Left Alone

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  第 58 章 

 上社は約束の八時に五分ほど遅れて勇午に現れた。馴染みのようにカウンターの中の主人に小さく手を掲げてみせてから、アタシの向かいに上がりこんでくる。頼むものが決まっているのか、何の注文もしてないのにチャラチャラくんがジョッキにビールを注ぎ始めた。
 今日の上社は細いストライプの生地に襟が白のクレリックシャツ、ドット入りのベージュのネクタイ、ダークグレイのトラウザーズという大人しめの格好だった。袖は肘の上まできっちりと折り返して捲り上げられている。袖を捲るくらいなら半袖にすればいいのにと思うが、そこには何かこだわりがあるんだろう。そういえば村上もそうで、ワードローブにはまったく着ないという警察の制服以外に半袖のシャツはない。
「いやあ、悪い悪い。人身事故でJRが遅れたもんでね」
 届いたビールを美味そうに喉に流し込んでから、上社はおしぼりで首元を拭った。
「JR?」
「ちょいと小倉まで行ってたんだ。――ああ、払いは俺が持つから好きなものを頼んでくれ」
 言われなくても金を払う気なんかなかった。鶏の竜田揚げと明太子入りのだし巻き、枝豆を頼んだ。どうせなら白ごはんで夕食を済まそうかとも思ったが、迷った結果、ビールをお替りすることにした。さすがのアタシもビールと炭水化物は両立しない。
「で、何の用なの?」
「ん?」
 タバコに火をつけようとしていた上社が目を瞬かせた。
「あんたが呼んだんでしょ。用がないんなら帰るわよ」
「まあ、そう慌てるなよ――って言ってもダメか。本当に恭吾が言ってたとおりだな」
「何て言ってたのよ?」
「年の割に落ち着いてるように見えるけど、意外とこらえ性がなくてせっかちだって」
「余計なお世話よ」
 届いたお替りを手酌でグラスに注いだ。上社は瓶に手を伸ばす素振りだけ見せた。
「小倉に何しに行ってたの?」
「恭吾の実家に行ってみた。それほど期待はしてなかったが、ひょっとしたら家族に何か話してたかもしれないからな。どうでもいいがとんでもなくでかい家だったぞ。玄関なんか天井まで届くステンドグラスがあるんだぜ。ガレージにはロールズ・ロイスがあったし」
「……へえ」
 行ったことはもちろんないが話は菜穂子から聞いたことがある。それによると、村上邸は煉瓦色のレトロな色合いの壁に囲まれたコロニアル様式のお屋敷で、芝生の庭は普通の家が三軒はすっぽり入る広さなのだと言う。そこには番犬代わりにアイリッシュ・セッター(もちろん血統書つき)が放し飼いにされていて、犬が苦手な菜穂子は屋敷から出ることができなかったと苦笑いしていた。他にもクラシックなベルスリーブのワンピースのメイドさんがいたり、地下には映画館顔負けのシアタールームがあったりと、そこら辺の金持ちとはいろんな意味で格が違うのだそうだ。
 せめてもの救いは家族全員が「ウチは成金だから」が口癖で、家柄がどうとかいうような寝言を言わないことらしい。村上を見ていれば何となく納得できることだ。
「それで、家族からは何か聞けた?」
 気を取り直して訊いた。上社は首を横に振った。
「親父さんと兄貴さんに話を聞くことができたが、残念ながら何も。恭吾のやつはもともと家には寄り付かないほうだったが、三年前に左遷されて以降はその傾向に拍車がかかってたらしい。最後に顔を出したのは去年、祖父さんが入院したときだそうだ」
「要するに空振りだったわけね」
 アタシが知らなかっただけで、上社が自分の用事にかまけていたわけでも遊んでいたわけでもないことは素直に嬉しかった。それでも、何の成果もなかったことはアタシを落胆させた。
「やっぱりせっかちだな、君は」
 上社は可笑しそうに口の端を歪めた。
「どういうことよ?」
「まあ、村上家の聞き込みの成果は確かにおっしゃるとおりだが、俺が恭吾の家に行ったのはついでみたいなもんなのさ」
「……悪いんだけど疲れてるの。もったいぶるのはやめてくれない?」
 これ見よがしにため息をついてやった。声がだんだん険悪になっていくのが自分でも分かる。上社はすまし顔でジョッキのビールを空にすると、カウンターに向かってお替りを注文した。
