Left Alone

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  第 49 章 

 誰が言い出すでもなくカフェを出た。
 カフェは中洲大通り――というほど大きな通りではない。中央線もない路地なのだ――の国体道路側の出口の角にある。したがって、外に出れば南新地のけばけばしいネオンを目の当たりにすることになる。
 アタシ以外の三人はタバコを買い足すと言って、横断歩道を渡ってソープ街の入口の角にあるローソンに入っていった。
 取り残されたアタシは外で待っていた。夏の夜の生ぬるい風とこの時間になっても衰える様子のない車列が撒き散らす排気ガス、春吉橋の屋台や店から流れ出る食べ物の匂いが入り混じって何とも言えない猥雑さをかもし出している。一頃に比べれば活気がなくなったと言われる風俗街や盛り場も、こうやって近くを歩いてみればそれほど変わっていないことに気づく。ただ、それまで表で大騒ぎしていたものがちょっと店の中に引っ込んでしまっただけだ。
 思えば父の事件の後、学校に行かなくなったアタシはこのローソンの前の歩道のガードレールに腰掛けて、何をするでもなくじっと人の流れを眺めていた。夜の街を遊び歩いていたと言っても入り浸れるような当てがあったわけでもなく、つるむ誰かがいたわけでもない。街角でボーっと人の流れを眺めて過ごしたり、夜でも開いている店を冷やかしたりすることで無為に時間を潰していただけだ。
「真奈ちゃん、お待たせ」
 ローソンから出てきた留美さんの手には二人分のアイスクリームが握られていた。
「何です、それ?」
「アイスクリーム。食べるでしょ?」
「アタシが甘いもの苦手って知ってますよね?」
「そうだっけ。ま、いいじゃない。好き嫌いしちゃダメよ」
 正論だと思うがこの人には言われたくない。一緒にご飯を食べても留美さんが何も残さずに食べきることは滅多にないのだ。大抵は嫌いなものをアタシや由真の皿に当たり前のように載せてくる。
 せめてもの救いは一つが小さなビターチョコレートのアイスだったことだ。有無を言わさずそっちをもぎ取った。
 双子はそれぞれ、カップのコーヒーを手にしていた。四人でガードレール側に並んでそれぞれの手にあるものを片付けた。行儀が悪いのは分かっているが、騒がしい街の中での立ち食いは何故か楽しい。
「店に戻んなくていいの?」
 康之に訊いた。彼らとの話はすでに終わっている。訊かなくてはならないことはいくらでもあるような気がしたが、何を訊けばいいのか、自分でも分からなくなっていた。
「せっかく出てきたからな。時間もあるし、ゆっくりして帰るよ。何ならもうちょっと付き合わないか」
「変なとこに連れてくんじゃないでしょうね?」
 留美さんが国体道路の先を見やった。橋を渡れば春吉のラブホテル街はすぐそこだ。和成は露骨に嫌そうな顔をした。
「これ以上、お前に弱みを握られるのはゴメンだ。昔のことは忘れたいんだよ、俺らは」
 和成の言葉がアタシの中の何かに触れた。
 あの事件はまだ終わってない。少なくともアタシの中では。そして、村上恭吾の中では。他にもまだ終わったとは思っていない人間がいるはずだ。それなのに彼らだけが忘れるなんて道理が通じるはずがない。
 しかし、彼らに終わらずにいることを強いてどうなるのだろう、という気もしないではない。アタシだって白石葉子の手紙がなければすべてを過去に押し流したつもりでいたのだから。
「どうする、真奈ちゃん?」
「……うーん、アタシは構いませんけど。何処に行くんですか?」
「俺らのマンションの近所。ダチがやってる店があってさ」
 リストの記載によれば双子の住まいは冷泉町のマンションだ。ここからだと中洲を通り抜けて上川端商店街のアーケードを横切ったすぐのところになる。
「なあ、あんた、純也のことをどれくらい知ってる?」
 四人で歩きながら康之がアタシに言った。
「中学校の頃は真面目なサッカー少年だったことは知ってる。ゴールキーパーだったんだってね」
「そんなこと言ってたな。それから?」
