Left Alone

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  第 57 章 

 福岡市内に戻ってきたときには六時を回っていた。シュンは家に帰らずにまっすぐ店に出るので、その前にアタシを平尾浄水まで送って行こうと言ってくれた。けれど、そこまで迷惑はかけられない。
「天神でちょっと見ていきたい店があるんで、街まで乗せてってください」
「……別に構わないけど、遠慮してるんじゃないだろうな?」
「やだな、そんなに奥ゆかしい女に見えます?」
 シュンはしばらく疑わしそうな目を向けていたが、やがて、諦めたように「ショッパーズの前でいいか?」と訊いた。アタシはオーケーと答えた。
 北天神のランプで都市高速を下りて、渡辺通りに入った。
 夏休みの夕暮れの街並みは見知っている風景だ。蒸し暑い空気が立ち込める中をバスやトラック、スポーツカーやヴァン、セダンなどのいろんなクルマが行き交い、その間をチョロチョロと抜けるようにバイクや原付が走り抜ける。ショッパーズの前には渡辺通りを渡る横断歩道があって、夏休みを満喫するアタシと同世代の子たちから仕事帰りらしいOLやサラリーマンまで、何処から湧いて出てきたのかと思うほどの人たちが信号が変わるのを待っている。
 何事もなければ、アタシもそんな街角の風景の一人としてこの夏を過ごしていたはずだ。村上とどうやって仲直りしようか――そんなことを考えながら。
 歯車は、どこで狂ってしまったのだろう。
 信号が変わって、ジープは横断歩道の前で舗道に寄って停まった。
「ありがとうございました」
「なあ、ホントに送っていかなくていいのか?」
 表情は困惑しているようにも、どことなく怒っているようにも見えた。アタシは小さく笑ってみせた。
「そんなに心配してくれるなんて、どうかしたんですか?」
「そりゃするさ。見るからに疲れてるんだもんな」
「アタシが?」
「他に誰がいるんだよ。最初に会ったときと比べたら一〇歳くらい老けたように見えるぜ」
「ひっどーい。それはマナー違反ですよ。これでも女の子なんですから」
「分かってるよ。男の身を案じてやる趣味はないさ」
 歩行者信号が点滅を始めた。
「気になることはあるんだろうけど、今日は早く帰って寝ろよ」
「分かりました。そうします」
 ベッドに潜り込んでも眠れないかもしれない。でも、とにかく今は何も考えずに休むべきだった。
 アタシがジープの助手席から降りるのと同時に信号が青に変わった。一番左のレーンはこの時間はバスがズラリと並んでいて、青になっても走り出さないジープに情け容赦ないクラクションが浴びせかけられる。シュンは遠くからでも聞こえるほどの舌打ちをして、つんのめるようにジープをスタートさせた。
 小さく手を振りながらそれを見送って、アタシは盛大なため息をついた。
 
 ミーナ天神(アタシはいまだに旧称の”マツヤレディス”と言ってしまうが)の一階のカフェで一休みしながら、これから何をすればいいのかについて考えた。
 多くのことが、すでにアタシの手を離れていた。権藤康臣と渡利純也のグループの生き残りの間に起こったことは分からない部分はかなり多いが、肝心の登場人物が全員舞台を降りてしまっている。
 何が原因で事件が起こり、何がその後押しをしてしまったのか。それを調べるのは警察の仕事だし、アタシが首を突っ込んだところで出来ることは知れている。そもそもは父親の事件の背景や自分が何も知らずに過去に押し流していた事柄が知りたくて、アタシは白石葉子のアパートを訪ねたはずだ。なのに、それがどうでもいいことになっているのは考えてみると変な話だ。
 すべてを変えてしまったのは権藤が村上に向けて放った銃弾と、県警監察官室が村上にかけた容疑だ。前者の真実は、あるいは権藤があの世に抱いていったのかもしれない。しかし、後者はまだ厳然と存在する。そしてそれは、どこかで村上が独りで追い続けていた真実とも繋がっている。
 やるべきことは分かっている。村上を窮地から救い出すこと。そして、彼がやろうとしていたことを成し遂げること。ただ、問題は肝心の村上の意図がいまひとつハッキリ読み取れていないことだ。それがアタシを激しく苛立たせていた。