「俺は白石葉子と吉塚和津実が何処で会って何を話していたのか、それを知っている人物を追っていたんだ」
「ちょっと待って。そんな人がいるの?」
「白石葉子の行動については、熟知している人物を把握してるんでね。俺が葉子と知り合ったきっかけは話しただろう?」
「あんた、葉子が働いていたラウンジの常連客だったんじゃなかったっけ?」
「それは表向きの理由だ」
 記憶をたどった。
「……そういえばあんた、葉子につきまとってたストーカーを追っ払ったことがあるって言ってたわね――って、まさかその?」
「ご名答」
 上社の目が得意そうに細まった。
「葉子へのストーキングも一時的には収まったが、ああいう手合いは思い込んだらそう簡単に諦めてはくれない。実際、葉子も露骨な付きまといはなくなったが、完全に諦めたとは思えないと言っていた。どうだ、話を聞くのにうってつけの相手だと思わないか?」
 うってつけどころではない。一度追い払われても諦めないほど執念深いストーカーであれば、葉子の行動は筒抜けだったと言ってもいい。
「で、そいつはどこ? ここに来るの?」
 思わずテーブルに身を乗り出した。上社は両の手のひらを見せてアタシを制した。
「落ち着け、ここには来ないよ。ヤツは葉子の事故死を知って、傷心のあまり後追いなんかしてやがった。で、現在は小倉の実家に近い病院に入院してる。俺が小倉くんだりまで出かけたのはそのせいだ」
「なんて病院?」
「訊いてどうする。今から話を訊きに怒鳴り込むなんて言うんじゃないだろうな?」
「いや、そんなことないけど……」
 アタシが葉子の行動について知りたいことはいろいろある。上社が言うように和津実とどんな話をしていたのか。和津実が権藤に話そうとしていたことについて彼女は何か知らなかったのか。あったとしたらそれを誰かに言い残してはいなかったのか。
 しかし、正直に言えば真っ先に浮かんだのは「葉子と村上の間に何もなかったというのは本当なのか?」という、今はあまり問題にするべきではないことだった。アタシはその考えを懸命に頭から追い払った。
「まあ、いいわ。代わりにあんたが話を訊いてきてくれたんでしょ?」
「まあな。それをこれから話すよ」
 話の切れ目を待っていたように頼んでいた料理が届いた。上社は「とりあえず腹ごしらえが先」と言いながら明太子入りのだし巻きに箸を伸ばした。アタシは竜田揚げを自分の皿にとってレモンを振りかけた。出されたものなら文句を言わずに食べるが、アタシは唐揚げよりは圧倒的に竜田揚げ派だ。口に入れると肉汁といっしょに生姜醤油が口に広がって、こんなときだというのに幸せな気分になる。
「ねえ、どうして今夜、この店じゃなきゃならなかったの?」
「ん?」
「小倉まで行っていろいろ調べてきてくれたのはありがたいと思うけど、それだったら、もっと街中の便利のいい店でも良かったんじゃない?」
「ここだからさ」
 上社は何を当たり前のことを、と言わんばかりの顔をしていた。
「……意味が分からないんだけど?」
「白石葉子と吉塚和津実が会ってたのはここ、居酒屋勇午なのさ」
「えーっ!?」
 思わず大声が出た。
「まさか、恭吾のマンションの目と鼻の先が二人の密会現場だったなんて、灯台下暗しとはまさにこのことだな。――本村さん、ちょっといいかな?」
 上社はカウンターの主人を呼んだ。歳は上社と同じか少し上のように見えたが、間柄はむしろ上社のほうが上のような感じだ。しかし、よく考えるとアタシは上社の本当の年齢は知らなかった。勝手に四〇歳くらいかなと思っているだけだ。
 主人は小さく会釈しながら板場から出てきた。
「どうも、ご無沙汰してます」
「いいよ、そんなこと。こっちこそ店をほったらかしにして申し訳ないね」
「……ここ、あんたの店なの?」
「名義だけはね。経営にはまったくタッチしてない」
「私に任せて下さってるんですよ。板場で働かせてもらえるだけでも過分なのに、どうせなら私が好きなようにやってくれと言って、店の名前まで私の名前からつけてくださって」
「ふうん、ホントに大した実業家ね」
「お褒めの言葉と受け取っておこう。真奈ちゃん、こちらは本村さんだ。本村さん、彼女が電話で話した俺の知り合いの榊原さん」
「どうも」