「お父さんの浮気が発端で一家離散して、預けられてた施設で虐待されてそこを飛び出した。その後、どういうツテかは知らないけど不良グループの一員になって、そこから椛島博巳がやってたドラッグ密売グループを乗っ取ったあたりまでは知ってるわ」
「だいたい合ってるようだな。俺らのことは留美から?」
 アタシは留美さんを見た。留美さんは小さく肩をすくめた。
「そんなとこ。そう言えば、あんたたちとジュンの馴れ初めって聞いたことないわね。あたしがノンのことであいつと知り合ったときには、もう一緒にいたもんね」
「純也がドラッグ商売に手を出す前の話だな。俺らは元々は純也の弟分と知り合いだったんだ。こっちのほうでな」
 康之はバイクのアクセルを吹かす仕草をした。
「ゾクってことね」
「走り屋と言って欲しいね。お前みたいに特攻服なんか着てなかったんだから」
「大して違わないでしょうが」
 留美さんの目線がきつくなった。康之が小バカにしたように鼻を鳴らす。アタシに言わせれば似たようななのだが、彼らは自分が属するカテゴリをやけに気にする。
「渡利の弟分って?」
「施設で一緒だったヤツさ。純也より先に逃げ出したクチで、昼は鳶の仕事しながら夜は中古のマジェスティを転がしてた。ビッグスクーターのハシリってヤツだな。純也もしばらくはそいつのツテで鳶職だったんだぜ。ニッカボッカとか履いてさ」
「へえ……」
 どうしてそのまま真っ当な仕事を続けてくれなかったのだろう。言ってもどうにもならないことが、アタシはそう思った。
 中洲の東側、博多川を渡って川端商店街のアーケードにさしかかった。商店街としての歴史は新天町と同じくらいらしいが、趣きを感じさせるのはどちらかと言えばこっちだ。ただし、夜になるとほとんどの店が閉まってしまうので地下鉄の駅とキャナルシティを繋ぐ連絡路にしかならない。平日の夜の中途半端な時間のせいか、人通りは少なかった。
 二年前、由真の育ての母親と対峙する許可を得た代わりに、ここで彼女の拳銃から身を守るための防弾チョッキを着せられたことがある。ヘッケラー・アンド・コッホ・P7M8――徳永麻子が持っていた銃の名前だ。覚えたくもないのにドイツ語での読みまで覚えてしまった。
「その弟分の名前は?」
「リョージ。あいつの苗字、何って言ったっけ?」
「ハンダじゃなかったかな」
 半田亮二――リストのランクBの一人。大声で聞き返しそうになったのを何とかこらえた。アタシの様子に留美さんもリストの名前を思い出したようだった。
「ジュンとリョージくんはずっとつるんでたの?」
 留美さんが訊いた。
「まあな。あいつら、鳶の寮で部屋が隣同士だったし」
「寮?」
「ああ。片江のほうにあったんだ。会社は人手に渡ったらしいから、今もあるかどうかは知らねえけど」
「へえ。で、そのリョージくんとやらは今、何やってんの?」
「純也なんかとつるんでた割には良いヤツだったからな。ひょっとしたら天国かも」
「……死んだの?」
「交通事故でな。嫁さん――つったって籍は入れてなかったんだけど、その女と子供と三人で背振から老司のほうに下りてくる道を軽で走ってたら、センターラインをオーバーしてきたセルシオに正面衝突されてな。嫁さんと子供は即死。リョージも病院に運ばれる途中で死んだって聞いてる」
「それ、いつ頃の話?」
「どれくらいだっけな、カズ?」
「あれは――たしか、スーフリのニュースの後くらいじゃないか。リョージがあのパラパラのオッサンの真似して嫁さんに怒られてたから」
「それがいつかって訊いてるんだよ」
 そんなことを逐一覚えているような相手じゃないことは、誰よりも康之が知っているはずだった。早稲田大学の阿呆どものニュースはアタシも覚えているが、さすがに時期まで覚えていない。横を見ると留美さんがケイタイの画面と睨めっこをしていた。グーグルかヤフーで”スーパーフリー”を検索しているのだろう。由真もよくやるけど、アタシはどうしてもあの機能が使いこなせない。
「二〇〇三年の六月ね」
 康之は指を折りながら何かを数えていた。
「ああ、そうだな。あれはまだ純也が椛島の後釜に座る前だし」
 アタシは乗っ取り劇がいつの話かと訊いた。康之はその年――二〇〇三年の九月だと答えた。
「それ、何か関係あるの?」
