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Left Alone

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  第 43 章 

 西区愛宕にある敬聖会総合病院に向かう二人を見送ってから、アタシは中洲へと向かった。リストに載っている立花正志の住所が中洲三丁目になっていたからだ。
 かつては中洲玉屋という老舗の百貨店、今はGate’sという複合型の商業ビルの裏側になるその一画は住居の類はあまり見当たらない地域だ。中洲のメインストリートのガラの悪い客引きがたむろする辺りから入った路地沿いで、通りの看板も”個室ビデオ”だの”ファッションパブ”だの、何をやってる店か分からないものが多い。すぐそこに中洲交番があるにもかかわらず、中洲でもあまり治安の良くないところだ。
 路地の曲がり角にあるゲームセンターから出てきた男が、ギョッとしたような目をアタシに向けながらすれ違って行った。
 キャップを目深にかぶってサングラスはやりすぎかな、と思わないではない。誰に見られるか分からない上にもし立花とその手下に見咎められるようなことがあれば、あの夜の延長戦に突入しかねない。そんなところを素顔でウロウロする気にはならなかった。まさか客引きに声をかけられることはないだろうけど、ちょっかいをかけられるのも避けたかった。
 今年の夏前に閉鎖されたストリップ劇場の前を通り過ぎて、他の通りと比べて怪しい佇まいのビルの並びから<第二丸山ビル>を捜した。立花正志の居所はそのビルの四階とリストにある。
 陽光がまるで嫌がらせのように照り付けて、できるだけ日陰を選んで歩いたのに背中にはかなりの汗が伝っていた。暑さを呪う罰当たりな文句を呟きながら自販機を探していると、目当ての六階建ての雑居ビルが見つかった。四階には<ナカス・ハッピー・クレジット>というベタな店名の看板が出ていた。
「……ここか」
 独りごちながらビルの入口に近づいた。
 タイル壁に埋め込まれた案内板にも同じ名前があって、小さな字で貸金業の県知事登録番号が記してある。同じ階には<ブルー・シャトー>という扇情的な紫色の看板が出ているだけだ。年季の入った灰色の外壁はもちろん、見える範囲では何処にも青をあしらっている様子はない。
 不意に目の前のエレベータが着いたことを示すチャイムが鳴った。
 どうしようかと考える余裕もなくエレベータのドアが開いた。乗っているのは細身の身体を下品なピンストイライプのスーツに包んだ男だった。
 一瞬、立花が連れていたケンという若い男に見えて身構えそうになったが、それは出来損ないのデトロイト・スタイルのボクサーではなかった。とっさに顔を伏せてモジモジと何かを躊躇っているような素振りをしてみせる。
 エレベータから降りてきた男は胡散臭そうな目でアタシをジロリと睨んだ。背後でエレベータのドアが閉まりかけた。
「……あ、すいません、乗ります」
 か細い声で言いながら男の横をすり抜けてエレベータに乗る。箱の中の鏡に映っていた男は何事も無かったように背中を向けていた。上手く”金策に困って街金融に手を出そうとしている馬鹿な女”に見せかけることができたようだ。自分が女優に向いているなんて考えたこともないが、こういうとっさの演技力は我ながらなかなかのものだったりする。
 安堵のため息をつきながら五階のボタンを押した。
 頭の中でプラン――というほど大げさなものではないが――をもう一度確認する。ここへ来たのは村上のリストにあった立花正志が、和津実のアパートの前で事を構えたタチバナなのかを確かめたかったからだ。
