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Left Alone

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  第 50 章 

「どうしてシュンさんが――?」
 訊きたいことはいくつもあったが、まずはそれを訊かなくては始まらなかった。
「自分が調べろって言ったんだろ、あの二人のことをさ。――あらよっと!」
 赤信号の国体道路と土居通りのT字の交差点をジープは後輪を激しく滑らせながら走り抜けた。信号が赤に変わりそうになったとき、素直にブレーキを踏むドライバーは福岡ではあまり見かけない。「黄色まだまだ赤勝負」などとうそぶく人間をアタシは一ダース以上知っている。福岡の交通マナーはそれくらい悪い。
 それでも、正真正銘の赤信号にけたたましくクラクションを鳴らしながら突っ込む人間は滅多にいない。
「オラオラ、どけどけッ!!」
「きゃああッ!!」
 カウンターを当てて姿勢をコントロールしながらシュンはアクセルを踏み込んだ。そのままの勢いで前を走っていたミニバンとセダンを続けざまに追い越す。多少の荒っぽい運転では怖がらないアタシもさすがに悲鳴をあげてしまっていた。シートベルトを締めていなかったので足を踏ん張って必死で横Gに耐えた。
「ちょ、ちょっと!! 事故ったらどうすんのよッ!!」
「心配すんなって。ちゃんとクルマの流れを見てやってんだから」
「そういう問題じゃなくて――」
「おっ、やっと敬語やめてくれたんだ?」
「だから、そういう問題じゃないんだってば!」
 シュンは口許を歪めて笑っていた。ニヒルなつもりなんだろうがあんまりサマにはなっていなかった。いかんせん、アタシとそんなに変わらない若造なのだ。
 国体道路は対面二車線のそれほど広くない道だ。特に天神方面は中洲を横断していて余計に狭く感じる。混み合う時間ではないが路肩側は西鉄バスが走るので流れは良くない。
「おっ、いたいた」
 シュンは車列の先のほうを見ている。床に落ちていたウェスで血塗れの手を拭いながら、フロントウィンドウの枠に手をかけて立ち上がった。せいぜい四〇キロくらいしか出ていないが風で髪が後ろに持っていかれる。
 目を細めて車列の前方を見やった。いた。スカイラインの丸目四灯のテールランプがジープの六台先を進んでいる。
「まっすぐ進んでる」
「どこ行く気なんだろうな」
「さあね。そもそも、どうしてわざわざ混んでるほうに曲がったのかな」
「警察の管轄が違うからじゃねえの」
「よくそんなこと知ってるわね」
「ウチの親父の職業、何だか知ってるか。ろくに遊んでもらった記憶もないのに、そんなことだけはしっかり教えてくれたんだ。真奈っちこそよく知ってたな」
「アタシも父親に教えてもらったの。何かやらかしたら所轄の管轄外に逃げろって」
「いい父親を持って幸せだな」
「お互いにね」
 それはともかく、シュンの説には一理ある。倉田兄弟のマンションがある店屋町界隈は博多署の管轄だ。ところが国体道路を進んで那珂川を渡ったところからは中央署、そのまま進めば早良区に入って早良署管轄だ。通報を受けて博多署が緊急配備を敷いたとしても、それが他の署に伝わるにはどうしてもタイムラグが生じる。県警捜査一課が出張っている事件に所轄署が縄張り意識を持ち込むとは思えないが、権藤が念のために用心した可能性はあった。
 車間を詰めて前のクルマを煽るでもなく、スカイラインは見た目には何事もないように流れに乗っていた。本当は床までアクセルを踏んでぶっ飛ばしたいに違いない。しかし、そうするには天神界隈の交通事情はあまり良くなかった。権藤にはスロー・モーションにすら思えているはずだ。