「分かりませんけど。時期が近いってだけかもしれませんね。ところで、セルシオに乗ってた相手は?」
「さあ。誰かまでは知らない」
「待てよ。そいつは逃げて捕まってないだろうが」
 康之が慌てて訂正した。
「どういうこと?」
「盗難車だったんだ。ちょっとのつもりで鍵を付けたままで離れた隙に乗り逃げられたらしい。バカとしか言いようがないけどな。セルシオとか、あの辺は狙われてるから」
「だよな」
 和成が同意を示すようにうなずいた。
「警察は遊び半分で乗り回してた奴らが運転をミスってぶつけたって考えてるらしい。で、相手の軽がペシャンコになってるのを見て、怖くなって乗り捨てて逃げたんだろうって。確かにそうとしか考えられないよな」
「……なるほどね」
 脳裏にそんなニュースを聞いたような記憶はおぼろげにあったが、今、聞いた話と記憶の境界線は定かではなかった。交通事故のニュースはそれが轢き逃げであっても繰り返し報道されない。
「話がずいぶん逸れちまったな。他に訊きたいことは?」
「ないわ。それよりまだ?」
「もうすぐだよ。なぁ、カズ?」
「そうなんだけど……あれっ?」
 財布の中身を覗き込んでいた和成が素っ頓狂な声を上げた。
「やっべ、この前もらったチケット忘れた。ウチまで行って取ってくるから、ヤス、先に二人連れて行っといてくれよ」
「やだよ。あの店、おまえのダチがやってるから通ってるんだぜ。公園で待っててやるから行って来い」
「へいへい」
 和成は身を翻して走り出した。真面目にトレーニングを続けているかは分からないが身のこなしはアスリートのそれだ。そのまま通りを渡って真っ正面にあるマンションに入っていく。
 アタシたちはそのまま冷泉公園に足を踏み入れた。街中にあるにしてはだだっ広い公園で端のほうには遊具も並んでいる。土居通りに面した歩道にはオブジェやベンチが並んでいて、昼間なら子育てサークルの集会なんかに向いていそうだ。残念ながら今の時間帯はベンチをホームレスが占拠していてちょっと薄気味悪い。歩道には屋台も五、六台ほど軒を連ねている。かつて、トモミさんの住まいがこの近くにあったのでアタシには慣れ親しんだ公園ろだが、入院に際してマンションも引き払ってしまったので、考えてみると近寄るのは久しぶりだった。
「へえ、こんなとこにも屋台があるんだ」
 留美さんは感嘆のため息を洩らしていた。
「有名だよ、この辺は。カクテル屋台なんかもあるし。フランス料理なんてのもな」
「あたし、カズの友達の店よりこっちがいい」
「戻ってきたら、言ってみればいいさ。俺はどっちでもいい」
「アタシも」
 その瞬間、頭上――どこかのビルの高いところだろうか――で”パンッ!!”と何かが破裂するような乾いた音がした。
「……なんだろ、今の」
「パンクじゃねえの?」
 康之は呑気な口調で言った。留美さんも不審そうながら曖昧に頷いている。
 アタシだけが違っていた。首筋をチリチリと嫌な感触が這い登ってくる。そして、それはすぐに証明された。さっきよりも少しくぐもった音が立て続けに鳴ったからだ。胸騒ぎは一足飛びに確信へと変わった。空虚な――そのくせにいつまでも耳に残るその音は紛れもなく銃声だった。
「ヤス、カズのケイタイを鳴らして!!」
「えっ、どうして――」
「いいから早くッ!!」
 何事か分からない表情の康之は、それでもアタシの剣幕に押されるようにゴテゴテと飾りのついたケイタイを握った。
「出ねえよ――あれ、切れた」
 思わず舌打ちした。留美さんが「何、ねえ、真奈ちゃんどうしたの?」と見たこともないオロオロした顔をしている。説明してあげたいがそんな余裕はない。
「マンションはオートロック!?」
「そうだけど……ああ、でも、駐車場のほうから勝手に入れる」
「何それ、意味ないじゃん」
 言い終わる前にアタシは走り出していた。相手は拳銃を持っている。そのことに身の危険を感じていないわけではない。しかし、それを忘れてしまいそうになるほどアタシの頭には血が上っていた。アタシの勘が正しければ、そこにいるのは権藤康臣のはずだからだ。
 康之が言ったとおり、マンションの入口はオートロックになっていた。ロビーを覗き込んだが人影はない。誰かが出てくるのと入れ違いに入ることはできそうにない。
