Left Alone

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  第 46 章 

「ああ、もうッ。だから言ったじゃない!!」
 留美さんはとても怒っていた。濡らしたハンカチでアタシの口許を拭いながら傷口の様子を慎重な眼差しで調べている。唇の端がほんのちょっと切れているだけなのだけど、留美さんの表情を見ていると何だか自分がものすごい重傷を負っているような気分にさせられた。
 吉塚正弘の(正確には椛島博巳の)部屋を後にして、アタシと留美さんはハイラックスを停めたボーリング場にいた。留美さんは猛然とアタシの手を引いてトイレに連れ込むなり、有無を言わさずに手当てに取り掛かったのだった。
「自分は女の子だって自覚しろって言ったばかりだよね?」
 切れ長の艶っぽい眼差しがアタシをジロリと睨んでいた。誰かに叱られるのは本当に久しぶりのことでどうにもきまりが悪い。上目遣いに彼女の目を見上げることしかできなかった。
「……ごめんなさい」
「ホント、ムチャするんだから。痛くない?」
「殴られたとこがちょっと熱いですけど。腫れてないですか?」
「そこまではないわ。冷やしとけば大丈夫かな」
 留美さんはもう一度濡らしてよく絞ったハンカチをアタシの頬にあてがってくれた。ひんやりした感触が熱を持った部分を覆って心地良かった。
「でも、まあ、意外だったよね」
「和津実と吉塚の馴れ初めですか?」
「うん。あたしもよく知らなかったんだけど、まさか、あんな経緯だったなんてさ」
「ですね」
 お互いに顔を見合わせて苦笑を洩らした。本当はとても笑えるような話ではないのだが、そうでもしないとやりきれない内容だったのだ。
 
 時折、頭を小突きながら吉塚正弘から聞き出したのは、椛島博巳という男のことと吉塚自身との関係、それと渡利純也の死後にその残党と彼らの間で何が起こったか、だった。
 椛島博巳については吉塚もそれほど詳しい来歴を知っているわけではなかった。吉塚が所属していた暴力団で同じ時期に舎弟として修行していた仲間だったのだそうで、その後、お互いに組を辞めてフラフラしているときに再会して今に至るらしい。業界事情になどまったく明るくないアタシはヤクザといえばいわゆるファミリーでいろいろと面倒を見てくれる半面、そう簡単に抜けられない社会だと思っていたのだ。ところが最近はかなりドライなようで、使い物にならなければ(吉塚は認めなかったけど、そうとしか捉えようがない)あっさりと放出されてしまうらしい。
 ドラッグ商売に手を染めたのは椛島一人の才覚だったようで、吉塚はまったく関与していなかった。当然、渡利によるグループ乗っ取りにも関わっていなかった。吉塚が一連の出来事に関係し始めるのは二〇〇四年が明けたばかりのころ、ほとぼりが冷めたと思って福岡に舞い戻った椛島の手助けをするようになってからだ。
 当然、椛島と吉塚はドラッグのルートを取り返すために渡利と事を構えようとした。しかし、自身の不始末の残り火が完全に消えきっていなかったのと、何処からかの横槍でなかなか手が出せないでいた。
 横槍について吉塚は「誰からか”渡利純也に手を出すと警察が動く”という警告が伝わってきた」としか知らなかった。警告しに来た”誰か”についても詳しいことは何も知らないようだった。ただ、一度だけその姿を見たことがあって、とても”業界”関係者とは思えないサラリーマン風の男だったらしい。詳しい身なりや顔つきなどは覚えていないが、右手の甲に刃物でつけられたような大きな傷があったことだけは覚えている、と吉塚は付け加えた。
 事態が大きく動いたのは、アタシの父親が起こした傷害致死事件の数日後のことだった。