 できれば本人の顔を見て確認したかったが、どうせ店内に入ることなどできはしない。もし両者が同一人物なら文字通り墓穴を掘って横たわりに行くのと同じだからだ。四階に上がることさえケンやハルと出くわす無用なリスクなのだ。
 そうとなれば手立ては一つしかない。
 一つ上の階で降りて、誰かと鉢合わせしないように用心しながら階段を下った。
 もともと店舗用の造りではないようで、外階段に面した正方形に近いスペースに向かい合わせに二つのドアがある。ブルー・シャトーのドアが青く塗られた木製なのに対して、ナカス・ハッピー・クレジットのそれは明らかに補強されたスチール製だった。安穏としていられる商売ではないのだろう。
 ドアの間のスペースを見回す。エレベータの横の壁にお目当てのもの――火災報知機があった。おあつらえ向きにプラスチックのカバーを押し破ってボタンを押すタイプのものだ。天井埋め込み型の感知器だったときのために用意していた使い捨てライターはひとまず不要なのでポケットに戻した。
 火災報知機に近寄って大きく息を吸い込む。
 もし、立花正志がタチバナでなかったときはアタシはただの迷惑犯だが、まぁ、こんなところで金貸しをしているような連中が真っ当な人生を歩んでいるはずはない。因果が巡ってきたのだと思ってもらうことにしよう。
 心の中で「せーのっ!」と掛け声をかけてライターの尻でボタンを押し込んだ。周囲の音が消え去ったような一瞬の沈黙に続いて、耳をつんざくような大音量のベルが響き渡った。
 身を翻して階下へと駆け下りた。
 外に出る瞬間だけ立ち止まって、通行人がいないかを素早く見渡す。夜は有象無象の人影がうろつくこの辺りも昼間は閑散としている。居酒屋の従業員のような若い女の子が何事かという顔でこっちを見ているだけだ。アタシは気にせずに通りに出て向かいのビルとビルの狭い路地に身体を滑り込ませた。誰もアタシを呼び止めたり「あいつが犯人だ!」と指差したりはしなかった。
 人目がないことを確認してサングラスと帽子を外した。重ね着していたTシャツを脱いでキャミソールだけになる。露出度満点だが、この暑さの中ではそんなに不自然ではないはずだ。天神コアやキャナル辺りに行けばもっとすごいのがいる。
 Tシャツと帽子をバッグに押し込んで路地を反対側まで抜けた。女の子から遠ざかるほうへ区画を廻って第二丸山ビルの入口が見えるところへ移動した。わずか数分の間に、いったい何処にいたのかと問いたくなるほどの野次馬が集まっていた。アタシもその一人のふりをして見覚えのある顔を捜す。
 真っ昼間から仕事をサボっていたようなサラリーマン風の男や、暗いところでなら二〇代で通せるかもしれない厚化粧のオバサンに混じって、見覚えのある男がビルの上の階を見上げているのが目に留まった。真夏だというのにダークグレイの長袖シャツに、だらしなく結んだサテンのネクタイ。ダボッとしたシルエットのスラックス。カミソリで薄く削いだような細い眼差し。酷薄そうな顔立ちのオールバック。タチバナの部下、ケンだ。一人で店番でもしていたのか、連れらしき人物はいない。彼をそのまま老けさせたような白い貌の男も、クチビルデブの巨漢の姿もなかった。
 ベルが鳴り響く割に一向に炎が立ち昇る様子がないことに、誰かが気づいたようだった。逃げ出してきた人たちは互いに顔を見合わせて、表情や物腰に怒気を帯びさせ始めている。野次馬の中には「……なんだよ、つまんねえの」と吐き捨てる輩もいて、そこまで露骨ではなくてもその場全体に不謹慎な失望感が漂い始めていた。
 やはり、あのタチバナこそがリストの人物、立花正志で間違いないわけだ。それが分かれば、これ以上、ここにいる理由はなかった。巻き添えを喰った人たちに内心で詫びながら静かに踵を返した。
 心臓の高鳴りはとっくに収まっていたが、反動のように額に汗が噴き出してきていた。それがこの暑さの中で全力疾走したことによるものか、目的のためとは言え恐ろしく大胆な手に打って出た自分への驚きによるものかはハッキリしなかった。