 中洲を通り越して春吉橋を渡った。レーンを変える様子はない。西中洲へ入るところも、その先にある市役所のほうへ曲がる道もやり過ごした。このまま進めば国体道路はやがて渡辺通りとぶつかる。三越前は天神界隈のいくつかある交差点の中でも大きくて、今のままでいけばスカイラインは右折か直進レーンにしか入れない。
 前方の信号が黄色に変わった。スカイラインの右ウィンカーが点って右折レーンに入っていく。
 タイミング的には矢信号にも間に合わない。このまま、うまく信号に引っかかってくれれば、アタシは即座にジープから飛び降りてスカイラインまで走るつもりだった。足元の工具箱からガラスをぶち破るために大きなスパナを拾い上げる。
 前のクルマが二台ほどのんびりと右折して、矢印信号が完全に消えた。しかし、アタシが立ち上がろうとした瞬間、スカイラインが強引に交差点に侵入した。交通課のお巡りさんがいたら間違いなく警笛が鳴るタイミングだった。
「そう来るかよ」
 呟くのと同時にシュンはステアリングを切って反対車線にはみ出した。
 エンジンの野太い響きが猛獣の咆哮のように響き渡った。ジープはカタパルトに打ち出された戦闘機のような勢いで交差点に突っ込んでいく。アタシはシートに思いっきり尻餅をついた。
「ちょっと――!!」
「しゃべるな、舌噛むぞ!!」
 シフトダウンに合わせて激しく吹き上がるエンジン音。暴れ馬のように乱暴な四輪ドリフトを敢行しながらジープは渡辺通りに滑り込んだ。遠心力のせいで車体は糸が切れた凧のようにガードレールに近づいていく。それでなくても、シートベルトを外していたアタシは踏ん張るのに必死だった。
 眼前に歩道に建つ地下街の排気塔が迫った。
 今度は間違いなく事故った――アタシが目を閉じかけたとき、ギリギリのタイミングでジープは体勢を取り戻した。カウンターステアのお釣りを細かい切り戻しで修正しながら、シュンは何事もなかったような顔でアクセルを開けた。
 アタシも運転が乱暴なことには自信があるが、シュンは基準がまるで違っていた。文句を言ってやりたくても悪罵すら思い浮かばなかった。
 スカイラインは一気にスピードを上げて西鉄のコンコース前を通り過ぎようとしていた。気づかれたのか、単に前が空いたのでスピードを上げたのかは分からない。
「さあ、追いついた。どうする、ぶつけて止めてもいいぜ?」
「……と、とりあえず後をつけて。こんなとこで止めるわけにもいかないし」
 シュンはつまらなそうに「オッケー」と言った。自分のクルマならそうしても良いが、他人のクルマでそれをやれとはいくらアタシでも言えない。それに拳銃で武装した犯人が徒歩で逃げるというのも感心しなかった。顔を見られた留美さんを撃たなかったということは、権藤はターゲット以外を傷つけるつもりがないと言えるかもしれない。それでも追い詰められれば、何があるか分からない。そんなリスクを侵すわけにはいかない。
 スカイラインは明治通りと昭和通りを過ぎて北天神に向かっていた。流れの良いレーンを選ぶように頻繁にレーンチェンジを繰り返している。シュンは舌なめずりでもしそうな顔でそれについていっていた。本来は空中戦を意味するドッグファイトという言葉がクルマ同士のバトルに使われることがあるけど、今の二台の様子はまさにそれだった。
 桑原警部のケイタイを鳴らした。
「……どうした、こんな時間に」
 不機嫌そうなザラザラした呟きがスピーカーから洩れた。声の様子から眠っていたのが窺えた。
「この非常時に呑気なもんね」
「非常時? 何のことだ?」
「あの男、まだ通報してないのかな。冷泉町で発砲事件があったでしょ」
 通報していても一一〇番だろうから桑原の耳に入っていなくてもおかしくはない。ただ、言ってみただけだ。
「それがどうしたってんだ?」
「発砲したのは権藤康臣。被害者は警察が三年前に追ってたMDMAの密売グループの元メンバー」
「お前の親父さんがぶちのめしたやつか」
「その仲間ね。名前は倉田和成と康臣。双子の兄弟よ」
「どうして、お前がそれを?」