 和津実の話や他のメンバーの事件後の動きから考えると、渡利は取り扱っているドラッグの入手経路や保管場所について仲間には何も教えていなかった。裏切りや横領、横流しなどを恐れてのことだろう。所詮は信頼関係など成立しない犯罪集団である以上、当然の自衛策だと言える。
 ところが椛島と吉塚は入念な調査によって、そのおおよその場所を探り当てていた。驚いたことに父親の借金のカタに連れ去られて行方不明とされていた渡利の姉が福岡に戻ってきていて、偽名を使って雑餉隈のファッション・ヘルスで働いていたらしいのだ。そして再会した渡利姉弟は表向きは赤の他人として生活しながら、影でドラッグ密売に精を出すこととなる。クルマの免許を持たず、自力での移動や運搬に制約のあった渡利が仲間に知られずに保管場所にドラッグを出し入れできたのは姉という協力者の存在があったからだ。
 渡利が死んで制約が無くなったことを確信した二人はすぐさま行動に移った。まず、渡利の姉を拉致してドラッグの所在を白状させることから始まった。隠し場所は城南区の山中にある姉弟の数少ない親類が所有する倉庫跡で、渡利はそこから必要な分だけを姉の住まいである春日市内のアパートで保管していた。
 姉の部屋には他に架空名義の銀行の通帳やかなりの現金もあったらしい。渡利がグループを乗っ取る前は椛島が同じ口座を使っていたのだが、取り返した口座には当時の倍近い金額が預金されていたそうだ。非合法な商売とは言え、才覚は渡利のほうが上だったということだろう。必要なことを訊き出したあとで渡利の姉をどうしたのかという質問に吉塚は厭らしい曖昧な笑みで答えた。それ以上は訊く気にならなかった。
 その後、二人は渡利の仲間たちへの報復を開始した。
 追い込みは苛烈を極めた。カネを使って兵隊を揃えた椛島と吉塚は、まず裏切り者である守屋卓と篠原勇人に制裁を加えた。痛めつけられた二人は即座に元リーダーに恭順の意を示したらしいが、当然の如く椛島はそれを許さなかった。元ホスト(当時は現役だったらしい)の守屋には顔にブラックジャック並みの大きな傷をつけて、バーテンダーだった篠原は二度とシェーカーを握れないように両手の指を全部折られた。
 その後も陰惨な報復は順繰りに行われた。双子のキックボクサーの拉致されてボコボコにされた挙句、素っ裸で中洲の路上に放り出されるという仕打ちを受けた。数人いたという使いっぱしりの連中も見逃してはもらえず、同じように連れ去られては暴行を加えられた。
 一方でグループに出入りしていた女子高生のうち、白石葉子と若松郁美には魔手は伸びなかった。理由は奴らがフェミニストだったからではなくて、彼女たちのことまで把握していなかったからだ。
 ただし、千原和津実だけは違っていた。何といっても彼女は渡利純也と付き合っていたのだし、本人自身の行いのせいもあって悪名は街で遊んでいる連中の間でに知れ渡っていた。親の助けを借りてまで親類の家に逃げているのに、男友だちとのメールのやり取りで居場所を洩らすという和津実の間の抜けようも拍車をかける結果となった。
 かくして吉塚は和津実の潜伏先である下関に向かったのだが、具体的に何があったのかについて吉塚はなかなか話そうとしなかった。
 理由は想像に難くない。目の前で仁王立ちをしている女性が和津実の従姉だと思い出したからだ。気を遣うような繊細さは持ち合わせなくても、迂闊に機嫌を損ねれば自分の立場が悪くなるという計算くらいはできるらしかった。
 背中に捩じ上げた腕をさらに押し上げてまで訊くべきことかどうか、正直言って迷った。それがアタシの知りたいこと――村上の調査と関係があることとは思えなかったし、レイプ絡みの話になることは目に見えていたからだ。たとえ人前でバカ呼ばわりしていても和津実が留美さんの大切な従姉妹であるのは間違いない。その彼女が酷い目にあった事実を和津実の死のショックから立ち直ったとは言えない留美さんに聞かせていいとは思えなかった。
