Left Alone

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  第 45 章 

「へえええ、真奈ちゃんって意外と面食いなんだぁ?」
 留美さんの声には露骨に冷やかしのニュアンスが混じっていた。
「意外と、ってなんですか。言っときますけど、アタシ、遊び相手のルックスにはうるさいんですよ」
「でも、コウジと付き合ってたんだよね」
 勝手に借用した由真のお得意のフレーズはあっさりと否定された。
「……べ、別に顔で選んでるわけじゃないですから」
「うーん、この人を選んどいてそのセリフは納得できないなあ」
 留美さんの手の中にはアタシのケイタイがある。写真を見せる、見せないのやり取りでアタシは最初、村上の画像など持っていないと言い張っていた。ところが留美さんが「だったら由真ちゃんに訊いてみる」などと言い出したので、しぶしぶ一枚だけケイタイに残してあるものを見せることにしたのだ。
「なんでコレ、待ち受けにしないの?」
「……やり方が分かんないんで」
 それは事実であるが、本当はそんなこっ恥ずかしいことができるわけないからだ。万が一にも村上本人に見られたら、何を言われるか分かったものではない。
「じゃあ、やっといてあげるね」
「へっ?」
「はい、できた」
 戻ってきたケイタイの画面には珍しく仏頂面ではない村上が映っていた。一昨年のクリスマスに村上が食事に連れて行ってくれたときに、自分のデジカメを忘れた由真が勝手にアタシのケイタイで撮ったものだ。
 自分もそうだがアタシの周囲には写真嫌いが多い。その際たるものはアタシの父で、写真を撮ろうとすると「魂を抜かれる」などとほざく始末だった。そこまではなくても村上もあまり好きではないようで好んでは映ろうとしない。
 それだけが理由ではないが、アタシはこれを含めて数枚しか村上の写真を持っていない。昔、撮ったものは彼が父を告発したときに焼き捨ててしまった。
「そんなことより、このへんだよね?」
 留美さんはハイラックスをゆっくり走らせながら、道端の住所表示を睨んでいた。
 美野島や住吉、春吉、清川といった那珂川沿いの一帯は天神の南側にあって、繁華街と目と鼻の先にありながら昔からのゴチャゴチャした街並みを今に残している。大通りに面したところには背の高い立派なビルが建ち並んでいるが、その裏側は二階建ての軽量鉄骨のアパートや木造建築の民家が狭い土地にひしめき合っているのだ。喩えは良くないが、この光景を見るとハリボテのセットとその裏側を連想してしまう。
 曲がり角の壁に貼り付けられた緑色のプレートを見ながら、留美さんはハイラックスを狭い路地に乗り入れた。アタシもロードマップで位置を確認する。大まかなブロック表示しか載っていないが目印がないよりはマシだ。
「……これかな?」
「これですね」
 留美さんが示した先にはスレート壁の古びたアパートがあった。刺すような西日に晒されて建物全体が風化しつつあるような印象だった。他人の住まいを悪く言ってはいけないことは分かっているが、あまり暮らし向きの良い人の住むところではなさそうに見えた。
 村上のリストを取り出した。サンコーポ美野島――間違いない。部屋番号は二〇六。なのに、並びには部屋は五つしかない。
「四号室がないんだね。それだけ古いってことか」
 通りにはこの大きなクルマを停めておける余裕はなかった。美野島の表通りにあるボーリング場にハイラックス停めて、そこから歩いて戻った。鉄製の手すりがついた階段を上るとカンカンと硬い足音が響く。まだ日が沈むのには早くて、影は足元に長く伸び始めている。
 二〇六号室のドアの横には錆びついてペンキの剥がれた郵便受けがあって、名前を書いたプレートを差し込むスリットには横書きの名刺が差し込んであった。椛島博巳の名前と”店長”の肩書き。半分隠れた所在地や電話番号は塗り潰してある。
 スリットから引き抜いた名刺には”ロンド・ベル”という中洲二丁目にあるゲーム喫茶の店名が入っていた。
「あれっ、これって」
 留美さんがアタシの手元を覗いた。
「知ってるんですか?」
「うん。行ったことはないけど、確か、去年オープンした店だよ」
