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Left Alone

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  第 39 章 

「……由真?」
 音を立てないように彼女の部屋の襖を開けた。
 ここはアタシがこの家に引き取られたときに入るはずだった部屋だが、アタシがガレージの上の離れを選んだために長らく客間として使われていた。和室を洋室に改装した八畳間で入口だけはかつての名残りで開き戸ではない。鍵がかからないので由真が居候することが決まったときに改装する話があったのだけれど、本人が「誰に開けられても不都合はない」と言うのでそのままになっている。
 灯りは点いてなくて、珍しくエアコンのスイッチが入ったままだった。ベッドのほうから由真の寝息が聞こえてくる。
 暗がりに目を凝らすとノーブラにタンクトップ、下はショートパンツというあられもない格好で寝ている由真の姿が見えた。ほっそりした体躯にそぐわない豊満な胸がこぼれそうになっている。足はヘッドボード側を向いて枕を踏みつけていた。おそらく、次に見たときには元の方向に戻っているだろう。由真の寝相の悪さは尋常ではない。
 パジャマくらい着させようかと考えたが、そのまま襖を閉めてその場を後にした。少しくらいしどけない格好をしていても風邪はひかないだろうし、せっかく寝入っているのを起こすのも忍びない。昨夜はアタシの部屋の椅子で転寝していて、彼女もちゃんと身体を休めているわけではなかった。しかも朝からの大騒ぎで心も休まらなかったはずだ。
 シャワーを浴びて、ダイニングキッチンでしばらくボーっとしてすごした。
 祖母がいない夜、この母屋は本当にシンと静まり返っている。祖父が入院する前でも三人暮らしには広すぎて、一時期、この家を引き払ってもう少し便利の良いところに引っ越そうかという話もあったほどだ。
 その話は立ち消えになってしまっているけれど、いずれは考えなくてはならないことだ。祖父母の子供はアタシの亡き母親だけで、二人の相続人はアタシしかいない。家屋敷だけでなく、祖父がまだ名目上は社長をしている会社をどうするかも考えなくてはならない。残念ながら大学の文学部にやっと滑り込んだ程度のアタシに祖父の跡を継げるはずもないし、いずれは誰かに譲ることになるだろう。祖父はアタシの父親に警察を辞めて跡継ぎになることを打診していたようだが、それはもはや叶わないことだ。
 出所後の父親の身の振り方にもよるが、一家揃って静かなところへ引っ越すのも悪くないかもしれない。今のような裕福な生活はできなくなるだろうが、それは仕方がないことだ。幸いにもアタシは父との二人暮らしでごく普通の家庭のやりくりをこなした経験がある。それに戻ると思えば大したことはなかった。祖父母の年金と幾ばくかの資産、それとアタシが働けば何とかなるだろう。問題があるとすればアタシにごく普通のOLが勤まるかどうかだけだ。
 そこまで考えて、思わず苦笑を洩らした。物音一つしない静けさには普段は意識の隅にも上らない考えを浮かび上がらせる効果があるようだ。
 近頃、祖母の目を気にすることなく冷蔵庫に突っ込んであるビールを二缶持って、自分の部屋に移動した。通夜に行く前にエアコンのタイマーをセットしていたおかげで快適な温度になっていた。いくら日が落ちても真夏の夜で、しかもここ数日は熱帯夜が続いている。冷房嫌いの由真でさえ我慢しきれずにエアコンに頼るほどだ。
 灯りをつけると、部屋の真ん中のテーブルの上に村上のノートパソコンが鎮座していた。その上に小さなメモ紙がセロファンテープで貼ってある。メモには<セーフティは解除済み。中のチェックは任せるよ>と由真の丸っこい字で書かれていた。
 どうしろというのだろう。
 チェックと言ってもアタシにはコンピュータに関する知識などまるでない。せいぜいワードやエクセルのファイルを開いて中を見ることができる程度だ。