 アタシはそれで質問を打ち切ろうとした。しかし、留美さんは鉄パイプの先で吉塚を小突いて話の先を促した。
 殴られることへの恐怖と一方で相手を辱める歪んだ喜びに満ちた目で吉塚が語ったのは、予想通りに吉塚が数日間にわたって和津実をレイプし続けたという内容だった。和津実は何度も許しを乞うたようだけれど、元来がサディスト傾向でもあるのか、吉塚はドラッグを使いながら和津実が完全に屈服するまで行為を続けたらしい。
 アタシの中で一つの疑問が氷解していた。あれだけ身勝手で節操がなくて、言い換えれば自由気ままで独立心旺盛に見えた和津実があんな借金の巻き添えにされて、いよいよ命の危険に晒されるまで吉塚のところから逃げ出す決心をすることができなかったのか。
 恐怖は人間の心を容易に縛り付ける鎖になる。冷静に考えれば目の前の男がそれほど恐れるに足りないことくらい、和津実の頭でなら理解できたはずだ。しかし、一度受けた暴力の枷は和津実の心を抑え付けて放さなかったのだろう。
 アタシは最後に昨日の早朝、和津実がホームから突き飛ばされた時間帯に吉塚が何処にいたかを訊いた。吉塚はこれでとりあえずこの場を乗り切れたと思ったのか、気色悪いくらい相好を崩して「付き合っている中洲のソープ嬢の部屋にいた」と答えた。
 その瞬間、留美さんは吉塚の顔面を思いっきり蹴り飛ばした。
 
 トイレを出ると留美さんは自動販売機に向かった。その間に藤田警部補に電話をかけた。
「よう、今日はよく電話をくれる日だな。どうした?」
 声の調子はいつものように朗らかだ。どんな深刻な事態に陥ってもそうなのだとしたら、ある意味ではかなりのタフなのかもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと面倒なことをお願いしたいんだけど」
「面倒?」
「ええ。実は一人、警察に突き出したい男がいるの」
「そりゃまた、穏やかじゃないな。事情を聞かせてもらおうか」
 アタシは村上のリストの人物を訪ねている途中で和津実の夫と出くわした話と、訊き出した過去の経緯を説明した。
「なるほどね。で、そいつをどうしろって?」
「MDMAって持ってるだけでも違法よね。吉塚を逮捕できないかな?」
 吉塚正弘が村上の調査に関わっていないのは例のリストに名前がないことからも明らかだが、彼は椛島博巳(旅行というのはどうやらドラッグの供給元の東南アジアに行っているらしい)の仲間であり、自由に動けるところには置いておきたくなかった。
「できないことはないだろうが、そいつは少しマズいな。所轄署に話を振るにしても、奴さんたちは事件現場から通報者が姿を消すのを嫌う」
「だよね……」
 匿名の通報者というのもあまり戴けない作り話だ。アタシは名乗っていないが二人のうちの一人が和津実の従姉妹だということは、吉塚が口を割れば一発で知られてしまう。
「何とかごまかしてみるが、無理なときはその従姉妹の子だけでも出頭してくれ」
「仕方ないわね。でも、そうならないように何とかしてくれるんでしょ?」
「努力はするが、約束はできないな」
「その従姉妹って人、アタシのモデル事務所の先輩なんだけどさ。すっごい美人なのに彼氏募集中で、しかもイ・ビョンホンみたいな人がタイプだって――」
「すべて俺に任せとけ。あ、さっきの三人の話も含めて、また連絡するから」
 藤田はアタシを遮ってまくし立てるとさっさと電話を切った。この軽薄さは何なのだろう。もちろん、半分以上は冗談だと思うけど、仮にそうでも眩暈がしそうだ。
「真奈ちゃん、どうかしたの?」
 留美さんが戻ってきた。声に心配がにじんでいる。アタシがこめかみに手を当てているのを勘違いしたようだ。