「その店長ってことは、やっぱり椛島は福岡に帰ってきてるんですね」
「そうだね」
 少し考えて、その名刺を折ってポケットに入れた。
 問題は下手を打って福岡を離れていた椛島が、村上の調査のどの部分に関わっているのかということだった。事件に関わる誰もがそうであるように、椛島もまた渡利純也のドラッグ密売グループに関わりがある。しかし、それは前オーナーとしてだ。村上が追っている渡利と警察のつながりとの関係があるとは思えない。
 そもそも、椛島はどうして福岡に戻ってきたのだろう。
 理由は幾つか考えられる。そろそろほとぼりが冷めたと思ったのかもしれないし、逃げた先での生活が上手くいかずに逃げ帰ってきたのかもしれない。実は福岡に残していった恋人がいて、逢いたくて仕方がなかったことも考えられる。もっと単純にホームシックになったというのもありだろう。しかし、どんな理由だったにせよ、椛島が帰ってきて早々に手をつけたのが奪われた密売ルートを取り返すことだったのは想像に難くない。
 脳裏に和津実が言っていたことが甦った。彼女は渡利が死んでしまったことで誰かに追われる羽目になったと言っていた。漠然と渡利が警察の庇護によって退けていた連中の逆襲だと思っていたが、あるいは、椛島から追い込みをかけられていたのかもしれない。
 いずれにせよ、それは椛島本人に訊くしかないことだ。意を決してドアをノックしてみた。最初は控えめに、二度目は少し乱暴に。反応はない。
 ドアの周りに視線をめぐらせた。廊下側の窓はキッチリ閉まっていて中の物音らしきものは聞き取れない。電気のメーターが回っているので誰か住んでいることは間違いないが、人の気配は感じられなかった。
「留守かな?」
「ですね」
「……真奈ちゃん、なんでそんなに落ち着いてるの?」
 留美さんの声はどこか不安げだった。部屋の住人の素性について聞かされれば誰だってそうなる。アタシのほうがおかしいのは間違いない。
「帰ろっか。留守じゃしょうがないし」
「ですね」
 得意のウラ技で鍵を開けてもよかったがそうするにはまだ日も高いし、作業中に椛島博巳が戻ってくるかもしれない。住人が帰ってくるはずのない葉子のアパートとはわけが違うのだ。
 階段を下りて路地裏を歩いた。空振りには違いなかったが、それでもリストに載っている一人の影の端くらいは踏みつけることができた。
「ロンド・ベルってどこらへんにあるか、知ってますか?」
「分かると思うよ。って言うか、行くの?」
「どうせ、夜には中洲に来る用事がありますからね」
「どこ?」
「ラ・ロシェル」
「ヤスとカズと逢うつもりなの!?」
 和津実を殺したのが権藤康臣であるかどうかは今のところハッキリしたことは言えない。しかし、いずれにしても和津実が死んだという事実は倉田兄弟にも少なからず影響を与えているはずだった。
 もし和津実が殺される理由があるとするなら――しかも、あんな惨たらしい方法で――三年前に彼らが関わっていた事件以外には考えられない。彼らもそう考えるはずだ。いくら膨大な借金を抱えていたしても、和津実がそれを苦に自殺するようなタマではないことは彼らが一番よく知っている。揺さぶりをかければ何かが転がり出てくる可能性は充分にあるはずだ。出たとこ勝負の誹りは免れないが、それがアタシの目論見だった。
「素直に話すとは思えないんだけどな」
 留美さんの声は暗かった。考えてみれば双子のキックボクサーの存在を教えてくれたのはこの人だ。当然、その人となりも知っているということになる。
「確かにアタシは渡利を殺した刑事の娘ですからね。あんまり友好的な雰囲気にはならないかもしれないです」
「だったら、やめといたほうがいいんじゃない。わざわざ、危ない目に遭いにいくことないじゃないの」
「でも、突っついてみないと何が出てくるか、分かんないじゃないですか」
「ヤブヘビだったら?」
「そのときは……ヘビ退治するしかないでしょうね」
「そういう腹積もりなわけね」
 留美さんは芝居がかった大きなため息をついた。頭痛のように顔をしかめて、無造作な感じで頭を掻いている。
「ところで真奈ちゃん。念のために訊いてみるんだけど、ホストクラブ行ったことあるの?」