「居合わせたのよ、その現場に。そうそう、そこから立ち去った目つきの悪いオンナってのがいると思うんだけど、それ、アタシのことだから」
 隣でシュンが吹き出した。横目で睨むと済まして顔を背ける。
「で、お前は何やってんだ?」
「追いかけてるに決まってるでしょ。権藤のクルマはスカイライン、R33ってやつのセダンね。色はシルバー。ナンバーを言うからメモして」
 何度も復唱して頭に叩き込んだスカイラインのナンバーを告げた。
「今は渡辺通りを北天神のほうに向かってるわ。そのあと、どっちに曲がるのかは分かんないけど」
 このまま行けば那の津通りで百道方面か、それとも博多埠頭のほうに曲がるか。あるいは北天神ランプから都市高速に乗るか、だった。逃走用の船を用意していないのなら行き止まりの須崎埠頭に入るとは思えない。
「分かった、近くのPCを行かせる。お前はそれ以上、追うな」
「冗談じゃないわ。あの人には訊きたいことが山ほどあるんだから」
「山ほどあるのは俺も一緒だけどよ、それを銃を構えてるやつに訊こうとは思わねぇな。村上のことで頭に血が上るのは分かるが、頼むから大人しくしててくれ。この上、お前まで撃たれちゃ佐伯さんに顔向けできん」
「ずるいわよね。そう言えばアタシが反論できないって知ってるんでしょ?」
「そういうことだ。詳しいことは後で訊く。今度はお泊りになるかもしれんから覚悟しとけよ」
 桑原は不機嫌そうな舌打ちで会話を締めくくって電話を切った。
 スカイラインは那の津通りのKBC前の交差点をそのまま直進した。ジープもそれを追って真っ直ぐ進んだ。都市高速に乗るのならチャンスだ。桑原に連絡して降り口をすべて塞げばいい。
「あれっ?」
 シュンが素っ頓狂な声をあげた。
「どうしたの?」
「あいつ、埠頭のほうに入っていくぜ」
「都市高速に乗るんじゃないの?」
「さっきみたいにいきなりレーンチェンジするんならな。そんな様子じゃねえぜ」
 確かにスカイラインはランプへ上っていく陸橋の横を通り過ぎた。この陸橋はT字型の須崎埠頭のちょうど付け根にあるので、そこをやり過ごせば埠頭に入っていかざるを得ない。
「あんなとこで何するのよ」
「クルマを替えるんだろう。現場から逃げたスカイラインは誰に見られてるか分かんないからな」
「ここに隠してるってこと?」
「だろうな。ここなら倉庫の横に停めっ放しにしといても文句言われねえし」
「だったら、ここで待ってればいずれ出てくるってことよね?」
「残念だけど、出入り口はここだけじゃない。みなと大橋の下にベイサイドプレイスと繋がってる橋がある」
「追いかけなきゃダメってことね」
「そういうこと」
 シュンは須崎埠頭にジープを乗り入れた。スピードを落としたスカイラインをヘッドライトを消してスモールだけで追尾する。月明かりがあるからといっても危険極まりない。
「ところで、最初の質問なんだけど」
「質問って?」
「どうして、シュンさんがあのマンションの近くにいたのかってこと。いくら何でもタイミングが良すぎるもの」
「まあ、確かに映画みたいな登場だったよな。――双子のキックボクサーのことを調べろって言っただろ、真奈っち?」
「言ったけど」
「そもそも、そんな思わせぶりな仇名じゃなくて、倉田和成と康之だって言ってくれてりゃその場で答えられたんだ。あの二人は有名だからな。渡利純也ほどじゃないけど」
「だったら、どうしてその場で思いつかなかったの?」
「双子だって知らなかったからさ。俺はあの二人は年子だと思ってたし」
「そんな――」
 でも、それはシュンの言うことのほうが筋が通っているかもしれない。普通、双子と言えば同じ顔のセットを想像する。説明するのが面倒だから、などの理由で自分たちが双子なのを話していない可能性はあった。
「それで?」
「しょうがないからジムの先輩に訊いたり、ノブさんを叩き起こしたり、いろいろやってたんだけどさ。夜になってトオルと連絡がとれて、ようやくあいつらのことだって分かって様子を見に行ってたのさ」