 ほとぼりを冷ますというわけでもないけれど、対岸の上川端商店街のアーケードまで歩いた。昭和の雰囲気を色濃く残す――と言っても、アタシは昭和という時代のことをほとんど知らないが――よく言えばレトロ、ちょっと口さがない連中に言わせれば年寄り向きの商店街だ。ブティックでもショップでもなく”洋品店”としか呼びようのない店やこじんまりした生活雑貨の店に混じってどういうわけだか仏具店が三軒もあって、アーケードの中に線香の匂いが漂っているような錯覚さえ覚えてしまう。それでも地下鉄の中洲川端駅からキャナルシティへの通り道であるせいで人通りは多い。
 由真なら絶対に立ち寄りそうにない洋品店で、今着ている黒いキャミソールや脱いだダークブルーのTシャツとできるだけ印象の違う服を探した。居酒屋の女の子が見た”ビルから逃げ出してきた怪しい大女”のことが第二丸山ビルの住人たちの耳に入ることはまずないだろうが、入口ですれ違ったピンストライプ氏とは何処かで鉢合わせる可能性がゼロではない。
 冷静に考えれば、一瞬すれ違っただけの女の服装を事細かに覚えているはずはない。アタシだって彼が違う服を着ていれば同一人物だと言い当てる自信はない。それでも、何か手を打っておかずにはいられなかった。要するにそれくらいアタシは自分がやったことにビビっていたのだ。
 黄色と緑と黒というジャマイカン・カラーのダブダブのTシャツとヘインズの男物のノースリーブを買って、反対側の並びにある喫茶店のトイレでそれらに着替えた。汗ばんだ下着も替えたかったがこの商店街でスポーツブラが手に入るとは思えなかった。いくら貧乳でもノーブラというのは憚られる。仕方がないので我慢することにした。
 アイスコーヒーを啜りながら今後の手立てに思考を巡らせた。
 郁美の行方は由真に任せておけば大丈夫だ。と言うより、由真が持っている手立てで発見できないのなら、アタシには門前払いを覚悟で県内、そして隣県の更生施設を訪ね歩くしか手がなくなる。
 彼女さえ見つかれば多くのことに答えが得られるはずだ。特に――望んだ形ではなかっただろうが――渡利や倉田兄弟、守屋卓といった男たちの懐にいた郁美は多くのことを見聞きしていたに違いない。渡利と警察の密約についても手掛かりが得られるだろう。それまでにアタシがやっておかなくてはならないことは、それ以外の人物について一つでも多くを知っておくこと、少しでも関係者の輪郭をつかんでおくことだ。

「……で、何を根拠に私が立花なんて男のコト、知ってると思うわけ?」
 トモミさんはガサガサした麻の布を連想させる、低くてハスキーな声で言った。ずっと前にも同じようなことを言われた覚えがある。あれは二年前の事件のときじゃなかっただろうか。
 その時と違うのは、トモミさんがアダムス・ファミリーのモーティシアのような厚化粧をしていないことと、お気に入りのスカンジナビア家具のソファではなく病院のベッドに横たわっていることだ。それと、かつての豊かな体つきが見る影もないほど痩せ細ってしまっていること。
「だって、アタシの知り合いでそっち方面のことに詳しそうな人って言ったら、トモミさんくらいしかいないんだもん」
「ま、そうだろうけど」
 立花正志は漠然と形を成しつつある一連の出来事の中でもひときわ不可解な存在だった。
 リストは村上が渡利純也の事件を知る人々を辿っていく過程で作られたもののはずだ。ある人物に話を訊く。その人物は具体的なことは知らない、あるいは話してくれない。しかし、その会話の断片の中に新たな誰かの名前や手掛かりが挙がる。村上はあるときは自分で、あるときは上社の協力を仰ぎながら、その細い糸が切れないように慎重に手繰り寄せていたのだ。ランクAが事件の中心人物たちでBが重要関係者、CやDは真相までの道のりを繋ぐ通過点なのだろう。