 由真の意図は分からなかったが、とりあえず言われたとおりにしてみることにした。電源ケーブルを繋いでメインスイッチを入れた。カリカリッというハードディスクの音がして、やがてウィンドウズが起動した。
 村上の部屋で見たときは斉藤和巳だった壁紙が新垣渚に変わっていた。気分次第でホークスのピッチャーの壁紙をローテーションしているらしくて、他にも和田や杉内、ガトームソンのものも見たことがあった。一度だけホークスのチアリーディングチームの画像になっていたことがあるが、アタシがここぞとばかりにスケベ呼ばわりしたのでそれ以来見たことはない。
 まずはメールソフトから手をつけることにした。上社から”武士の情けがどうとか”と妙な忠告を受けていたし、アタシも他人のプライバシーを覗き見る趣味はない。けれど、実際には見ずに済ますことはできない。バカバカしいと思いつつ、気まずい思いをしなくてはならないようなものが出てこないことを祈った。
 不要なメールはこまめに削除していたようで、受信トレイに残っているのは通信販売の受注票やそれに伴う運送会社の配達日確認のもの、私用か公用かは分からないけどホテルなどを予約したときの予約票、iTunesでダウンロードした分の受領票、届いたばかりの内閣総理大臣のメールマガジンなどだった。最後の一つが配信解除を面倒くさがって放置しているのは賭けてもいい。
 私用のメールで残っているのは菜穂子からの部屋の掃除のスケジュールに関するものと、由真からのものが何通かあるだけだ。
 当然のことながらセーフティを解除したときに由真もパソコンの中は確認したはずだ。なのに、自分が送ったメールを削除していないのは見られても構わないと思っているか、あるいはアタシへのあてつけだろう。アタシとしてはどちらでもよかった。
 実際、四通あった由真のメールはどれも大した内容ではなかった。他人行儀な敬語で書かれていて、彼女の恋心を窺わせるような文面はどこにも見当たらない。一つだけ由真の写真を添付したものがあったが、それも村上が(何に必要だったか分からないけど)女性の服について質問したことに答える内容の補足として、自分がそれを着ている写真を付けたというだけの話だった。
 一方、送信トレイはバッサリと削除されてしまっていた。二人に送ったメールも残っていない。
 そもそも、村上が必要以上に誰かとメールのやり取りをしていたとも思えなかった。長い報告書でもさっさと書いてしまえるくせに筋金入りの筆不精なのだ。事実、アタシはケイタイ・パソコンを問わず、村上からメールをもらった記憶がない。
 ずっと昔、まだ彼が離婚する前に菜穂子が村上のメールが異様に短いこと――イエス・ノーで答えられる質問に”Y”という一文字で返事をしたらしい――に文句を言っていたのを思い出した。奥さん相手にそれはまずいんじゃないかと、アタシも他人事ながら心配になったものだ。ひょっとしたら、アタシの父親の事件がなくてもそのうち愛想を尽かされていたかもしれない。
 メールソフトを閉じて、他のファイルにとりかかった。マイ・ドキュメントにはいくつかのフォルダがあって、それは大雑把に仕事関係と私用関係に分けられていた。
 私用のフォルダの中身は大半が画像ファイルで、先の壁紙用のホークス選手のものや彼のもう一つの趣味であるクルマ関係のものばかりだった。武士の情けで見逃してやらなくてはならないようなものは見当たらない。サーキットにレースを見に行ったときのものにレースクイーンが写っている程度だ。
「……つまんないの」
 ビールを一口飲んだ。変なものに出てきてもらっても困るが、出てこなければそれはそれで面白くない。何よりもアタシの写真が一枚もないのが気に入らなかった。アタシも村上も写真好きではないが、それなりに一緒に記念写真を撮ったりしているのだ。壁紙にしろなどと厚かましいことを言う気はないにしても、せめて専用のフォルダくらいあってもよかった。
 他の女性の写真も見あたらないのがせめてもの慰めだった。メールにあった由真の写真もわざわざ保存はされていなかったし、菜穂子のものもなかった。もちろん葉子のものも、だ。
 と言うより、村上の周辺の人物の写真はまったく見当たらなかった。