「いえ、何でもないです。ところで留美さん、イ・ビョンホンって好きでしたよね?」
「はあ!?」
 あまりに意外な質問だったのか、留美さんは大きく口を開けて素っ頓狂な声をあげた。
「うーん、まあ……どっちかと言えば好きなほうだけど。それがどうかしたの?」
「いえ、大したことじゃないですけど。ちなみに今、彼氏は?」
「募集中よ。ねえ、いったい何よ?」
「いえ、ホントに大したことじゃないんです」
「……変なの」
 留美さんはちょっと憮然とした表情で買ってきた缶コーヒーを差し出した。礼を言って受け取って殴られた頬に当てた。ひんやりした感触がやけに心地良い。
 とりあえず、アタシは嘘はついていない。無理をきいてもらうお礼に引き合わせるところまでは責任持ってやってやろう。
 ただし、その後のことはアタシの知ったことではない。

 一時間後、アタシはホストクラブへ乗り込む衣装合わせ(?)のために留美さんのアパートにいた。
 女子大生にしては慎ましい生活をしていても仕送りとモデルのギャラだけで生活していけない。そういうわけで留美さんは事務所近くの大名のショップで店員のアルバイトもしている。系列にアウトレットを扱う店があるので安く服が買えるというのがそれほど時給の高くない職場を選んだ理由なのだそうだ。その当然の帰結として2DKのアパートの四畳半はウォークイン・クローゼットと化している。
「真奈ちゃんってやっぱりスタイル良いよね。ホント、服の選び甲斐があるわ」
 留美さんは打って変わってご機嫌だった。さっきからハンガーに架かったワンピースやカットソーをアタシの身体にあてがって、ああでもない、こうでもないとコーディネートに頭を悩ませている。
「そんなに良くないですよ。肩幅は広いし胸もないし」
「何言ってんのよ。肩がしっかりしてないとジャケットは似合わないんだから。撫で肩で悩んでる子もいるのよ」
「そんなもんですか」
「まあ、胸はね。あたしもあるほうじゃないから気にしないで」
「はあ……」
 力ないため息が洩れた。紛れもない事実だし由真からはずけずけと指摘させるのでもう慣れたものだが、ちょっとくらい否定してくれるかと思っていたのに。
「さっきの彼に揉んでもらったら?」
 留美さんは少し意地悪な微笑を浮かべた。
「あの人とはそんな関係じゃないです。それに揉んだら大きくなるっていうのは迷信ですよ」
「そうなの? あ、コウジと試してみたことあるんだ?」
「ありません」
 どうやらコーディネートが決まったらしく、留美さんはいろいろ揃えるからその間にシャワーを浴びるように言った。
 ちょっと立て付けの良くないドアを開けて浴室に入った。
 ユニットバスが普及する前の建物なので浴室は広い。壁にはもともとの小さな鏡とは別に等身大の姿見が貼り付けてある。留美さんはこれで自分のスタイルをチェックしているのだろう。同じ仕事をしていながら自分のサイズも知らないアタシとはずいぶんな意識の差だ。
 姿見に自分の裸身を映してみた。
 手足は筋肉がついていてそれなりの太さだけど、長いので全体的にはバランスはとれている。高校生まではまったく気にすることなく灼いていたので肌は浅黒かった。最近はさすがに気をつけているので母親譲りの色の白さが戻ってきている。
 肩は張っているけどいかり肩まではいかない。華奢なシルエットの服を着ると肩周りが突っ張るのは広背筋が発達していてそこに引っ張られるからだ。アンダー七五のAというやや太めとされるサイズなのも同じ理由だったりする。
 乳房については何もいうことはない。もう諦めた。中学生くらいのときにさんざん飲んだ牛乳は、すべて背丈に還元されてしまっている。