 リストによると立花正志のランクはB。重要度としては和津実と同格ということになる。しかし、立花が和津実と関わりを持ったのは彼女が夫と共に金を借りに来て以降のはずだった。三年前の段階で立花が事件に関わっていたような話は聞いた覚えがないし、ドラッグ密売で懐が潤っていた渡利が街金融から借金をしていたとは考えにくい。
 もちろん、和津実は借金のカタに渡利が残したドラッグや金を引き渡す話をしている。まったく無関係だとは言えない。しかし、和津実の捜索が頓挫した以上、結局はそれらには手も触れていないのだ。村上が知りたがっている情報を立花が持っているとは思えなかった。
 なのに、村上は彼を自分の調査にとって重要な人物だと見做していた。つまり、立花正志は事件と関わる別の側面を持っていることになる。
 だとすれば、彼の来歴を知っておく必要があった。そして、そういう事情を探るのにうってつけの人物を、アタシは目の前の”中洲の生き字引”以外に知らない。
「――ま、いいんだけどさ。ところで真奈、お土産買ってきてくれた?」
 トモミさんは無邪気な口調で問う。しかし、アタシは小さくため息をついてやった。
「残念でした。何にもないわよ」
「なにさ、ケチ」
「しょうがないでしょ。この前だって大丈夫って言うからチロルチョコ買ってきてあげたら、途端に血糖値が上がって主治医の先生にバレちゃったんじゃない。アタシまで大目玉食らったんだから」
「いいのよ、医者が言うことなんか聞かなくたって。今さら少しくらい我慢したって寿命が延びるわけじゃないんだから」
「やなこと言わないでよ。アタシの結婚式まで頑張るんでしょ?」
「そうだったわね」
 トモミさんは悪戯を見咎められた子供のようにペロリと舌先を覗かせた。抗ガン剤の影響で自慢の黒髪が抜けてしまっていて、それを隠すために真夏だというのにニット帽を被っている。化粧をしていないとビックリするほど凛々しい顔立ちで、アタシはそれでようやくトモミさんの戸籍上の性別が女ではないことを思い出すのだ。
 電動ベッドの背を起こして、トモミさんはアタシに向かい合った。
「久しぶりに話すと、喉が渇くわね」
 トモミさんはベッドサイドに手を伸ばした。椅子から腰を浮かせて、彼女の手にウーロン茶のペットボトルを握らせてやる。取り落とさないようにしっかり握るまで手を離すことはできない。本人の気丈な態度とは裏腹に、それほどまでにトモミさんの身体は衰弱している。
 彼女を襲った病魔はすい臓ガンだ。それが原因で糖尿病を併発していて、今ではインシュリンの注射と投薬が欠かせなくなっている。ガンそのものの発見が早かったおかげで手術を受けることはできたが、それもいつ再発するか分からないらしい。由真に調べてもらったところではガンの中でも著しく生存率が低いのがすい臓ガンだという話だった。
 もっとも、告知を受けた本人は意外とサバサバしていて、経営していた中洲の高級クラブを長年勤めた支配人に譲ってさっさと療養生活に入ってしまった。少なくともアタシの前では取り乱したり自棄になったりせず、それどころか「真奈の披露宴では花嫁よりも派手なドレスを着るんだから!!」と笑わせてくれている。
 それがどれほどの克己心を必要とするかを想像すると、アタシはいつも胸が潰れるような想いがする。アタシが例のブライダル・ショーの代役を引き受けた理由の一部は、トモミさんにアタシのドレス姿を見て欲しかったからだ。
「――で? アンタ、今度はいったい何をやってるの?」
「うん、ちょっと長くなるけど……」
 アタシはこの前の話――アタシを訪ねてきた白石葉子というラウンジ嬢が父の事件に関わっていたらしいという話――がまるっきり違う話へと変わってしまった経緯を、できるだけ分かりやすくなるように話した。トモミさんは子供の取り留めのない話を辛抱強く聞いている母親のような表情でアタシの説明を聞いていた。