「ありませんけど」
「じゃあ、あたしも着いてっていい? 一応、ホストクラブ経験者なんで」
「経験者?」
「そう。常務のお供で何回か、ね」
「へえ……」
 しかし、その提案はあっさりとは飲めない。椛島の部屋も事と次第によっては充分に危険なところだが、それでも、まだ昼間で周囲の住人の目もある。いざとなれば大声で助けを呼ぶことだってできる。
 しかし、夜の中洲ではそういうわけにはいかない。店の中に入ってしまえばそこは密室なのだ。
「一人で行きます。和津実のことだってあるのに、留美さんまで危険な目に遭わせたらアタシ、留美さんのご両親に――」
「ちょっと待った」
 留美さんはアタシの言葉を遮った。
「あのさ、真奈ちゃん。だったら余計に一人じゃ行かせられないよ。多勢に無勢って言葉、知ってる?」
「店の中には他のお客さんもいますし、そんなにムチャなことはできないと思うんですけど」
「お酒にクスリとか混ぜられたらどうする?」
「それは――」
 確かにそういう危険もまるでないわけではない。
「いい、真奈ちゃん。自分が女の子だってもうちょっと自覚したほうがいいよ。それでなくても相手は飢えた狼なんだから」
「誰もアタシなんか襲いませんよ。留美さんとか由真ならともかく」
「あのね、ウチの社長の目は節穴じゃないのよ。男がその気にもならないような娘、バイトなんて今までなかった契約で雇ったりすると思う?」
 留美さんはアタシの顔を覗き込んで、もう一度、盛大なため息をついた。
「何をするにしても、一人を相手にするよりは二人のほうが手間がかかるわ。それにあたしは曲がりなりにも顔見知りだし、第一、真奈ちゃんはあの二人の顔、知らないでしょ」
 それは確かにそうだ。源氏名を使っていれば名前では分からないし、同じ顔のセットを探そうにも倉田兄弟は二卵性だ。
「そんなことより、変な手段に出るのを躊躇わせるだけでも、あたしが着いていく意味があると思うけど。違う?」
 アタシは留美さんの顔を見た。
「違わないです」
「でしょ?」
 留美さんは得意げにウインクした。アタシは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ねえ、何着ていくの?」
「それなんですよねぇ。迷ってるんですよ。いざってときのために動きやすい格好にしようとは思ってますけど、あんまりラフなのも変ですし」
「じゃあ、あたしがコーディネートしてあげよっか。真奈ちゃんなら、あたしの服でもだいたいサイズ合うだろうしさ」
「ですね。お願いします――って、留美さん?」
 ハイラックスを停めたボーリング場に近づいたところで留美さんは唐突に立ち止まった。路地の一角を食い入るように見つめている。
 視線の先では長袖のシャツを着た三〇歳くらいの男、周囲を窺うようにキョロキョロしながら早足で歩いていた。両手に提げたスーパーだかコンビニだかのビニール袋は中身がパンパンに詰まっている。近所まで買い出しに行った帰りのように見えるが、それにしては挙動がおかしすぎた。
「どうしたんですか?」
「……なんで、あいつが?」
 留美さんはアタシの問いに答えず、爛々と輝く目で挙動不審者を睨みつけていた。
「誰なんですか、あの男?」
「和津実の旦那よ。あのクズ野郎、こんなとこで何やってんのよ」
 怒りに震える声が留美さんの爆発が近づいていることを示していた。遠目にも吉塚正弘が見栄えのする端正な顔と、それなりに締まった身体の持ち主であることが見てとれた。明らかに太陽以外のもので灼いた肌にはムラの一つもないのだろう。なのに、真夏だというのに長袖でそれを隠さなくてはならない理由は一つしかない。人目に晒せない絵柄がそこに描かれているからだ。
 俯き加減で周囲を睥睨する眼差しには苛立ちとも焦りともとれる剣呑な光が宿っている。ただ、その剣呑さは侵入者に向かってさかんに吠え立てる臆病な番犬と同じものに見えた。
 次の瞬間、何かが一つに繋がるのを感じた。本職にはなれなかったハンパなヤクザ者――二人の男に共通して与えられた形容詞。
 飛び出そうとした留美さんを無言で制した。
「何すんのよ、あのクソったれをぶちのめすんだから――」
