまで話さないと言えば、警察は連絡をとるのを認めざるを得ない。
「なんだか菜穂子さん、アタシの弁護士みたいですね。言っときますけど、料金はそんなに払えませんよ?」
「子供がバカなこと言わないの」
「……すいません」
 子供、か。認めたくはないが、確かに彼女から見ればアタシなどただの生意気な小娘に過ぎないのかもしれない。
「大丈夫よ。かかった費用はぜんぶ恭吾に請求するから」
「どうして村上さんが?」
「だってあたし、万が一、あなたの身に何かあったときは力になってやってくれって、恭吾から頼まれてるんだもの。別れた女房にその原因を作った人の娘を守れだなんて、ホント、何考えてんだか」
 まるで意味が理解できない。ひょっとして、村上はこういう事態を想定していたとでもいうんだろうか。
「話はそれだけ?」
 菜穂子は唐突にそう言った。他に知らせておかなくてはならないようなことはなかった。アタシはそれだけだと答えた。
「菜穂子さん――」
 恐る恐る切り出した。
「なに?」
「村上さんのこと、お願いしますね。その……監察官から村上さんを守れるの、菜穂子さんだけだから」
 言ってから、急に後悔の念が湧き上がってきた。菜穂子にしてみれば、そんなことをアタシに言われる筋合いなど何処にもないからだ。彼女はアタシに頼まれて動いてるわけじゃない。あくまでもかつての夫のためにやっているのだ。
 痛烈な反撃を予想して、アタシはケイタイ越しだというのに思わず首をすくめた。ところが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「あなたがそう言うんだったら、然るべく全力を尽くすわ。じゃあ、また連絡するわね」
 驚くほど優しい声音と共に、電話は一方的に切られた。しばらくの間、アタシはケイタイのディスプレイを呆然と見つめていた。

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