Left Alone

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  第 59 章 

 家まで送ってくれるはずの男が駆けつけ三杯でビールを片付けたことに気づいて、アタシは少なからず憤慨していた。
「結構、いい加減なのね。それを口実に二軒目に誘うのがあんたの手口?」
 アタシはずんずんと駅に向かって歩いていた。上社がその後ろを着いてくる。
「そんなことはしない。送るのはタクシーで送るさ。それとも何だ、俺のメルセデスに乗りたかったのか?」
「冗談でしょ。いい思い出なんか一つもないのに――あんたのベンツにじゃないけど」
「そいつは悪かった。今度はフェラーリに乗ってくるよ」
「あんた、フェラーリも持ってるの?」
「借りてくるに決まってるだろ」
 真夏の一日を不慣れな街を歩くことで過ごした彼に「ビールを飲むな」というのが人でなしの所業だってことは分かってる。
 新たに分かった事実で自分が真相に一歩近づいたことは素直に嬉しい。それでも、それにもまた人の死が関わっていることがアタシの心を暗澹たるものにしていた。上社に当り散らしているのはその苛立ちからだ。
「とにかく、アタシは帰って寝る。ここからなら、JRとバスを乗り継いで帰れるから」
「……分かった。気をつけて帰るんだぞ」
 上社は「もう少し飲んで帰る」と言って店に引き返した。
 日はとっくに暮れているというのに通りの空気は熱く澱んだままだ。部活帰りの学生が懸命に自転車を漕いで走り去る。仕事帰りのサラリーマンが汗を拭いながら駅舎から吐き出されてくる。
 アタシはくるりを踵を返して、村上のマンションに向かって歩き出した。
 独りで彼のマンションを訪ねようとしたのは単なる気まぐれだった。別に上社を撒くつもりはなかった。アタシの特技を知られても問題はないし、家捜しをするのなら人手は多いほうがいい。強いて言うなら問題は管理人に見咎められたとき、アタシだけなら「村上さんに頼まれて掃除に来てます」というかつての言い訳が通じるのが、上社といっしょではかなり不自然なことだけだ。
 村上のマンションはワンルームで住人は帰りの遅い人種が多くを占めている。まだ、ごく当たり前のように通いの家政婦をやっていた頃も、廊下の灯りだけが煌々と点されているのに部屋の大半は真っ暗というコントラストに驚かされたものだ。
 村上の部屋に割り当てられた駐車スペースは空いたままになっていた。権藤に撃たれたあの朝、村上は自分のクルマで南福岡駅に乗り付けている。動転していたアタシも由真も、そして藤田警部補までまったく気づいてなかったけど、駅前のロータリーには彼のフェアレディZがとんでもなく無造作に突っ込んであったと桑原警部が教えてくれた。現在は監察官室の管理の下、県警本部で保管されているらしい。
 人の目がないことを確認してからオートロックの開錠装置に触れた。これは本来は火災などのときに強く叩いてロックを解除するためのものなのだが、上手に叩けば火災報知機を作動させることなくドアを開けることが出来る。訪問販売や新聞の勧誘の人たちが誰にも招かれないのにいきなりそれぞれの部屋のチャイムを鳴らせるのはこの技術のおかげで、コツさえつかんでしまえば大抵のオートロックで応用できるのが特徴だ。アタシはずっと前に元彼に教わっていて、未だかつて失敗したことがない。
 開いた自動ドアをくぐって何食わぬ顔でエレベータに乗り、四階のボタンを押した。ウェストポーチからヘアピンを取り出して真っ直ぐに伸ばす。本物のピッキングツールに比べれば使いにくいが、鍵穴にさえ入ってしまえば何とかなるだろう。
 最後にこのマンションに来たのはアタシが掃除を放棄した後、荒れているに違いないと部屋の様子を覗いたときだ。梅雨が終わってカンカン照りの真っ昼間で、開け放たれたカーテンの間から眩しい陽射しが差し込む片付いた部屋が見知らぬ他人の部屋に見えたことをよく覚えている。
 それでも、印象に強く残っているのは村上と最後に話したあの雨の夜だ。
 
 懸命に言い募って彼を責め続けるアタシから、村上はまるで逃げ出すかのように土砂降りの外へと出て行った。
 考えてみればそれは初めてのことだった。