 あの冷泉町のマンションを訪ねたが留守だったので、近くのコンビニで立ち読みをして時間を潰していたらしい。シュンは知らないことだが、ほんの少しでもタイミングがずれていれば権藤と出くわしていた可能性もあるし、何らかの危害を加えられていたかもしれない。そう思うとゾッとするのを抑えられなかった。
「でもさ、よく考えたら仕事中だってことに気づいて家に帰ろうかなって思ったときに、マンションのほうから銃声が聞こえてきたんだ」
「よく、あれが銃声だって分かったわね」
「その辺はあんまり突っ込まないでくれ。育ちの問題になるから。で、何ごとかって思って表に回ったところで、真奈っちが血相変えてスカイラインを追いかけてるのを見かけたってわけさ」
「顔なんか見えなかったでしょ」
「ま、そうだけど。しっかし、凄いことになってるな」
 シュンは見てはいけないものを見るような目でアタシを見やった。
 アタシも改めて自分の惨状を見た。オフホワイトのワンピースは重症患者をぐるぐる巻きにした包帯のように血だらけで、どこにひっかけたのか、胴の部分のふんわりした膨らみのところに大きな鉤裂きができている。むき出しの手や腕についた血は走っている間にシュンがくれたパウダーシートで拭ったおかげでそれなりに落ちているが、キレイにするにはシャワーを浴びなくてはならないだろう。
「着替えるなら、俺の練習着の替えがあるぜ。心配しなくてもちゃんと洗濯してある」
「……ここで?」
「ちゃんと前を向いてるよ。失礼だな、これでも結構、し――紳士なんだぜ」
「言い慣れないこと言うから」
 着替えについてはせっかくだが遠慮することにした。シュンに見られるとか言う以前にフルオープンのジープの上で着替える気にはならなかったからだ。
「おいおい、マジかよ」
 シュンが呟いた。声に失笑に似た嘲りが混じっている。
「どうしたの?」
「あのオッサン、ラブホに入ってくぜ」
 シュンが指差した先には須崎埠頭のもう一つの顔――きらびやかな青いネオンで飾られたラブホテルが見えた。白亜の壁とハーフミラーのモザイク模様の外壁が外周にめぐらされたカクテルライトに照らされて、夜の闇の中に浮かび上がって見える。クリスチャン・ラッセンがリゾートホテルをデザインするとこんな感じになるのかもしれない。
 スカイラインのテールランプが、高い塀の一角をくり抜いたようなクルマ用のゲートに吸い込まれていくのが見えた。
「どういうことだろ」
「スカイラインはあそこに乗り捨てるんじゃねえかな。ラブホの駐車場に停めっ放しはないだろうから、代わりのクルマまでは歩くんだろうよ。――そういえば、スカイラインに乗ってんのは真奈っちの親父さんの上司とか言ったな」
 アタシはそうだと答えた。
「だったら変な話だな。警官だったら、ラブホの入口に必ず監視カメラがあることくらい知ってるだろうに」
「そうなの?」
「真奈っち、こういうとこ来たことねえの?」
「その質問はセクハラだから」
 シュンを横目で睨んでやった。そりゃ、それなりにこういうところへ来た経験はある。ただ、あっても男の人にそうだなんて言えるはずがない。アタシにだって恥じらいというものがあるのだ。
「カメラ付けなきゃいけないって義務でもあるの?」
「義務はないけど当局の指導ってやつでな。あれじゃ、自分の足取りを残して回ってるようなもんだぜ」
「そうよね……」
 言いつつも、権藤が自分の足取りを消すことに気を使っていなくてもそれほどおかしくないような気もした。彼の目的が何であれ、村上を撃ったことは駅ビル周囲のマンションの住人に目撃されているし、今回の倉田兄弟の襲撃では留美さんにしっかり顔を見られている。倉田兄弟を待ち伏せしていたのなら周辺の住人にだって見られているはずだ。今さら隠蔽工作を図る意味はない。