 アタシだって斜に構えて孤独ぶっていたことはある。それでもアタシには祖父母がいたし、権藤のように心配してくれる人もいた。それに何と言っても由真がいた。そういう意味では、アタシは本当に孤独なわけではなかった。
 アタシの知る限り、村上が気を許しているのは藤田知哉しかいない。ひょっとしたら上社もそうなのかもしれないけど、それでもたった二人だ。
 葉子の部屋にわだかまっていた周囲とのかかわりの希薄さを思い出した。村上も同じように孤独だったのかと思うと、暗澹たる気持ちになった。
 アタシは彼が心を許せる人間のうちに入れているのだろうか。

 つまらない感慨を抱くために覗いているわけではないことを思い出して、今度は仕事用のフォルダに取り掛かった。
 そちらもそれほど充実しているわけではなかった。もともと警察では私物のパソコンで仕事をすることはないと聞いたことがある。理由はもちろん情報漏洩対策で、捜査情報を記憶媒体に入れて持ち帰ることは禁じられているはずだ。村上がこのパソコンでやっていたのは、警部補任用研修のときのレポートくらいだ。
 そこで一旦、パソコンから離れた。液晶画面を見続けるのに慣れていないので、少しばかり目が痛くなってきている。ビールを飲み干して、お替りのプルタブを押し開けた。
 思わずため息が洩れた。
 とにかく、村上の足取りを知る手掛かりが欲しかった。アタシが期待していたのは、村上が私的に調べていた事柄をまとめた日誌のようなものだ。日記でもいい。アタシには二年前、由真がやっていたブログから彼女の身に起こったことを知って、それが彼女を探し出す大きな手掛かりになった経験がある。まさか村上がブログをやっているとは思えないが――他人に日記を読ませる意味が分からないという点で、アタシと村上の意見は一致していた――それに類する何かがあってもいいはずだ。
 しかし、それらしきものは見つからなかった。
 上社の話では、村上の調査はほとんど行き詰まっていたらしい。と言うことは、仮に村上が捜査の記録を残そうと考えていたとしても、そこに書けることはそれほどなかったことになる。
 由真が言ったように、村上がこのパソコンを隠したのは自分に不利益な工作を防ぐのが目的だったのだろうか。考えてみれば、村上はしょっちゅうパソコンの前に座っていたわけではなかった。アタシが掃除に行ったときに部屋にいても、パソコンは音楽を聴くためにしか使っていなかった。由真のようにインターネットなしでは生きていけないネット・ジャンキーではないのだ。
 仕方がないので、適当にあちこちのボタンをクリックしてみた。その中の一つの”検索”というのを押すと画面の左に小さな入力窓が開いた。そこに打ち込んだ語句が含まれるファイルを探し出してくれることくらい、アタシにだって分かる。問題は何という語句で検索するか、だ。
 その窓に<渡利純也>と打ち込んでみたが反応はなかった。次に<白石葉子>と打ってみた。しかし、反応はなし。
「駄目か……」
 尚も適当にクリックを続ける。そのうち、検索オプションというところに”隠しフォルダ”が云々と書いてあるのに気づいた。そこにあるチェックボックスに片っ端からチェックを入れて再度検索をかける。すると、今度は”覚書”という名前のExcelワークシートが引っかかった。
「……ビンゴ、かな」
 ファイル名をダブルクリックするとエクセルが起動して、画面いっぱいに表のような升目が広がった。
 三年前の事件の関係者らしき人物の名前と住所、電話番号の一覧表だ。リストは氏名と住所、AからDまでのランク付けで構成されている。
 筆頭は”守屋卓”という、いきなり見覚えのない名前だった。その後に篠原勇人、倉田和成、倉田康之と続いている。篠原の名前の上には取り消し線がかかっている。苗字が同じの二人は後の項目(住所とアルファベットがAであること)も同じだ。
 いずれも渡利純也の仲間たちだ。守屋がホスト崩れで篠原がバーテンダー崩れ、倉田和成と康之は渡利のボディーガードも勤めていた双子のキックボクサー。篠原が消されているのは彼が別件で逮捕されてシャバにいないからだ。
 リストをスクロールさせた。
 記載されている人物は多岐に渡った。横に表示されている行番号は四十二人にも上っている。順番に規則性は見られない。現に上位の四人以外は見知った名前はバラバラに登場していた。白石葉子は十一番目、若松郁美が十六番目。千原和津実は真ん中から少し下のほうだ。
 アルファベットを見比べてみても、最初の四人がAで続いている以外はてんでバラバラだった。五番目に登場する福島なる人物はいきなりDだし、その次はCが二人続いて再びDだ。
 知っている人物のアルファベットを見比べてみた。葉子と郁美がA、和津実はB。ノンさんのダンナらしき大石一馬はDだ。他の人物でも圧倒的に多いのはDで、Aはグループ関係者の六人しか見当たらない。
 アルファベットが事件への関連の度合いや証言者としての重要度を表すのは間違いないだろう。村上自身に分かっていれば充分だからか具体的なことは記されていないが、評価だけは書き残していたのだ。
 パソコンはつけっぱなしのままにして、ベッドにひっくり返って天井を眺めた。
 手掛かりと言うにはかなり漠然としている。それでも、まるっきり空振りではなかった。全員を訪ねるのは無理でもランクのAやの人物を洗えば何か新しいことが分かるだろう。できればリストを印刷しておきたかったがプリンターは繋がっていないし、アタシのiMac(事実上、iPodへのダウンロード専用機)にデータを移す方法も思いつかなかった。それらは由真が目を覚ましてからやるしかない。