 村上はそれまで――どんな事柄についてでも――アタシとの言い争いから逃げたことはない。弁護士志望だっただけあって口がうまくて、アタシに言い負かされることなんてないと思っていたんだろう。実際、アタシは彼に口喧嘩で勝った記憶はほとんどない。いつも怪しげな屁理屈を持ち出されて論点をうやむやにされてしまい、やがては自分が言ってることの矛盾を突かれて口ごもるのがアタシの典型的な負けパターンだった。
 その村上が、あの夜だけはアタシと向かい合うことを恐れた。たぶん、どんな屁理屈を持ってしてもアタシを丸め込む自信がなかったんだろう。そして、自分が職務を離れたところで三年前の事件を追い続けていることをアタシに知られたくなかったのだ。それを知ればアタシが首を突っ込まずにいられないことを、彼は誰よりも知っていただろうから。
 そんな村上をアタシはまたしても追い詰めた。自分の気持ちだけを考えて彼の苦しみを理解しようとしなかった。
 どうして、アタシはもっと優しくなれなかったのだろう。

 ――カチャン。

 小さな物音でアタシは我に返った。
 音がしたのは村上の部屋の廊下に面した窓の一つだった。それはトイレの窓で、換気のためにほんの一〇センチほど押し開けられるようになっている。内側には網戸がついていて虫が入らないようにもなっている。
「誰かいるの?」
 とっさにそう訊いていた。もちろん、返事はない。
 気は進まないがトイレの窓に耳を近づけた。便器の中を流れる水の音は聞こえないが、代わりにタンクに給水するチョロチョロという水音を捉えることができた。さっきのカチャンはおそらくドアが閉まる音だ。
 誰がいるのか。
 可能性があるのは村上が部屋の掃除を頼んだ菜穂子くらいだが、彼女なら灯りをつけるはずだ。晴れた夜で月明かりが差し込んでるといっても、堂々と部屋に入れる彼女が暗い中でトイレを済ませなきゃならない理由はない。廊下を歩いてくるときも物思いに耽っているときも、トイレから灯りが洩れていなかったことは自信を持って断言できる。
 もう一度、トイレの窓から中の様子を窺った。しかし、このマンションにはトイレのドアの他にも廊下と部屋を隔てるドアがあって、中の物音は聞こえてこない。
 ドアの前に立ってチャイムを鳴らしたが返答はなかった。
 仕方ない、実力行使だ。今度はテレビゲームのミサイル連射のように断続的にボタンを押し続けた。廊下にもそのチャイムの音が洩れ聞こえてくる。
 根負けするまでやるつもりだったら、相手は意外とあっさり折れた。乱暴に廊下のドアを開ける音がした。
 チャイムを押す手を止めて、ドアの覗き窓から見えるところに立ち直した。不思議なもので、そこに誰かいると分かっているだけで無機質なレンズにも視線を感じる。分厚いドアの向こうで相手がどんな表情をしているのか想像してみたが、肝心の顔が分からないので、浮かんできたのはため息と落胆に肩が落ちるシルエットだけだった。
 その後の反応がないので、あらためてチャイムに手を伸ばしかけたところでドアチェーンを外す音がした。乱暴にサムターンを回す音がそれに続いてドアが開いた。
「……夜なんだ。少しは隣近所の迷惑を考えたらどうだ?」
 感情のない静かな声でそう言ったのは、権藤康臣によく似たシルエットを持つ公安課の刑事――馬渡だった。この場に誰が居ても大抵は予想外だろうが、この刑事は中でも特大級の予想外だった。知人でも何でもない村上の部屋に勝手に上がり込んでいることを見咎められても、まるで悪びれている様子もない。
「あんた、ここで何やってんのよ?」
 馬渡は面倒くさそうに首を傾げた。苦虫を噛み潰し続けて三〇余年という感じの苦みばしった表情が浮かんでいる。そこにはシュンの父親の右手を何の躊躇いもなく打ち抜いたというのも納得できる傲岸さがにじんでいた。
 権藤となんか、ちっとも似ちゃいない。
「捜査中だ。そんなところに突っ立ってないで、ドアを閉めたまえ」
「ちょっと待って。あんた、誰に断わって――」
「話は中で聞く」
 馬渡はアタシを遮ると、踵を返して奥の部屋に入っていく。慌てて靴を脱いで部屋に上がった。
 遮光カーテンが締め切られていて明かりは洩れていないのに、部屋を照らしているのは点けっぱなしのテレビの液晶画面だけだった。エアコンを入れてそれなりに時間が経っているようで、思わず安堵の息を吐いてしまうほど部屋の中は冷えている。