「行先は分かってます。先回りしましょう」
「えっ?」
 吉塚が歩いていくのはどう見ても椛島のアパートの方向だ。まるで襲撃でも恐れるように狭い路地裏を小走りで進んで行く。しかし、奴が歩いていくほうは大回りになるのでアパートにたどり着くのはこっちが先だ。
 階段の下のスペースに身を隠していると、吉塚正弘が息を切らせながら帰ってきた。もう一度、用心するように路地を見やってから、大きな音を立てて階段を駆け上がっていく。
 事態が飲み込めない留美さんはキョトンとした顔だった。
「どうして?」
「吉塚と椛島はお友達なんですよ。まぁ、詳しいことは本人に訊くことにしましょう」

 何を慌てているのか、吉塚正弘はドアノブの鍵穴に上手く鍵を突っ込むことができずに手元でガチャガチャと耳障りな音をさせていた。
「吉塚さん?」
「――ッ!!」
 吉塚はバネ仕掛けの人形ように勢いよく振り返った。その拍子に取り落とした鍵がチャリンと音を立てる。
「だっ、誰だッ!?」
「そんなに驚かなくていいでしょ」
 他人を和ませる顔立ちではないという自覚はあるが、そこまで怖がられるような面相でもないだろう。失礼極まりない男だ。
 アタシが恐怖の対象ではないと知ると、吉塚はすぐに表情を一変させた。顎をしゃくりあげるように突き出して三白眼でアタシを見下した。
「なんだ、お前」
「質問に答えなさいよ。吉塚正弘さんで間違いないわね?」
「……誰だ、お前?」
「感動的なくらい、質問が洗練されてるわね。あんたの奥さんの使いの者よ」
 意味が通じるのに少し時間がかかった。
「奥さん?」
「ああ、そうだった。あんたたち、手当をいろいろ不正受給するために表向きは離婚してるんだったわね」
「和津実がどうした?」
 ここにもニュースを見ない男がいた。
 移動中に聴いたラジオのニュースによると、警察はようやく和津実の死を自殺ではなく殺人と発表していた。捜査陣が当初から事件性を匂わせていたせいで報道でもすでに和津実の名前は出ていたが、殺人だと断定された以上はニュースが再燃することは想像に難くない。時間的には夕方のワイド番組で取り上げられていてもおかしくないのだが。
 まあ、吉塚がそのことを知らないのはこっちには好都合だ。
「伝言があるの。和津実はこれ以上、あんたの借金の巻き添えになるのが嫌だからって福岡を離れたわ。借金が幾らあるのか自分でもわかんないけど、そういうわけだから、あとは一人で頑張って返してね、だって」
「……んだと?」
 話しながら吉塚の表情を慎重に観察する。ポーカー・フェイスを使いこなせるタイプではない。むしろ、内心の動揺が挙動に現れやすいほうと言っていい。現に吉塚はみっともないくらい視線を泳がせている。
 吉塚が和津実の死を知らないことは間違いなさそうだった。アタシは少しだけホッとした。母親が非業の死を遂げただけでも可哀そうなのに、父親がそれに関わっていたのでは息子があまりにも不憫だ。
「おい、おまえ。外じゃ何だから中に入れよ」
「アタシは別に外でもいいけど。と言うよりここ、あんたの部屋じゃないでしょ」
「構わねえよ。どうせ、しばらく帰ってこないんだから」
 声に焦りが混じった。いくら隣人の動向に無関心なのが世間の風潮でも、こんなところで女と言い合いをしていればさすがに目につく。それでなくてもこいつは世を忍ぶ生活をしているのだ。
 吉塚が再び鍵穴と格闘している間に手すりにもたれるフリをして階下の留美さんを見た。どこで調達したのか、一メートルほどの鉄パイプを肩に乗せている。ファッション誌から抜け出してきたような出で立ちとは不釣合いでも、その仕草は堂に入っていた。
 こっちに気づくと留美さんは目顔で様子を伺ってきた。アタシは心配ないと笑ってみせた。
 
 階段を駆け上がろうとしたところでアタシは思いなおして留美さんを制していた。理由は極めて簡単で、彼女が一緒では話ができないからだ。従妹の仇を目の前にして気が短い留美さんが理性を保てるのは、せいぜい吉塚が最初の一言を発するまでだろう。
(とりあえずぶちのめしてから、口を割らせればいいじゃん)
 それでも何とか囁き声で話す留美さんを見て、アタシは思わず苦笑した。