 ウェスト五十九センチはさすがに嘘だけど、六十五センチまではないはずだ。腹筋は力を入れれば割れているのが浮き出てくる。一〇〇年の恋も冷めるからやめろと由真に忠告されて以来、人前ではやらないことにしているが。
 ヒップがキュッと持ち上がっているのは自分ではこっそり自慢に思っているところだ。骨盤が広いので小さくはないけど鈍重な感じはしないはずだ。太腿も細くはないにしても同じように引き締まっている。
 客観的に見ればそんなに悪いスタイルではないのだろう。ただ、アタシの身体は明らかに空手のために鍛え上げたものだ。だから、どこかゴツゴツした印象を与えている。色気のようなものは微塵も感じられない。由真のような柔らかさや艶かしさとはまるで無縁だ。
 そっと自分の身体を抱くように腕を回してみた。自分の女性としての魅力なんてロクに考えたこともない。
 村上は今のアタシの姿を見たら何と言うのだろうか。
「……なにやってんだろ」
 ボソリと呟いて腕をほどいた。
 シャワーノズルのコックを開いた。ほんの少し冷たい水が出てすぐに適温になった。壁のフックにノズルをかけてお湯を頭から浴びた。
 本当にどうかしている。理由は分かっていた。さっきの留美さんの揶揄で脳裏に車中での会話が甦っていたからだ。

 ――この人を選んどいてそのセリフは納得できない。

 留美さんの何気ない言葉。確かにアタシは村上恭吾を選んだ。しかし、アタシは彼に選ばれたわけではない。それ以前にアタシはまだ想いを伝えてすらいないのだ。
 どうして今さら、こんなつまらないことに心を囚われるのか。
 留美さんが待ち受けに設定してしまった村上の写真がその理由だった。照れ笑いとも苦笑いとも取れる優しそうな微笑。
 アタシにとっては彼と何の屈託もなく話せた遠い過去のものだ。アタシのケイタイを構える由真には見せてくれても、アタシには決して見せてくれることのない笑顔。他の画像は全部消したのにその一枚だけ消去できなかったのは、どこかにもう一度その笑顔を見たいという想いがあるからかもしれない。
 なのに、もし、すべてが終わった後に彼に告白して拒絶されたら――そう思うと心の底から恐ろしかった。

 留美さんが大名の事務所で野暮用を片付けている間、アタシは国体道路沿いのアップルストアの上のスターバックスで時間をつぶすことになった。ここのスタバは今年の春にある出来事があって以来、何となく足を踏み入れるのを躊躇っていたのだけれど、留美さんに先にここで待っててと言われては反論もできない。
 本当は社長から呼び出しがかかっていて、それっぽいメールが何通か届いていたりもする。留美さんからもとりなしてあげるからいっしょに行こうと言われた。けれど、今はとてもそんな気にはなれなかった。村上に昇進のお祝いを贈る資金を稼ぐという当初の目的はとっくに果たしてしまっているし、モデルの仕事にやりがいを感じていたのも遠い昔のように感じられた。
 このままクビならそれでもいいや、と普段のアタシだったら誰よりも先に糾弾しそうな無責任な考えに自己嫌悪の大きなため息が洩れた。
 チビチビとカプチーノをすすっているとケイタイが鳴った。由真からだ。
「もしもし?」
「ああ、真奈。郁美の入院先が見つかったよ。飯塚の山の中にあるホスピスだって。麻薬とかアルコールの中毒患者の専門病棟があるとこ」
「そんな遠いとこ?」
 由真はホスピスのおおまかな場所の説明をしてくれた。博多駅からだと福北ゆたか線(筑豊本線)で四、五〇分ほど揺られて、飯塚駅から陸自の駐屯地方面へ入っていった山中にあるとのことだった。バス路線はないらしくて、葉子は駅からタクシーで行っていたのだろうと由真は付け加えた。
「それで、郁美の容態は?」
 由真が疲れたようにフゥっと息を吐いた。
「残念だけど、電話じゃそこまで教えてもらえなかった。個人情報が何とかって煩いから。ただね……」