 ――病室に忍び込んでやろうか。

 ふっと浮かんだ考えは、それほど悪いものではないような気がした。何よりもアタシは彼に会いたかった。一言でもいいから彼の声が聞きたかった。
 しかし、アタシは目を閉じて馬鹿げた思いつきを追い払った。片岡警視は村上の容態を「意識が戻ったかと思えば失っての繰り返し」と言っていた。警察の事情聴取すらままならない村上に会いに行っても答えられる状態とは限らないし、それどころか彼に無用な負担を強いることになりかねない。
 ウェストポーチの中でケイタイが振動した。上社からのメールだった。文面は<都合がいいときに連絡をくれ>という短いものだ。
 上社のケイタイを鳴らした。
「よう、ずいぶん早かったな」
「……どうかしたの?」
「どうしたんだ、ずいぶん機嫌が悪いな」
「別にそんなことないけど」
 というより昨日の昼に別れて以来、この男は何をやっていたのだろう。
 もちろん、この男にだって探偵としての本来の仕事があるだろうし、おそらくはそれより忙しい副業もたくさん抱えているはずだ。村上から幾らで調査を請け負っていたのかは知らないが、刑事の給料では上社のような男をフルタイムで使うことはできないだろう。
 それでも、片手間仕事のような扱いは何となく気に入らない。間違ってるのは自分と知りつつ、声がつっけんどんになるのを抑えられなかった。
「君の予定を訊こうかと思ってな。今夜はどうだい?」
「どうだいって――空いてるかってこと?」
 上社がそうだと言うので特に予定はないと答えた。
「それが?」
「メシでもどうかと思ったのさ。いい店を見つけたんでね」
「ごめんなさい、そんな気分じゃないわ」
 にべもなく言い返した。
 シュンに言われるまでもなく、アタシは疲れきっていた。アタシだってまだ十九歳で、一晩や二晩ほどオールしたくらいでくたびれるほどひ弱ではない。
 疲労はむしろ精神的なものだった。権藤の死のショックもそうだし、考えないようにしても倉田兄弟の最期も脳裏をよぎる。逢うことはなかったとは言え、権藤に殺された二人のことも心に重く圧し掛かる。少なくとも渡利の仲間たちの死を悼んでやる気はない。そんな義理も借りはない。それでも、人の死はそういう感情を越えたところでアタシの魂の奥底を揺さぶっていた。
「疲れてるの。夕べのことは知ってるでしょ?」
「ああ。朝からニュースで何度も見たし、元のかみさんからも電話があった」
「だったら察してくれない?」
「そういうことか。――だが、一軒だけ付き合って欲しい店があるんだ」
 これみよがしのため息をマイクに送り込んでやった。
「どこ?」
「竹下駅のすぐ近く。勇午っていう居酒屋だ」
「居酒屋!?」
 思わず素っ頓狂な声を出してしまった。しかし、驚いたのはむしろ竹下という駅名のほうだった。村上のマンションはそこから歩いて五分もかからないところにある。
「どういうこと?」
「んー、そうだな」
 もったいぶるような声。目の前にいたら手が出ていたかもしれない。
「長くなるんで、話は会ってからにしよう。おそらく大した時間はかからないし、終わった後は家まで送っていくよ」
 まだ行くとは答えてなかったが、そう言われては断われない。八時にその店の前で待ち合わせることにして電話を切った。