 時計は午前二時を示そうとしていた。
 さっさと寝るべきだということは分かっていたけど、考えごとを始めたせいで何となく寝そびれていた。
 村上は何を思ってあの事件と、その顛末を追い続けているのだろう。
 単に結末に納得がいかなかったというだけかもしれない。懸命に捜査したのに誰一人として検挙することができなかったばかりか、アタシの父親があんな事件を起こしてしまった。それが遠因で彼は菜穂子と離婚することになったし、警察官としてのキャリアを台無しにしている。せめて何らかの形で決着をつけなくては気がすまない、というのはあり得る話だ。
 しかし、アタシが知る村上という男は、他人のためならともかく自分のことでいつまでも何かに拘泥するような人間ではなかった。
 アタシの父親のためだろうか。考えられないことはない。しかし、罪を認めて刑に服している父に対して、事件の背景を明らかにすることがそれほどの救いになるとも思えない。
 捜査情報が洩れたことへの怒りだろうか。それもないとは言えないだろう。しかし、それをぶつけるべき人物は二年前に鬼籍に入っている。もちろん、それが熊谷一人の仕業ではなく協力者の存在があったのは事実だ。
 しかしそいつらも、熊谷のファイルを元に表沙汰にはならない形で排除されているはずだ。逆に言えば、もし村上が情報洩れの落とし前をつける気なら、追われた輩の中から該当者を捜せば済む。わざわざデータベースにクラッキングなど仕掛けなくても、県警本部の内勤になった今なら当時の退職者のリストなど簡単に手に入るはずだ。
 そこまで考えて、再びノンさんの旦那の会話を思い出した。

「ジュンにはヘンな噂があってな」
「ヘンな噂?」
「そう。実はジュンは警察の人間に顔が利くんじゃないかって」

 いくら熊谷が元捜査二課のエースで警察内部に多くのイヌを飼っていたとしても、そこまでの影響力を持っていたかどうかは疑問だった。仮にあったとしても、それを渡利のような男のために使ったとは思えない。
 だとすると、渡利には他に警察との接点があったことになる。しかも敵対する勢力を牽制し、場合によっては排除することすら可能にする強力な接点を。その渡利が、熊谷のような危険な男から情報を得る必要があっただろうか。
 渡利が熊谷から情報を得ていたとアタシに教えてくれたのは権藤だ。それは父の事件のことで、自分や村上が熊谷幹夫という”情報屋”に並々ならぬ憤りを抱いているという話だった。嘘をついているような感じではなかったし、その必要もないはずだった。おそらく権藤はそう確信していたに違いない。もちろん村上もそうだ。
 しかし、それが事実ではなかったとしたら。他に誰か、渡利に情報を流しつつ、それを熊谷の仕業に見せかけるという工作をしている人物がいたのだとしたら。
 そう考えれば、仮に村上が本当にクラッキングを仕掛けたのだとしても納得が行く。熊谷のファイルに渡利の事件が含まれていたかどうか、確認しなくてはならないからだ。そして、渡利純也の”協力者”がまだ警察にいて、村上が何を調べているのかを知っていれば、村上がファイルに接触することを予想するのはたやすい。村上が証拠を残さずに事を済ませていたとしても、上社が言うように村上を陥れる工作をすることは充分に可能なのだ。
 アタシは暗澹たる気持ちになった。父親が誇りを持って勤めた職場が、そんな奴らに蝕まれているのだ。しかも”協力者”が絶妙のタイミングで監察官室を動かせるだけの力を持っているのだとしたら、それはかなり上層部の人間だということになる。