「話が入り組んでてすぐには理解できないんだけど、要するにその立花って男がシンさんの事件にどう関わってるのかってことなのね?」
「そういうこと」
 シンさんとはアタシの父親のことだ。
 元彼(!)が逮捕されて共犯容疑をかけられたときにアタシの父親が取調べを担当したのが馴れ初めで、トモミさんはアタシの父親の自称・恋人ということになっている。一応、フィリピンだかインドネシアだかで手術済みなのだそうで、その気になれば事に及ぶこともできるらしいのだが、物好きで通っていた父もさすがにそれはお断りしていたようだ。
「ナカス・ハッピー・クレジットって言ったわね。――ちょっと待ってて。お友だちに訊いてみるわ」
 トモミさんは枕元からケイタイを手に取った。病室での携帯電話は禁止されていないようでトモミさんは堂々と充電器を置いている。
「――ねえ、真奈。悪いんだけど、一階の売店でティッシュ買ってきてくれない?」
「あれっ? この前、まとめて買ってきといたじゃない」
「痰がからむんで使いすぎちゃったのよ」
 トモミさんの声に何となく微妙な響きがあった。誰に電話をかけるのか分からないが、アタシの前では話しにくい相手なのだろう。
「分かった。他には?」
「何か適当に雑誌をお願い。実話系は飽きたんでスポーツ雑誌がいいわ。でも、あんた好みの格闘技系はNGよ」
「なーんだ、週刊プロレスが出たばっかりなのに」
 トモミさんは本当に嫌そうに顔をしかめた。
「何で男同士が上半身裸で抱き合ってるの、見なきゃなんないのよ」
「あれっ、そういうのが好きなんだと思ってたけど?」
「筋肉ダルマに興味はないわ。私はシンさんみたいな苦み走った渋い男が好きなの」
「趣味、悪……」
「さっさと行きなさいよ」
 トモミさんは手でアタシを追い払う仕草をしてみせた。アタシは彼女の真似のアカンベをして病室を後にした。

 いろいろと迷った挙句、「NIKITA」と「ワールド・サッカー・ダイジェスト」を買って病室に戻った。トモミさんはアタシの周囲にいる数少ないサッカー・フリークで、ドイツ・ワールドカップのときには試合の詳細な解説や”神様”への痛烈な悪罵を聞かされる羽目になった。仕事柄、他のスポーツ――特にプロ野球の話題も如才なくこなすらしいが、人が聞いていないところでは平然と「野球はジジイの暇つぶし」などと言い放つ始末だ。
 雑誌を手渡すと、トモミさんは「ワールド・サッカー・ダイジェスト」の表紙の金髪の若い選手に愛おしそうな視線を落とした。
「ねえ、この子、カッコいいと思わない?」
「誰、それ?」
「フェルナンド・トーレス。スペイン代表のストライカーよ」
「ふん、何が”苦み走った渋い男が好きなの”よ。結局は顔なんじゃない」
 これみよがしに鼻を鳴らしてやった。トモミさんは意にも介さずにアタシを見返す。
「少しくらい目の保養したっていいじゃないの。あんたこそ、こういうタイプには興味ないの?」
「まったく。外人はみんな同じ顔に見えるし」
「あー、やだやだ。その歳でもうそんなに枯れてるの?」
「どれだけハンサムでも声がドナルド・ダックで、おまけに奥さんの尻に敷かれてるんじゃ萎えるわ」
「あれは例外だってば」
「ど−だか」
 椅子に腰を下ろして、買ってきた缶コーヒーのプルタブを起こした。
「――で、どうだった?」
 トモミさんは小さなため息をついて雑誌を傍らに置いた。
「結論から先に言っちゃうと、何者なのかは分からなかったわ」
「そうなんだ?」
「落胆するのは早いわよ。それは言い換えると、昔から業界にいる人間じゃないってことなんだから」
「どういう意味?」