 居酒屋勇午は竹下駅から村上のマンションに向かう途中にあった。賃貸マンションの一階の貸し店舗というよくあるロケーションで、店名は覚えてなかったがそこに居酒屋があること自体は知っていた。白木造りの引き戸と藍色の暖簾はちょっとした小料理屋風で、馴染み客以外を寄せ付けない雰囲気がしっかり漂っている。
 約束の時間には少し早かったが、なかなか気温が下がらない外で待つのはゴメンなので先に暖簾をくぐった。
「――いらっしゃい」
 料理人というよりは頑固な指物職人という感じの主人が声をかけてきた。
「お一人ですか?」
「いえ、待ち合わせなんですけど……」
 主人はボソリと「じゃあ、小上がりに」と言って、カウンターの向かい側の壁際を占める畳敷きの席を指した。細長い店内には板場に面したカウンターに八席と小上がりの座卓が三卓あるだけだ。それぞれの座卓は籐の衝立で仕切ってあって様子は窺えない。
 入口が見える一番手前の席に上がってヱビスを頼んだ。

 ……何なんだ、いったい。

 心の中で呟いた。チェーンの居酒屋のような猥雑さはないし、壁に掲げられたお品書きも地の物を使ったメニューが主なようだ。カウンターの中のちょっとチャラチャラした若者が気にはなるけど、キビキビした主人が醸し出す雰囲気は個人経営の店にありがちな馴れ馴れしさを感じさせない。全体的に見れば良い感じの店の部類に入るだろう。
 それでも、上社のような男がわざわざ女性を誘うような店には見えない。
「どうぞ」
 そのチャラチャラ男がビールとグラス、付きだしを運んできた。涼しげなガラスの器に盛られているのはひじきの煮つけとオクラを和えたものだった。手酌で注ごうとしたら彼が「どうぞ」と言ってビンを手に取ったので、ちょっと気まずい会釈をしながら注いでもらった。
 時計は七時半を指していた。あと三〇分も食べ物なしでやり過ごすのはどうにも気が進まなかった。ビールだけで居座るのが居心地悪いというより、空きっ腹でアルコールを飲むのは今のアタシだと悪酔いしかねない。壁のお品書きから小芋の煮付けとアスパラガスの梅肉和えを注文した。
 チャラチャラ男がカウンターに戻ってから、アタシはケイタイを引っ張り出した。小さなボリュームで有線放送の演歌が流れているだけの静かな店で電話するのは憚られるが、約束の時間なので仕方がない。
 メモリから呼び出したのは高橋拓哉の番号だった。
「もしもし、お久し振りだね」
 外見は記憶にあるものとはかなり変わってしまっているらしいが、裏声でからかわれてるんじゃないかと思うほど甲高い声はちっとも変わってなかった。
「ホントね。元気?」
「おかげさまで。そっちもモデルを始めたそうだね」
「なんでそんなこと知ってんの?」
「由真ちゃんに聞いたに決まってるだろ。自分のことみたいに自慢してたけど」
「へぇ……」
 しばらく、お互いの近況を尋ね合うような会話が続いた。高橋は相変わらず両親が経営する貿易関係の会社を手伝っているらしいが、最近、その仕事で得たノウハウを生かして自分でも独自の会社を興したと言った。肩書きは”代表取締役CEO”というから恐れ入る。この電話も天神にいるときにかけたら商談中を理由にこの時間にずらされたのだ。
「ウチでも来年くらいにはインポートブランドの店をオープンする予定だから、いずれオンラインショップのモデルをお願いするかもしれないよ」
「そのときにまだやってたらね。ところで本題なんだけど、由真が預けたノートパソコン、調べてくれた?」
「一通り。いやあ、村上さんらしいPCだね」
「どういう意味?」
「何にも無駄なものがないってこと。ホント、必要なソフトしか入ってないし。あと、これだけ几帳面な人もそうはいないね」
 マンションの惨状を鑑みたときに村上の几帳面は疑いを免れない言葉だが、仕事に関しては誰もが口を揃えて彼をそう評する。
「何か見つかった?」
「由真ちゃんから聞いたような、村上さんが調べてたことに関するものはないね。君へのメッセージらしきものもない。とりあえず、削除されてたメールが復元できたけど」