(その選択肢もなくはないですけど、まだ日が高すぎますよ。とにかく、この場はアタシに任せてください)
(でも……)
(実力行使に出るときはちゃんと呼びますから。留美さんはヤツが逃げ出せないように下で見張っててください)
(……真奈ちゃんってなんだか、こういうの場慣れしてるね)
 納得しきれない留美さんも、その場で言い合いをしている場合でないことは分かったようだった。アタシが不慣れなウィンクをしてみせると、留美さんも曖昧な微笑を返した。
 
 アタシは彼女に向かって小さくオーケーサインを出した。留美さんは小さくうなずいた。吉塚が声を潜めるので会話は聞こえていないだろうが、順調に事が進んでいることは伝わったようだ。
「おい、入れよ」
 鍵はようやく外れた。わざと大きな声で「はいはい、入ればいいんでしょ」と言う。留美さんにも聞こえたはずだ。
 1DKの部屋の中は「サウナのような」と言ったら業界から苦情が来そうな不快な暑さに満ちていた。埃とかび臭さ、汗とタバコの臭いが入り混じってむせそうになる。窓とカーテンは常に閉め切られているようで、換気扇とエアコンだけでは空気の入れ替えが不十分なのだろう。足元にうずたかく積まれたゴミの山からは腐敗臭もする。食べかすをそのまま放置しているのだ。
 村上は自分の部屋でほとんど食事をしないので、掃除をしていてもその手の不快な思いはさせられなかった。ときどきビールの空き缶が転がっている程度だ。アタシはそれでも村上を厳しく糾弾していたが。
 吉塚はベッドに腰を下ろした。アタシは何処に座ろうもなかったし、仮にスペースがあってもゴメンだったので立ったままでいることにした。
「どうして、この場所が分かった?」
「目撃情報があったのよ。身を隠してるんだったら日中は出歩かないことね。せめて、顔くらい隠したほうがいいと思うわ」
 それよりも中洲から目と鼻の先に潜伏していることのほうが驚きだったが、意外と灯台下暗しなのかもしれない。
「部屋の主がしばらく帰ってこないってどういうこと?」
「旅行に行ってるんだ。その間、俺がこの部屋の留守番。……おい、和津実は何処に行ったんだ?」
「アタシもそこまでは聞いてないわ。博多駅から下りの特急に乗ったようだから、熊本か鹿児島か。そっちのほうじゃないの」
「クソッ!」
 吉塚はケイタイを取り出して誰かの電話を鳴らした。和津実のケイタイだろう。アタシから遠ざかるように身体を捩って、何も聞き逃すまいとするように筐体を耳に押し当てている。しかし、彼はすぐに舌打ちして電話を切った。
「和津実、なんだって?」
「繋がらねえよ。呼び出しすらしねえ」
「でしょうね」
 当然のことだった。和津実のケイタイは南福岡駅のホームで持ち主と運命を共にしている。
「どういう意味だ?」
「さあね。あ、そうそう。アタシ、ナカス・ハッピー・クレジットの立花さんと知り合いなんだけど、ここの場所を教えてあげてもいい?」
「……なに?」
「和津実を攫って売り飛ばそうとしたり、あの人もかなり怒ってるみたいね。そう言えば、あんたを東南アジアに連れていくとか言ってたっけ。女に稼がせたお金を食いつぶすしか能がない男でも、内臓には売り先があるんだって」
 最後の一説はアタシのでっち上げだが吉塚はそこに一番の反応を示した。さっきの居丈高な物腰は消え去って中身のないハンサムな顔が恐怖に歪んでいる。
「すぐそこだから、電話すれば飛んでくるんじゃないかしら」
「おい、冗談よせよ」
「あんたが借金を作って帰ってくるたびに、和津実もそう言いたかったでしょうね」
 市営住宅の中を見て、アタシは和津実が意外なほど質素な生活をしていたことを知った。
 最初は夫婦揃って身の丈に合わない生活をしていたのだと思っていたが、和津実の持ち物はどれも大して金がかかっていなかった。服はどれも派手だったがブランド物は見当たらなかったし、夜逃げの荷物を詰め込んだルイ・ヴィトンも本物とは思えない雑な造りのコピー品だった。化粧品はコンビニ商品かドラッグストアの試供品を溜め込んだものだ。他に金がかかるような趣味がある様子もなく、かと言って、ギャンブルに明け暮れていたわけでもなかった。