 目的が果たされるまで身柄を押さえられなければそれでいい。権藤にしてみればそういうことなのだ。そこまで覚悟の上での一連の凶行だとするのなら、いったい何があの人にそうさせたのか。どうしてかつての、そして、おそらくは信頼していた部下を撃たなくてはならなかったのか。
 それを知りたいという気持ちは、もはや興味や欲求ではなく憤りに近いものになっていた。
「どうする?」
 シュンが訊いた。何を、と訊き返す必要はなかった。
「ここで押さえるわ。――悪いけど、出口を塞いどいてくれる?」
「はいよ」
 軽い頼みごとを聞くような軽い口調。さっきの音を銃声だと認識できるのなら、相手が拳銃で武装していることも分かっているはずだ。度胸が据わっているのか、現実を認識できていないのかは分からなかった。
「着いてかなくて大丈夫か?」
「たぶんね。いくら何でも、アタシをいきなり撃ったりしないはずだから」
 本当はそんな確信はない。それでもシュンを安心させるためにそう言った。同時に半ば自分に言い聞かせるように。
「気をつけろよ」
「ありがと」
 ジープを降りて、クルマ用のゲートに足を踏み入れた。コンセプトによって外観の雰囲気や飾りつけの方向性は異なるが、この手のホテルの基本的な造りはどこもそう違わない。クルマで乗り付ける駐車スペースがあって、そこからロビーに通じる入口がある。それとは別に歩いて入れるエントランスもあって、それらは同じロビーに通じている。そこで部屋を選んで鍵を受け取って、エレベータで上の階へと上がっていくのだ。その間、同時に入った別の客以外と顔を合わせることはない。
 ホテルの一階部分のほとんどは駐車スペースに割り当てられていた。立体駐車場のように中を周回できるようになっていて、クルマ用のゲート側から見れば一番奥の角がエントランスということのようだ。歩いて入るほうのエントランスへ通じる通路が外壁の切れ目から覗いていて、カクテルライトの散光が空中の何かに反射しているのが見える。おそらく噴水だろう。海辺のロマンチックなリゾートを思わせるムーディーな演出というわけだ。
 そういう演出はアタシだって決して嫌いではない。ただ、これからこの場で起こることは、そんな甘ったるいムードとはまるで無縁の事柄だった。
 スカイラインは奥まったスペースに収まっていた。ちょうどライトが消えたところで程なくエンジンが止まった。室内からの操作でトランクの蓋が僅かに持ち上がった。
 ドアが開いて乗っていた人物がスカイラインを降りる。ドアが閉まるバタンという音が静まり返った駐車場に響く。革靴のものらしい硬い足音。男は指先でキーホルダーをクルクルと回しながらクルマの後ろに回った。そのまま、トランクから小振りなボストンバッグを取り出してストラップを肩に掛けた。遠目にはようやくホテルに帰ってきて、これからビールでも飲みながらゆっくりくつろごうとしている出張族のサラリーマンにしか見えなかった。
 アタシは権藤が村上を撃った昨日の朝以降、ずっとこのホテルに潜伏していたのではないかと思った。こういうところはデリヘルなどの利用客もいるので男性の一人客が泊まっても不思議ではないからだ。もちろん、警察だってそれは考えるだろうが目撃情報でもない限りは泊り客全員の素性を調べるわけにはいかない。
 まあ、それは今さらどうでも良かった。権藤は現実にアタシの目の前にいる。
 驚かすつもりはなかったので足音を忍ばせずに彼に近寄った。まるで気づいていたように落ち着き払った様子で、男はアタシのほうを振り返った。
「――こんばんわ、権藤さん」
 アタシは言った。
「誰かつけてきているとは思っていたが、まさか、真奈ちゃんだったとはね」
 権藤康臣はこの前会ったときよりも一層落ち窪んだ眼差しの奥から、アタシのことをジッと見つめていた。

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