 監察官室の連中が家宅捜索をしたと桑原警部は言っていたけど、その割には部屋の中は荒れていなかった。もちろん、アタシは警察のガサ入れの現場など見たことはない。それでも、家人以外の人間がどれだけ丁寧に片付けたとしても、どこか雑然とした雰囲気が残るものだろう。あるいはプロの仕事らしく片付きすぎるか、だ。
 村上の部屋は所用で掃除の間隔を空けてしまったときに腰に手を当ててため息をついてしまう、いつもの散らかり具合だった。
 馬渡はパソコンデスクの椅子に腰を下ろした。この部屋にはソファや他の椅子はないので、アタシは立ったままだった。村上といるときならバランスボールを椅子代わりにするか、ベッドの縁に腰を下ろす。この男の前ではどちらもしたくなかった。
「――それで、君は何をしに来たんだね?」
「ちょっと待って。その前に警察手帳と令状を見せてくれない?」
 ただでさえうっすらとしか開いていない酷薄な目がさらに細くなった。
「捜査中だって言うなら持ってるはずよね」
「監察事案に令状は必要ない」
「あんた、監察官室の人間じゃないでしょ?」
「そうでなくても、だ」
 つまらなそうにそう言って、馬渡は警察手帳をアタシの前にかざした。
 仏頂面の写真の下に階級が”警視(下に英語でSuperintendent)”と記してあって、馬渡敬三(やはり英語表記でMawatari Keizo)の名前とID番号がある。本物には写真の部分にホログラムがあると村上に聞いたことがあるので斜めから覗き込もうとしたら、馬渡のほうが先に手帳の向きを変えた。月明かりに五角形の旭日章が浮かび上がった。
「名刺ちょうだい」
「何のために?」
「手帳にはあんたの所属が書いてないから」
 渡すことはできないが、と前置きして、馬渡は名刺をアタシに差し出した。<福岡県警警備部公安総務課>とあった。公安課の組織なんて分からないので、井芹外事課長補佐と繋がりがあるかは見当もつかない。本人に訊くわけにもいかない。
 馬渡はアタシが一通り見終えたのを見計らって名刺をポケットに戻した。アタシは彼が白い捜査用の手袋をしていることに気づいた。
「そんなに現場に指紋を残すのが嫌なの?」
 馬渡はつまらなそうに右手で左手の先をさすった。
「昔、捜査中に怪我をして左手の小指と薬指が義指なんだ。見た目が良いものじゃないんで手袋をしてるんだが、片方だけだと不自然だからな。それが理由の半分」
「残りの半分は?」
「気に入ってるんだ。官給品の割には手触りが良いんでね。ところで私の疑いは晴れたかね?」
「アタシは何も疑ってないわ。ただ、公安の刑事がここにいる理由が知りたいだけ。――ごめんなさい、喉が渇いたんで水を貰ってもいい?」
「私のものじゃないから「はいどうぞ」とは言えないが。好きにすればいい」
 冷蔵庫を開けた。相変わらず、ギネスビールとミネラルウォーターしか入っていない。冷蔵庫の中にも部屋の中にも食べ物が見当たらないのは、アタシがいつか村上に向かって「食べカスを片付けられないなら食べ物を家に持ち帰ってくるな!!」と一喝したからだ。それ以来、この部屋にはパンはおろか、チキンラーメンの買い置きすらない。
 昔はアタシの言うことなんて何一つ聞いてくれなかったあの男が、仲違いした後もつまらない言いつけを守っていることに思わず苦笑いが洩れた。
「どうした?」
「何でもないわ」
 ミネラルウォーターのペットボトルをとって馬渡のほうを向き直った。キャップを捻って中身を喉に流し込む。冷えた液体が身体だけじゃなく、血が上りかけた頭も冷やしてくれるような気がした。
「それより、そろそろあんたがここにいる理由を教えてくれない? 事と次第によっては、この場であんたを空き巣で通報しなきゃなんないから」
 馬渡はしかめっ面のままで肩をすくめた。
「警察なら事足りてるが?」
「公安課とその他の部署って仲が悪いんだってね。地域課のお巡りさんが公安のあんたに友好的かどうか、賭けてみる?」
「つまらないことを知ってるな」
 郁美を見舞った後、八尋多香子との雑談の中で仕入れた知識だった。それを併せて考えれば桑原警部がアタシにこの男のことをリークしたのも頷ける。何故、馬渡があの場にいたのかすら教えようとしない公安の非協力的態度に、捜査課は業を煮やしているに違いない。
「――まあ、いい」
 馬渡は小さく息をついた。
「村上警部補が持ち出した資料には我々にも関わる部分がある。監察官室や刑事部の連中だけに任せては置けないんだ」