 和津実が大のギャンブル嫌いだということは留美さんから聞いていた。原因は彼女が中学二年のときに失踪した父親がギャンブル狂だったからだ。
 とても血が繋がっているとは思えない両親のうち、和津実はあの実直そうな父親とは本当に血が繋がっていない。放蕩の限りを尽くした挙句に膨大な借金だけ残して姿を消した本当の父親を、和津実は心から憎んでいたのだそうだ。留美さんは口を濁したが、父親は単なる家庭内暴力だけではなく和津実に性的な虐待も加えていたらしい。彼女の自堕落としか言いようのない性的な遍歴も、そして両親が――特に母親がそれを止められなかった理由もその辺りにあったらしい。
「――あのさ、ほ、本気じゃないよな?」
 吉塚の声は気色悪い猫なで声になっていた。
 頭に血が上りそうになるのを懸命にこらえた。和津実がこの男との関係を断ち切れなかったのは心空虚さを埋めようとしてのことだろう。蓮っ葉で横着な物言いの裏側で、たとえそれが気持ちを利用されているだけだったとしても、頼られることを愛情だと信じ込もうとしていたのだと思うと同じ女としてこの男が許せなかった。
 吉塚を見下ろしながら大きくため息をついてみせた。芝居であると同時に自分の気持ちを落ち着かせるために。
「どうかしらね。アタシは別にあんたがどうなろうと知ったことじゃないけど」
「だったら見逃してくれよ。……これ、やるからよ」
 吉塚はポケットに手を突っ込んで何かを引っ張り出した。カネでも握らせるつもりなのかと思っていたら、差し出したのは小さなビニール袋に入った青い錠剤だった。実物を間近でみるのは初めてだったが、それが”青S”――MDMAなのは間違いなかった。
「和津実のダチなら、お前もこれ、喰ってんだろ。ほら、ひー、ふー……六錠もある。買うと結構、いい値段するんだぜ」
 今度は本心からため息が洩れた。
「みたいね。和津実も喰ってたの?」
「なんだ、知らないのか。あいつは昔、こいつを卸してた男と付き合ってたんだぜ」
「それは知ってる。今も喰ってるのかって訊いてんの」
「いや、ガキができてからはやめちまった。バカなやつだよ。とっとと堕ろしちまえばよかったのに」
「なによ、その言い草。あんたが父親なんでしょ?」
「らしいけどな。ま、和津実のやつ、デリヘルで追加料金とって客とヤリまくってたし。そのうちの誰かのガキだってほうが確率高いような気がすんだけど」
「あんたの子供だっていうより、そっちのほうが幸せかもね」
「違いない」
 気を悪くするかと思っていたのに吉塚は逆に面白がるようにせせら笑った。考えを変えて留美さんを階下で待たせて良かった、と心の底から思った。今の吉塚のセリフは間違っても遺族に聞かせられる代物ではない。
「このクスリの出所は?」
「そんなこと、お前に関係あるのかよ」
「和津実は元彼が残したクスリを売って、あんたの借金の返済に充てるつもりだったと聞いてるわ。これはその中からチョロまかしたものなの?」
「……はあ?」
 吉塚の目が忙しなく動いていた。何かを懸命に計算している目つきだ。
「いや、それは知らない――っていうか、それ、本当なのか?」
「何が?」
「和津実が渡利が隠してたブツのありかを知ってたっていうのがさ」
「どうなのかしらね。少なくとも立花さんにはそう説明してたみたいよ。目処もついてるって」
「んなバカな」
 吉塚は思わず吐き捨てた。
「なるほど、やっぱりそうなんだ」
「……何が?」
「渡利純也の死後、彼が溜め込んでいたドラッグと金はあんたと椛島博巳が手に入れたのね。まぁ、もともと渡利のドラッグ商売は椛島からぶん捕ったもんだから、あんたたちにしてみれば返してもらったってことなんでしょうけど」
「……おまえ、何を知ってやがる」
「あんたたちが渡利にドラッグのルートを乗っ取られたお馬鹿さんってこと。渡利が死んだあとにグループの残党に追い込みかけたって聞いてるけど。和津実との馴れ初めもその辺りなの?」
「なんだ、このアマ?」
「そんな三白眼で睨んだんじゃ、せっかくのハンサムが台無しよ。中身がないのにルックスまでダメなんじゃ何もないじゃない」
「おまえ、何者だ?」
「和津実の友だちだってば。もう忘れちゃったの?」