「ただ?」
「話をつけてくれたウチの先生の話じゃ、あんまり良くはないみたいだね。行ってみなきゃ何とも言えないけど」
「だよね。で、いつなら郁美に会わせて貰えるの?」
「真奈ってばそんなに慌てないでよ。まだ郁美と話せるって決まったわけじゃないの。明日、担当の先生が会ってくれるってとこまでよ。お役に立てなくて申し訳ないけど」
 ちょっとだけカチンときた。
「……そんな言い方しなくていいじゃない。あんたじゃなきゃ、そこまでこぎつけることすらできなかったんだから。その……感謝してるんだからさ」
 電話の向こうで由真が小さく笑った。
「ありがと。で、そっちは?」
 アタシはリストに載っていた立花正志が和津実のアパートの前に現れた街金融の男なのを突き止めたことと、椛島博巳のアパートを訪ねたところで吉塚正弘と行き合わせて、彼を締め上げて渡利の死後のグループのその後と、和津実との経緯をしゃべらせたことを話した。
「ちょっと待って。それじゃあ、和津実は渡利純也の遺産を椛島と吉塚が手に入れてるのを知ってたってこと?」
「そういうことになるわね」
 椛島と吉塚は渡利姉弟が隠していたドラッグと多額の資金を手に入れている。はっきりした額は分からないと前置きしながらも、吉塚は総額で三〇〇〇万円は下らなかったと言った。山分けしているので一人一五〇〇万の取り分だ。
 しかし、現在の吉塚は多額の借金で街金融に追われる身だし、椛島もあの住まいを見る限りではそれほど暮らし向きが良いとも思えない。つまり、彼らはこの三年の間にそのほとんどを食い潰してしまっているわけだ。
 何に使ったかはともかく、大金が浪費されていく過程を近くで見ていた和津実がそのカネの出所に思い至らなかったはずはなかった。吉塚も和津実にそれを隠していなかっただろう。だからこそ、吉塚は和津実がドラッグを借金のカタにしようとしていたという話に「んなバカな」と吐き捨てたのだ。
「だったら、和津実は何で立花に「カネの当てがある」なんて言ったんだろ」
「そこなのよね、理屈が合わないのは。とりあえず何とか誤魔化しといて、その間に金策をしようとしてたとか」
「あたしは和津実をぜんぜん知らないけど、そういうタイプ?」
「うーん、そう言われるとなあ……」
 和津実に正直や誠実を求めるのは亀田三兄弟とその父親に謙虚さを求めるのと同じだ。つまり、必要なら嘘をつくことに躊躇いを感じるタイプではない。ただし、すぐに底の割れるような嘘をつく馬鹿でもないような気がした。
 市営住宅前での拉致未遂のときのことを懸命に思い出そうとした。あのとき、和津実は何と言っていたか。

 ――ようやくそれを知ってる女に辿り着いた。だから返せる当てがあると言った。ところがその女は一週間前に交通事故で死んでしまった。

 だから、金は払えないと和津実は言った。その女が葉子であることは間違いない。しかし、事の経緯を考えると葉子が渡利姉弟のことを知っていたとも考えにくい。
 単にデタラメ話を補強するために適当に話を繋いだだけかもしれないが、それなら、もっと妥当な理由をでっちあげて嘘の破綻を引き伸ばしていてもよさそうなものだ。少なくともあの場で自分に死刑宣告を出す必要はなかったはずだ。
「もしかしたら、和津実には本当に当てがあったのかもしれないね」
「どういう意味よ?」
「もちろん、ドラッグ云々は嘘なんだろうけど、渡利の遺産にはもう一つ、ひょっとしたらとんでもない大金に化けるものがあるもん。それを手に入れる算段をしてたんだととしたら?」
「勿体ぶってないで言いなさいよ。何なの、それは」
「渡利純也が警察の庇護を受けるのに使っていた取引材料だよ。おそらく警察のスキャンダルだとか、そういうものの証拠なんだろうけど」
「そういうことか……」