「熊谷幹夫のファイルのこと? あれって、あの人が警察の内部情報を売り渡してた相手と、情報を洩らしてた警察官の一覧でしょ。どっちが公安課に関わりがあるの?」
「捜査の詳細を一般人に話せるわけがないことくらい、刑事の娘だったなら分かるはずだ」
「アタシが何者なのかは把握してるのね」
 この場で村上にかけられている容疑は冤罪だし、公安課にも関わりがある資料は警察外にもあるのだと教えてやったほうが良いような気がした。しかし、それは菜穂子が警察との駆け引きで使う材料だ。それにまだ彼に濡れ衣を着せようとした相手のことも分かっていない。今、明かすわけにはいかなかった。
 我慢比べのような沈黙が満ちた。
 そのせいでごく小さな音で流れていたテレビの声が耳に入ってきた。洋画のDVDらしく英語の台詞だった。アタシが訊く前に馬渡が口を開いた。
「……私が選んだわけじゃない。デッキに入ったままになっていたものを再生してるだけだ」
 画面の中では濃い顔立ちのアングロサクソン系の俳優が何かしゃべっている。アタシがいる場所からはさすがに字幕は読み取れない。
「何、これ?」
「007の〈消されたライセンス〉だ」
「ああ、どこかで見たと思った。ティモシー・ダルトンね、この人」
「DVDの棚をざっと見せてもらったが、村上警部補は007シリーズが好きみたいだな」
「そうみたいね。全部揃ってるし」
 半分くらいはあの男の”シリーズものは一巻から最新の巻まで揃ってないと気が済まない”という病気の発露だが、好きなのは確かだ。今度の<カジノ・ロワイヤル>でボンドを演じる俳優は六人目だけど、すべてを諳んじて言える人間は少ない。大抵は二代目が出てこない。
 村上は全員の名前を言えるし、そのせいでアタシも言える。初代がショーン・コネリー、二代目がジョージ・レーゼンビー、以下、ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンと続いて六代目がダニエル・クレイグ。
「あんた、捜査中だってのにこんなの見てたの?」
 椅子はテレビのほうを向いているし、よく見るとテレビとDVDのリモコンは馬渡の手元にあった。
「つい、な。私も嫌いじゃないんでね。もっとも、私はショーン・コネリーの信奉者だが」
「村上さんは、ジェームズ・ボンドのイメージに一番近いのはダルトンだって言ってたわよ」
「プリンセス・オブ・ウェールズと同じ意見ってことか」
 初めて馬渡の目許が緩んだ。007が好きなのは本当らしい。
 アタシにはこの手の映画の面白さが今ひとつよく分からない――と言いつつ、村上や自分の父親に付き合って一通り見ている。さすがにストーリーまでは覚えていないが。
「村上さんが退院したら、対談でも申し込んでみたら?」
「そうだな。その前に彼のライセンスが消されなければ、だが。――さて、どうやら長居は無用のようだ。先に失礼させてもらおう」
 馬渡は立ち上がった。アタシは手のひらを差し出した。
「鍵は?」
「……何のことだ?」
「どうやってここに入ったのかって訊いてるの。言っとくけど、この時間にはさっき並みに呼び出しブザーを押しても管理人さんが出てこないことは知ってるから」
 馬渡は沈黙したままだった。
「まさか、ピッキングしたなんて言わないわよね。村上さんの私物から合鍵を作ったんだったら置いてって」
「君に渡さなきゃならない理由は?」
「アタシは彼の恋人。片岡警視からそう聞いてない?」
「そんなことを言ってたな」
「だったら、それで充分だと思うわ」
 まだ、告白すらしていないのに大嘘もいいところだ。この場に由真がいたら目を剥いて文句を言われるだろうが、嘘も方便ということで許してもらうことにしよう。
 馬渡はポケットから鍵を取り出してアタシの手のひらに落とした。
「じゃあ、私はこれで」
 アタシの横を通り過ぎてドアのほうに歩いていった。お休みなさいを言うか、一瞬だけ迷った。
「――お休みなさい」
「ああ。お休み」
 馬渡は一度も振り返ることなく部屋を出て行った。アタシはその後姿をジッと見送った。おまえのライセンスこそ消されてしまえ、と心の中で毒づきながら。

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