「ウソつけ、あいつのダチにおまえみたいに口が立つやつなんかいるわけねえだろ」
「お褒めにあずかって光栄だわ」
「褒めてねえよ」
 和津実の母校はアタシなど太刀打ちできない秀才の宝庫なのだが、口の悪さではアタシのほうが一枚上手かもしれない。自慢することじゃないが。
「それよりこっちの質問に答えろ。立花を知ってるってことはカタギじゃねえようだが、どこの手のもんだ?」
「正真正銘の堅気なんだけどね。まあ、いいわ。ところであんた、何か勘違いしてない?」
「……何を?」
「自分に取引の材料があるとでも思ってるの? あんたはアタシの質問に素直に答えるしかないのよ。嫌なら今すぐナカス・ハッピー・クレジットに電話するわ」
 ケイタイをかざして見せた。念のために看板に出ていた電話番号はメモリに入れてある。
「まったく、怖いお姐ちゃんだな。あんた、度胸が座りすぎだよ」
「よく言われるわ」
 吉塚は前のめりだった上半身を大きく後ろに逸らして、背後でベッドに手をついて身体を支えていた。可笑しそうに目を細めて陰のある笑みを浮かべている。見る限りではリラックスして敵対的な態度をとるのをやめたように見える。
「何かやってるんだろ。部屋の中で男と二人っきりでそれだけ落ち着いていられるんだ。よほど自信があるんだろうな」
「空手を少々ってとこかしらね」
「なるほど。じゃあ、腕ずくってのはやめたほうがいいな。俺は殴られるのが嫌いなんだ」
 吉塚が片頬に微笑を浮かべた。相変わらず上辺だけの中身のない笑みだが、男のルックスにしか興味がない女なら簡単に引っかかるのかもしれない。ただし、この男の笑みはそんなものではなかった。アタシを油断させようとする姑息な微笑だ。
 来る。
 そう感じた瞬間、ベッドの反動でも使ったような勢いで吉塚が立ち上がった。
「――ヒュッ!!」
 短い息と共に吉塚の姿勢が低くなった。タックルだ。
 避けられないと悟った瞬間、とっさにその場で膝を抜いて崩れ落ちた。スライディング・タックルの要領で逆に相手の足元に脚を伸ばす。吉塚にはビックリして尻餅をついたように見えただろう。
「へへへ、なんだよ、ビビってんのか?」
 大きな身体がアタシの脚に圧し掛かってきて、その勢いでアタシの肩に手をかけて上半身を押し倒そうとする。アタシは逆らわなかった。首を縮めて後頭部を床にぶつけないようにだけ気をつけた。
 獲物に襲い掛かる獰猛な獣のように吉塚がせり上がってきた。右の拳が伸びてくる。左の頬、口の端の辺りに衝撃が走った。無理な姿勢からの手打ちにそれほどの威力はないが、殴られたショックは隠しようがなかった。口の中が切れたのか、微かに血の味がした。
「へへっ、マウント・ポジション完成」
 舌なめずりしそうな厭らしい微笑。血走った目がこの男の本性を露骨に表している。
「さすが、女を押し倒すのは上手いのね」
「この状況でよく軽口が叩けたもんだな。分かってると思うがおまえに打つ手はないぜ。大声なんか出したって誰も来やしないからな。――フン、空手なんて総合のリングじゃ何の役にも立たないんだよ」
 やっぱりそうか。最近は福岡にも総合格闘技のジムもあるという話を聞いたことがある。そうでなくてもレスリングかブラジリアン柔術をやってれば、この程度のタックルからのテイクダウンはやれる。
 吉塚はどっかりと体重をかけてアタシの骨盤の上に乗っている。身体を捩ってもビクともしない。
「ジタバタしても無駄さ。マウントとられた時点でおまえの負けなんだよ」
「ちょっと馬乗りになっただけで、ずいぶんな自信じゃない」
「うるせえよ。ボッコボコにしてから犯してやるから覚悟しとけ。女を殴るのは趣味じゃないけど、おまえはちょっと活きが良すぎる」
「嘘つき。女にしか暴力を振るえないくせに」
「てめえ……」
 吉塚が右の拳を大きく振りかぶった。
 落ちてくる拳を左腕の外旋で弾き出す。同時に反対の腕に集中に視線を飛ばす。吉塚は利き腕を最大限に生かすために、反対側からアタシの肩を押さえ込もうとしていた。
 心の中でほくそ笑んだ。関節技はなしということだ。あったところでこのスピードなら充分に切れる。