 眠れそうにないのでベッドから身体を起こした。
 音楽でも聴こうかとコンポのリモコンに手を伸ばしかけたが、考えを変えて村上のiTunesのアイコンをダブルクリックした。
 村上はiPodなどの携帯用のプレーヤーは持っていない。誰かの受け売りらしいが”仕事に義理を絡めない、友情にセックスを絡めない、音楽にコンピュータを絡めない”というのが彼のポリシーだからだ。
 それでもアルバムの中の好きな一曲だけを買えるのと、もっと言うなら、CDショップまで出向く時間がないという理由でiTunesは利用しているのだ。最近はもっぱらこっちがメインになって、自嘲気味にポリシーの変更を口にしていたくらいだ。
 ”お気に入り”というプレイリストを開いて、再生ボタンを押した。流れ始めたのは〈Merry Christmas Mr.Lawrence〉だった。
 鍵盤から澄んだ音色を拾い上げるような精緻なメロディ・ライン。アタシはこの映画は見たことはないが村上は気に入っていて、メインテーマであるこの曲をピアノで弾こうとしたことがあると言っていた。もっとも習ってもいないピアノは無理だったようで、結局は断念したらしいが。
 曲はランダムに〈Calling you〉から〈She〉、〈Shape of My Heart〉と続いた。〈バグダッド・カフェ〉〈ノッティング・ヒルの恋人〉〈レオン〉。どれも見たことがある。中でも〈レオン〉は村上がレンタルビデオを借りてきたのを一緒に見た。幼いナタリー・ポートマンがひどく色っぽくて、映画のストーリーよりもそっちのほうが気になってしまったほどだ。
 スティングのしゃがれたヴォーカルと切なげなギターがフェードアウトしていって、やがて次の曲が始まった。音圧のあるストリングスのイントロから重苦しいベース・ライン。それに哀愁たっぷりのアルトサックスが重なる。やがて、ちょっとクセのある湿度の高いヴォーカルがメインテーマを歌い始めた。
 マリーンの〈Left Alone〉だ。
 ジャズ・ナンバーなのに、映画用ということでむやみにドラマティックなアレンジになっている。マリーンのフィリピン訛りの英語は、不思議なことにかえって歌詞を聞き取りやすくしていた。

Where's the love that's made to fill my heart
Where's the one from whom I'll never part
first they hurt me,then desert me
I'm left alone,all alone

Where's the house I can call my own
there's no place from Where I'll never roam
town or city,it's a pity
I'm left alone,all alone

Seek and find they always say
but up to now,it's not that way

Maybe fate has let him pass me by
or perhaps we'll meet before I die
hearts will open but until then
I'm left alone,all alone

 この曲が村上がジャズを聴き始めたきっかけだと教えてくれたのは菜穂子だった。それまでは特に興味があるようなことは言ってなくて、むしろ、当時の村上はレスポールをかき鳴らす典型的なロック・ギタリストだったらしい。
 それが唐突にジャズにはまってしまって、CDの棚は瞬く間に様相を変えてしまったのだそうだ。今でこそジャズ以外も聴くようになっているが、一時期は「ジャズ以外は音楽に非ず」の状態だったというのだから、よほどインパクトが強かったのだろう。
 アタシが〈Left alone〉について知ってることは、これがビリー・ホリデイの詞にマル・ウォルドロンが曲をつけたもので、しかし、結局はホリデイによる録音がなされないまま、彼女が亡くなってしまったという逸話くらいだ。その後、追悼の意味を込めて制作されたアルバムではアルトサックスでテーマが吹かれていて、スタンダードという意味ではヴォーカルのものよりそちらのほうが認知度が高いらしい。
 いずれにしてもアタシにはジャズはよく分からないし、興味もない。バンドで歌っていた頃に声質がジャズ向きだと言われたことがあるが、歌ってみようという気にはならなかった。
 アタシがジャズを好まない理由は極めて単純だった。村上が愛してやまないというこの〈Left Alone〉という曲が嫌いだからだ。

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