「ナカス・ハッピー・クレジット、法人としては蒲原商事っていうんだけど、その会社自体はずっと以前からあるの。少なくとも一〇年以上前からね。あんまり大きな声じゃ言えないけどオーナーの蒲原氏はウチのお客さんだったのよ」
「だった?」
「今は”別荘”にいらっしゃるの。ま、そういう業界の人なんで余技でいろいろ手広くやってたんだけど、仕手戦でちょっとやり過ぎちゃってね」
 仕手戦が何のことかはよく分からないけど、本筋とは関係なさそうなのでとりあえずスルー。
「じゃあ、その元オーナーが逮捕されて立花正志がその後釜に座ったってことなのね――って、ちょっと待って」
「なあに?」
「街金融って普通の会社みたいに経営者が替わったりできるの?」
「どういう意味かしら?」
「だって、そういうところって普通、ヤクザがバックにいたりするじゃない。そういう連中は何も言わなかったのかな。――詳しいことは分かんないけど」
「確かにそうね」
 トモミさんは取り落とさないように気をつけながらペットボトルを口許に運んだ。
「街金だから必ずしも組ベッタリってわけじゃないけど、ケツ持ちの連中に断りもなく勝手に替わったりはできないわ」
「ってことは、立花はヤクザの関係者ってこと?」
「組関係じゃないはずよ。そんな男、知らないって言ってたから」
 素っ気ない物言いだった。しかし、それは同時にトモミさんのお友だちの出自を表していた。
「その人、ヤクザなの?」
「真奈、それを訊かれて、私がそうよって答えると思う?」
 トモミさんは目を細めて薄い微笑を浮かべていた。
 背筋にほんの少し、冷たいものが走るのを感じた。屈託のない人柄につい忘れそうになるが、目の前の彼女は綺麗事では済まない世界を渡り歩いてきた人間なのだ。
「でも、あんたが言う通りね」
 アタシの変化に気づいたのか、トモミさんは殊更明るい声で行った。
「ただの素人がフラッと現れて、いきなり中洲のど真ん中で商売できるはずはないもの。上手く行けば、あの店のケツ持ちから情報を取れるかもしれないわね」
 アタシはうなずいた。
「でも、大丈夫なの?」
 トモミさんの世界はアタシには理解できない複雑な力関係で成り立っている。それくらい、アタシにだって分かる。簡単そうに言ってのけることでも足元を掬われないように――あるいは誰かを刺激しないように――細心の注意を払わなくてはならないはずだ。
 本来ならつまらない雑事に気を使わせたりせずに療養に専念させてあげなくてはならない人なのだ。軽い気持ちで頼ってしまったことをアタシは後悔し始めていた。
「バカね、何の心配してるの。その程度のことを嗅ぎ回ったくらいで何も起こったりしないわよ」
「……そう?」
「そうよ。それにそいつはシンさんの事件の真相に何らかの関わりがあるんでしょ。だったら、これは私の役目よ。真奈が変に気を揉む必要はないわ」
 トモミさんの顔を見た。人相が変わるほど痩せ衰えていても、アタシに向けられる優しい眼差しにまったく変わりはなかった。
「……ありがと」
「どういたしまして。ねえ、ところでコレなんだけどさ、あんた、こういうの似合うんじゃないの?」
 そう言って差し出されたのは、買ってきたもう一冊――「NIKITA」だった。開かれたページには真面目にやってるのかと説教したくなるフレーズと一緒に、むやみに胸元を強調するようなサテンのドレス姿のモデルが写っていた。
「やだよ、こんな胸元が開いたの」
「どうして?」
「だって、アタシ、こんなに谷間ないし」
「そう言われりゃそうねえ。あんた、そこに回る分の栄養は何処にやっちゃったの?」
「あ、ひっどーい!!」
 トモミさんは目元にシワを寄せて悪戯っぽく笑っていた。アタシもつられるように何とかぎこちない笑みを浮かべた。

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