 主人は手の湿りを前掛けで拭いながら名刺を差し出した。保護司の肩書きと本村雄吾という名前が記してある。
「保護司さんなんですか?」
「さん付けされるほど大した仕事じゃありませんけどね」
「それなのに力を入れすぎて、前の職場を辞めなきゃならなかったのさ」
 板場からチャラチャラくんが煮物の仕上げについて声をかけてきた。主人はカウンター越しに指示を与えた。おそらく、チャラチャラくんも本村保護司の担当の少年なのだろう。しかめっ面で「いつも言ってるだろう。何回教えれば覚えるんだ」と言いつつ、横顔にまんざらでもないものが見えたのは気のせいではないはずだ。
「でも、ここで二人が会ってたっていうのも、いまいちピンと来ないわね」
 改めて店内を見渡しながら、この居酒屋で葉子と和津実が二人で会っているところを想像してみた。二人ともアタシの二歳上で、どちらかと言えば個人営業のこういう小粋な店よりは大手資本のチェーンの居酒屋へ行く世代だろう。葉子のことはよく知らないが和津実は明らかにそんな感じだ。
 場所的にもいまいちしっくりこない。姪浜と中洲を往復する生活をしていた葉子にとって、竹下駅はまるで行動半径から外れている。クルマやバイクに乗れなかった彼女がここへ来るためにはタクシーを使うか、地下鉄で博多駅まで移動してから鹿児島本線に乗り換える必要があるはずだ。
 考えられるのは和津実の便利だ。吉塚からなら鹿児島本線の在来線で二駅しか離れていない。それに村上のマンションに出入りしていた葉子のほうが合わせた可能性はあった。だったら吉塚近辺の店でも良かったような気もするが。
「俺もそう思ったが、どうやら最初に葉子を連れてきたのは恭吾らしい。あいつはここが俺の店だって知ってたからな」
「だったら、ここで話したこととかあんたに筒抜けじゃない」
「だからだよ。自分に妙なことをさせてる俺への当て擦りもあったんじゃないかな」
「なるほど」
 罪の意識はあるわけだ。だから許されるものでもないが。
「しばらくして村上さんは顔を出されなくなりましたが、いっしょだった白石さんはお友だちを連れてこられるようになって」
 主人が戻ってきて口を挟んだ。お友だち、のところで胸元に上がりかけた手が寸でのところで思い直したように下がった。和津実の特徴を表すのに豊満なバストを模すのが手っ取り早いのは間違いないが、相手が女だということに思い至ったのだろう。
「それから、二人は頻繁に?」
「頻繁と言うほどじゃありませんでしたが……そうですね、一〇日に一度くらいはお越しになってました。なあ、タカシ。そうだろう?」
「ですね」
 チャラチャラくんが短い返事を寄越す。
「どんな話をしてたかとか、覚えてらっしゃいますか?」
「四六時中、聞き耳を立ててたわけじゃありませんので、何もかもってわけには行きませんが。覚えていることから順に話しましょうか」
 最初に葉子が和津実を連れてきたのは五月の中頃だった。村上が葉子に企みのすべてをぶちまける前の話だ。
 商売柄、客の身なりを見ることに長けている主人によると、二人が普通の昼の仕事をしてないことは一目瞭然だったらしい。和津実はあからさまに不服そうな顔だったようだが、出てくる料理がすっかり気に入ってしまったようで、その後の逢瀬の多くがここだったらしいのはむしろ和津実の意向だったらしい。
 二人はおおむね仲の良い友だち同士という感じだったそうだ。言い争いというほどのことはなくて、たまに険悪な雰囲気になるのは和津実の近況に葉子が説教じみた――というか、正真正銘の説教を浴びせたときくらいだったという。ボニー・アンド・クライドの店内カメラに映っていた二人もそうだった。あのとき、葉子は和津実に現状から抜け出す助けとして現金を渡しているし、和津実はそれを不快に思いながらも受け取らざるを得ない状況に置かれていた。
「ですが、最後にいらしたときは大喧嘩でした。そう、ちょうど二週間くらい前になります」
 主人は若干の苦笑いを込めて言った。十四日前――白石葉子が轢き逃げで命を落とすほんの数日前に二人はここで会っていたのだ。
「どういうことですか?」
「詳しいことは分かりませんが、白石さんがお持ちのDVDをお友だちに渡すの渡さないので、ずいぶん揉めてらっしゃいました。それがあればお友だちの金銭問題は解決するらしかったんですが、白石さんは渡せないの一点張りでした。なんでも、そのDVDはお二人の共通の友人がずっと隠し持っておられたものらしくて」