 パウンド――馬乗りの状態からの上からの打撃へのガードが難しいのは、単にそれが体重が乗って威力があるとか、こっちは下で動きに制限があるからとか、そんな分かりやすい理由だけではない。攻撃を阻むために挙げた腕を取られて関節技に持ち込まれる危険があるために迂闊に腕を出せないからだ。しかし、そのオプションがないのなら恐れることは何もない。
 左手で牽制しながら右手を吉塚の脇腹に這わせた。夏の薄着のおかげで布越しの身体の感触が伝わってくる。ただ苦し紛れに押していると思っているのか、吉塚はその手を払おうともしない。
 狙いは比較的、隙間が広い六番と七番の肋骨の間。親指をその肋間に思いっきりねじ込んだ。
「――ってえッ!!」
 吉塚は悲鳴を上げて脇腹を抑えながら前のめりになった。苦悶の表情が近づいてきて生臭い息がアタシの顔にかかった。
「いつまで乗っかってんのよ!!」
 腰を跳ね上げるのと同時に奥襟をとって引っ張ると、吉塚はアタシの身体から転がり落ちた。そのまま素早く立ち上がる。
 部屋の隅に向かって転がった吉塚は姿勢を立て直すのが遅れた。アタシは躊躇うことなく下がった頭めがけて渾身の前蹴りを放った。階下の住人から苦情が来そうな音を立てて、吉塚は隣の台所の床に倒れ込んだ。追い討ちをかけるように背中に全体重をかけたストンピングを叩き込む。
 着地に失敗したヒキガエルのような格好で吉塚はその場に這いつくばった。お返しとばかりにその背に馬乗りになる。腕を捕って背中に捩じ上げると、吉塚は情けない悲鳴をあげながら降参の意を示した。
「ちくしょう、いてて、離しやがれっ!」
「マウント・ポジションが絶対なのは、リングの上でルールに則ってやるときだけよ。残念だったわね」 
 そのとき、部屋のドアが蝶番から吹っ飛ぶような勢いで開いた。
「真奈ちゃんっ!!」
 留美さんだった。物音を聞きつけて駆け上がってきたのだろう。手にはさっきの鉄パイプがしっかりと握られていた。
「ちょっと、あんた何やってんのッ――って、あれっ?」
「とりあえず片付きました」
 留美さんは事態が飲み込めないように呆然としている。
「すいません、実力行使のときは呼ぶって言ったのに」
「それはいいけど……。やだ、真奈ちゃん、ケガしてるじゃない!!」
 留美さんはアタシの口許に手を伸ばした。殴られた拍子にどこか切れたらしい。
「こいつ、何しやがったの!?」
 激昂する留美さんを手で制した。気遣ってくれるのは嬉しかったが今は吉塚と話すのが先だった。ここにはあまり長居したくない。
 台所を見渡すと海外からの小包に巻かれていた細めの麻紐があった。留美さんに取ってもらって、吉塚の両手の親指を背中の後ろで縛り上げた。わざわざ手首をグルグル巻きにしなくてもこれで充分に拘束の役に立つ。
「……チクショウ、てめえ、何モンだ」
「何度も言わせないでよ。和津実の使いの者だって言ってるでしょ」
 頼まれてはいないが和津実だってこのクズ野郎に仕返しの一つもしなければ気が済まないはずだ。彼女のために何かしてやりたいと自分が思っていることに思わず苦笑しそうになった。
「クソッ、てめえ、ただじゃおかねえからな……」
 苦し紛れの威嚇。喉の奥で引っかかったような聞き苦しい声だ。
「そういう台詞はシャバにいられる人間のものよね。あんた、これから自分がどうなるか、分かってんの?」
「ああッ!?」
「立花さんに連絡したら、すぐにあんたを引き取りにくるでしょうね。でも、あんたが質問に素直に答えてくれるんだったら考え直してあげてもいいわ」
 表情は見えなくても吉塚が盛大にふて腐れているのは伝わってくる。仁王立ちの留美さんがそれを憤怒の表情で見下ろしている。つまらないことを言おうものなら即座に顔面を蹴飛ばしそうな勢いだった。
 吉塚は諦めたように口を開いた。
「……分かったよ、何を話せばいいんだ?」
「とりあえず、あんたと和津実の馴れ初めから。それとあんたのお友だちについて」
「ホントに俺を立花に売ったりしねえな?」
「約束は守るわ」
 本当にそうするかはまだ決めていないけど、最後の抵抗の意志を挫くには充分だった。吉塚はポツポツと思い出すように語り始めた。

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