「そんなことできるの?」
「大して難しいことじゃないよ」
 口調には得意げな響きがあった。詳しい解説を聞いている暇はないので、先手を打って村上が誰とメールのやり取りしていたのかを訊いた。
「高坂菜穂子ってのは前の奥さんだよね。あと、由真ちゃん。藤田知哉っていうのは?」
「それは同僚の刑事。他には?」
「一通だけ、誰だか分からないアドレスから」
「どういうこと?」
「数字の羅列なんだよ。ドメインが”@q.vodafone”だから、携帯電話から送ったんだろうね」
 その番号を聞いてみた。”〇八〇”で始まっていることにピンときて、上社から教えてもらった村上のプリベイドの番号と付き合わせた。同じだった。
「ああ、そうだ。件名に”Fw”がついてるからこいつは転送されてるね。たぶん、村上さんが携帯宛てに来たメールを保存しとこうと思ってPCに送ったんだろう」
「内容は?」
「うん、これがいまいち意味が分からないんだけど……。<ごめん。家にきたけど恭吾がいなかったから勝手に入ったよ。頼まれてたのは「武器よさらば」の中に入れといたから>だって」
「何それ?」
「僕に言われてもね」
 人付き合いの悪い村上が自宅に誰かを招き入れるとは考えにくい。留守中の家に入らせるのはさらに考えにくい。だとすれば相手は限られてくる。しかも、上社が調査の連絡用に準備したプリベイドの番号を教えていたとなれば、それは白石葉子しかあり得ない。
 その事実はアタシの胸の奥をチクリと痛くした。目の前に上社がいないのは幸いだったかもしれない。もしいたら、アタシはあの朴念仁に葉子の恋心につけ込ませようとしたチョイ不良親父の頭にビールをぶっかけていただろう。
 気を取り直すために大きく深呼吸した。メールの謎は二つ。頼まれていたものとは何か。それを隠した「武器よさらば」とは何か。
「えーっと、武器よさらばって何だっけ?」
 高橋が言った。ついていた片肘から顎が滑り落ちそうになった。
「あんたねぇ、アーネスト・ヘミングウェイの小説じゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ。たまはコンピュータの専門書以外の本も読んだら?」
 偉そうなことを言いつつ、アタシも小説のほうは読んだことはない。映画はずっと前に見た記憶がある。第一次世界大戦時のイタリア(だと思う)を舞台にしたお話で、反逆罪の汚名を着せられた兵士と彼の子供を宿した従軍看護婦の逃避行だったはずだ。アンハッピーエンドだったことをやけにはっきり覚えているのは、いっしょに見ていた母親がラストシーンで号泣したからだ。
「村上さんの部屋にその映画があるの?」
「どうだろ? 映画って決まったわけでもないけど……」
 村上はかなりの映画好きで、最近の映画だけじゃなく古い映画のDVDのコレクションも持っている。警官のくせに違法コピーのものが多く含まれているのをからかい半分で非難したこともある。例によってあの男は見た後のDVDを片付けないので何度もDVDラックの整理をしたことがあるが、枚数が多すぎてその中に「武器よさらば」があったかどうかは定かじゃない。同じ理由で本棚のほうもどうだか分からない。
 上社との話が終わったら行ってみなくてはならないだろう。幸い歩いていける距離だし、部屋の鍵はごく普通のタンブラー錠なのでアタシにとってはないのと同じだ。
「他に何か、手掛かりになりそうなことは?」
 高橋は盛大なため息を送話口に送り込んできた。
「残念ながら何も。あとは本体をバラしてみるしかないな。どこかの隙間に何か隠してあるかもしれないし」
「ノートパソコンに?」
「我ながら強引な推理だとは思うけどね。――いいかな?」
 最期の質問は、村上の私物を分解することへの同意を求められているのだった。アタシのものでもないけど、今は他に許可を出せる人物はいない。
 アタシは「徹底的にやって」と言って電話を切った。

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