 駆け足で隣接する駐車場に向かった。一階の廊下とは高いコンクリート壁で仕切られているが、真ん中あたりにあるドアのノブが曲がってきちんと閉まらなくなっている。康之の言う”勝手に入れる”ところとはこれだ。
 この場所からでは双子の部屋がある七階の様子は見えないが、不思議なことに住人が騒いでいる様子はなかった。いくら隣人との付き合いが希薄だからと言って、あれだけ大きな音がして誰も出てきていないというのは変だ。
 頭を振って、おかしいのは自分だと思い直した。この国で真っ当な人生を送っていれば銃声を聞く機会など限られている。あの音を銃声だと認識できなければ、康之や留美さんのようにパンクか何かだとやり過ごすのが普通なのだ。
 選択肢は二つあった。一つは七階まで駆け上がること。もう一つはここでマンションから出てくる犯人を待ち伏せすること。エレベータは一階に停まったままだ。つまり、犯人は階段で降りてくる。ここで待っていればその姿を見逃すことはない。
 あとは何を優先するか、という問題になる。
 アタシはエレベータに乗った。犯人を逃がしたくはない。でも、ここで出てくるのを待つのは撃たれた和成を見捨てることを意味していた。彼には何の義理も借りもないが、その選択ができるのならアタシは最初からこの場にいない。
 七階の廊下に出ると、一番奥の踊り場のほうから細い脚が伸びているのが見えた。聞こえたのが銃声なのは確信していたが、どこかで聞き間違いであって欲しいと思っていた。あるいはアタシたちとは関係ないヤクザの抗争か何かであって欲しかった。
 しかし、その淡い期待は粉々に打ち砕かれた。
「カズっ!!」
 仰向けに横たわった和成はグッタリしていた。かすかに上下する胸板がかろうじて彼が生きていることを示している。
 和成の身体を抱き起こした。白いゴシック調のシャツはすでに真紅に染まっている。その身体で床をのた打ち回ったせいで、周囲は巨大な刷毛で赤いペンキを塗りたくったような惨状になっていた。腹部に三つ、焼け焦げたような丸い痕がある。
 脳裏に同じように腹を四発撃たれた男から聞かされた言葉が甦った。おそらく和成は助からないという事実を受け入れる以外、何の役に立たない知識だ。
「――ヤス?」
 細い、喉に絡みつくような擦れた声が洩れた。目はすでに焦点を結んでいなかった。デッサンの狂った人物画のように、力の抜けた和成の表情は奇妙な歪み方をしていた。死に瀕した人間が安らかな顔をしているなんて嘘だ。
「ヤスはすぐに来るわ。それまで頑張って」
「……ああ」
 頑張ってどうなる、という想いを必死で振り払った。止血をするべきなのだが、シャツの穴が開いている辺りに手を沿えてやるくらいしかできることはなかった。血液の粘つく感触と温かさがこんな状況だと言うのに生命というものを実感させた。
 周囲を見渡した。和成のケイタイは踊り場の排水用の浅い溝に追いやられていた。
 和成を横たえてケイタイを拾った。電源は切れているが損傷はない。持ち主の血に塗れたアタシの手の跡が本体よりもカネがかかっているに違いないデコレーションを台無しにした。
 着信履歴を呼び出して康之のケイタイを鳴らした。
「おう、カズ。今、そっちに――」
「あんたの部屋の前、すぐに来て!! それと救急車っ!!」
「きゅ、救急車!?」
「説明してるヒマがないの、カズが撃たれて死にかけてんのよ。急いでっ!!」
 返事を待たずに電話を切った。
 警察への通報はアタシがやらなければならないだろう。ただ、一一〇番で一から事情を説明するのは面倒だ。桑原警部のケイタイにかけるのがベストだけど彼の番号は自分のケイタイのメモリを見ないと分からない。留美さんのワンピースを台無しにして言うことではないが、血塗れの手で自分の持ち物に触りたくなかった。
 もはや暗記しつつある藤田警部補の番号を押そうとしたしたとき、またしても銃声が鳴った。続いて甲高い悲鳴――留美さんの声。

 ――しまった。

 迂闊だった。和成が狙われたのが過去の悪行によるものならば、当然、康之も狙われているはずだった。もし二人とも殺そうと思っているのなら一度にやらないと後々面倒なことになる。犯人はこの場を離れて、近くで康之が来るのを待っていたのだ。