「共通の友人?」
 上社が言った。自分が訊かれているのは分かっていたが、アタシの思考は別のところに行ってしまっていた。それが若松郁美のことなのは間違いない。そして、彼女が隠し持っていたのが渡利純也のDVDであることも。
 脳裏に浮かんだのは乱雑に背中を縫い合わされたテディベアだった。
 三歳のときにミッキーマウスを殴る蹴るの暴行でボロボロにした過去を持つアタシはぬいぐるみとはまったく縁がないが、手芸にはそれなりに詳しいのでぬいぐるみの胴体の背面が頑丈に縫い合わされている部分だということくらいは分かる。いくら力任せに奪い合ったとしてもそうそう破れたりはしない。普通ならもっと構造的に弱いところ、たとえば手足が先に千切れるはずだ。
 しかし、そこが何らかの理由で一度糸を解かれていたのなら話は別だ。たとえば、郁美が大阪に逃亡する前に持ち出したDVDを体内に隠すために。
 高橋拓哉にメールを送った。復元されたメールが送られた日時を訊くためだ。
 間髪入れずに届いた返事には「七月三〇日の午後六時。ただし、これは村上さんが転送した時間だけど」と書いてあった。村上が頻繁にメールを削除していたことから考えると、葉子から送られてきたのもそれと大して変わらない時間に思えた。
 だとすると、葉子はそのわずか七時間後にこの世を去ったことになるが、それはあまり関係のない感傷だろう。
「――なるほど、そういうことか」
 葉子から村上へのメールのことを含めた説明を聞き終えると、上社は腕を組んで唸った。
「そうすると、葉子が郁美のぬいぐるみから持ち出したDVDは、村上の手に渡っていた可能性が高いな」
「<武器よさらば>の謎かけが解けてればだけど」
 実際には解けていなくても村上本人にはすぐに分かるはずだ。村上のDVDコレクションは三〇〇枚くらいで、そのうち、コピー品がおよそ三分の二。葉子が死んで事実関係の確認に追われたりしたとはいえ、村上のことだから一通りのラベルチェックくらいはしただろう。そこにタイトルが書かれていなかったり自分のものでない筆跡を見つけていれば、それが該当するディスクだということになる。
「いずれにせよ、俺たちは謎を解かなきゃならんわけだ」
「そういうことになるわね。もし解けなきゃ二〇〇枚全部をチェックすることになるわ」
「真奈ちゃんと二人っきりなら、それも悪くないかもしれないな」
「そのときは上社さんに任せてアタシは隣の部屋で寝るわ。ちゃんと二重に鍵かけて」
「相変わらずつれないな」
 わざとらしいほど悲しげな顔をすると不思議な愛嬌がある。おそらく、彼はこの豊かな表情で相手の懐に一気に踏み込んでしまうのだろう。アタシはまったく興味を持てないが、上社が女性にモテる理由は何となく理解できた。
「そう言えば、白石さんはDVDの内容について何か話されてましたか?」
 主人に訊いた。彼は目を閉じて考え込んでいたが、その表情自体が思い出せないことを表していた。
「すいません、話してらっしゃったとは思うんですが、具体的なことは何も――」
「交通事故がどうとか、言ってましたよ」
 板場からチャラチャラくんが口を挟んできた。思わず三人ともそっちに向き直った。
「本当か、タカシ!?」
「間違いないっすよ。えーっと、三、四年くらい前の交通事故を映したもんだって言ってました。まあ、事故の映像なんかテレビの決定的瞬間とかで放送するくらいだから、そんなに大げさな話じゃねえだろとか思って聞いてたんすけど、終いには痩せたほうの姉ちゃんが「あんた、子供が死にかけてるのが映ってるのを自分のために利用する気なの!?」とか怒り始めちゃって」
「……子供?」
「ええ、間違いないっす」
 何と返事をしていいものか分からず、彼に向かって「……どうも」と曖昧な礼を言った。
 死にかけた子供を映した交通事故の映像。それがどうして渡利純也が警察の庇護を引き出す要因になり得たのか。自分がとんでもなく醜悪な事実を封じ込めた封印を解こうとしていることに、今さらながら気づいた。

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