 誰かに横流しするにせよ、自分で取引に臨むにせよ、確かに大金を生む可能性を持っている。警察の機構の一部と一介のドラッグの密売人を結びつけるほどのものだったのだし、今となっては警察と犯罪者の癒着の証拠というプレミアムまでついている。
「問題はその取引材料ってのが何だったのか、だよね」
「和津実は知らなかったのかな?」
「まったく知らないってことはなかったと思う。そうじゃなきゃ、それが金の卵を産む鶏だってことも分からないはずだもんね」
「だとすると、グループの他の面々も知ってたんじゃないかな。誰とどうやって取引してたとかは知らなくても、何を材料にしてたかくらいは」
「あり得る話ね」
 その可能性を吟味した。これまでに聞いてきた話を総合すると、渡利純也とその一味は何度も商売敵や彼らを面白く思わない連中と一触即発の状態に置かれながら、その度に何処からともなく入る警察の横槍に守られてきている。横槍の張本人である渡利は別としても、当の本人たちだって自分たちがそれらに守られているという自覚はあったはずだ。当然、自分たちに威を与えるものの正体を知りたいと考えただろう。
 椛島の手下からドラッグとカネ目当てに転んだ守屋卓や篠原勇人はともかく、以前からの友人でありボディガード的な意味合いもあった双子のキックボクサーになら、渡利も気を許して取引材料を見せていた可能性はある。あるいは勝手に覗き見ていた可能性が。
「サンキュー、由真。おかげで切り口が見つかったわ」
「何のこと?」
「これから留美さんに着いてきてもらって、倉田兄弟が働いてるホストクラブに行くの。でも、正直、何を聞き出せばいいんだか自分でもよく分かってなかったのよね。和津実が殺されたことをぶつけて何か反応しないか見ようと思ってたくらいで」
「あっきれた……。そんな出たとこ勝負のつもりだったの?」
「しょうがないじゃない。何てったって、こっちはほぼ目隠しして手探りしてるようなもんなんだし」
「そりゃそうだけどさ……。ねえ、あたしも行っていい?」
 由真の声にアタシをたぶらかそうとするときの甘えた響きが混じった。しかし、そんなわけにはいかない。
「ダメよ。とてもじゃないけど二人は守れないもん」
「ふーんだ、ケチ。いいなあ、あたしもホストクラブ行ってみたい」
「あのさ、遊びに行くんじゃないんだから」
「でも、楽しんでくるんでしょ。カッコいい男の子、侍らせちゃったりしてさ。あ、お持ち帰りされるんだったら電話してね。戸締りしとかなきゃいけないから」
「あんたねぇ、馬鹿なこと言ってんじゃないわよ」
「わっかんないよぉ。真奈ってば若い男の子に免疫がないからね。甘い歯の浮くような殺し文句でコロッと騙されたりして」
 自分がシュンの告白にどれだけ心を乱されたかを思い出すと、免疫がないという指摘はあながちハズレとも言えない。東京に行った元彼と別れてからは身の回りに男の子の存在もない。一人だけ一夜を共にした男の子がいるにはいるが、その彼とももうずいぶん連絡をとっていない。すべては過去の話だ。
 だからと言って、アタシの心が揺らぐはずはないが。
「大丈夫よ。そんなことして、あんたを喜ばせるつもりはないから」
「何のこと?」
 由真は朗らかにしらばっくれた。まったく白々しいにも程がある。けれど、もし由真がアタシの転落を望んでいないのならそれが彼女の言う”正々堂々”なのだろう。
 まあ、そんなことはどうでもよかった。
「他意はないけど。忠告ありがと。せいぜい気をつけるわ」
「真奈、村上さんのことがホントに好きなら、浮気なんかしちゃダメだよ」
「……えっ?」
 言葉の意味は図りかねた。けれど、聞き返す前に電話は少し乱暴に切られていた。

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