「――くそッ」
 アタシは身を翻した。音は表通りから聞こえている。
 廊下の中ほどで、恐る恐るという感じで開きかけたドアから若い男の眼差しが覗いていた。ご丁寧なことにドア・チェーンはかかったままだ。何事かと様子を伺う濁った目とまともに向き合った。
「ちょうどよかった、すいません――」
「あ、あんた、いったい?」
 言葉を遮って、アタシを見る目が一気に見開かれた。自分が血塗れなのを思い出した。男の目には恐怖と同時に事情を勘繰る下卑た光が宿っている。
 アタシは「そんなに興味があるなら、どうしてもっと早く出てこなかったんだ!」と怒鳴りたいのを必死でこらえた。もし、この男が急に道徳心にかられてアタシを取り押さえに出てきたら、即座に殴り倒してやろうとさえ思った。
「人が死にかけてるの、救急車を呼んで!!」
「えっ、人がって、どういう――」
 外でもう一発、乾いた炸裂音がした。男は「ひっ!!」と短い悲鳴を洩らした。
「とにかく急いでっ!! 呼ばなかったら、あんたが入院する羽目になるわよっ!!」
 男はいよいよ顔を歪ませていた。それ以上、相手にせずに走り出した。
 猛スピードで階段を駆け下りてロビーを飛び出す。夜の熱気に澱んだ空気が壁のように立ちはだかった。顔を腕で拭おうとして鼻をつく血の匂いにそれを思いとどまった。
「……ヤスっ、ヤスっ!!」
 留美さんが道路に倒れた康之の身体を揺すっている。黒ずくめのせいでどこを撃たれたのかは分からない。
「留美さん!!」
「真奈ちゃん、ヤスが、ヤスが――」
「撃ったヤツは!?」
「えっ――?」
 留美さんはガタガタと全身を震わせていた。当たり前の反応だ。しかし、今は悠長に宥めている場合ではなかった。留美さんの肩をつかんで激しく揺さぶった。
「撃ったヤツは何処に行ったんですか!?」
 呆けた表情に僅かながら力が戻ってきた。留美さんの視線はアタシの肩を追い越して背後――国体道路へ出る方向を見ている。
「あ、あいつっ!!」
 振り返った。通りに面したコイン・パーキングから茶色のスポーツセダンが飛び出してきた。ちょうど前を通り掛かったコンビニエンス・ストアの配送トラックが、けたたましいクラクションを鳴らしながら車線を変えてスポーツセダンを避けた。
 急ブレーキを踏んだスポーツセダンの運転席に街灯の光が差し込む。おかげで男の横顔が見えた。不機嫌そうな面長なシルエットは権藤康臣のものだった。
 エンストしたセダンが再びエンジンをスタートさせる。残念ながら追いかけてどうにかなる距離ではない。それでも黙って逃がすわけにはいかなかった。せめてナンバーを、と思って走り出した。
 車道に滑り出したリアハッチに視線をこらした。福岡ナンバー、ひらがなは読み取れなかったが下の四桁ははっきり見えた。車種は旧型のスカイライン――テールランプが丸目の四灯だった頃のモデルだ。ボディ・カラーがシルバーなのも分かった。最初に茶色に見えたのはオレンジ色の街灯が映り込んだせいだ。
 スカイラインは国体道路のほうに向かっている。見る見るうちにテールランプが遠ざかっていく。
 次の瞬間、アタシの目の前に天蓋を取っ払った古いジープがスキール音を鳴らしながらつんのめるように停まった。
「真奈っち、乗れ!!」
 運転席から怒鳴ったのはシュンだった。
 あまりの意外な人物の登場にアタシは度肝を抜かれた。まさか、このタイミングでこの男が現れるなんて、偶然にしても出来すぎている。
「……どうして?」
「いいから早く!! あいつ、追いかけるんだろ!?」
 シュンはフロントウィンドウ越しに権藤のクルマを指していた。スカイラインは櫛田神社の前を通り過ぎて、今まさに国体道路を天神方面に曲がろうとしているところだった。
「サンキュー、恩に着るわ」
「お礼は追いついてからだな。飛ばすぜ」
 アタシが助手席に飛び乗ったのと同時にジープはロケット・スタートのような勢いで走り出した。

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