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Left Alone

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  第 61 章 

 鋼鉄の塊同士が激突する重くて無情な音が響き渡って、カメラが衝撃でダッシュボードから跳ね上がった。衝突の勢いでトゥデイは横滑りする形になり、それが何かに――路肩の縁石だろう――ぶつかって横転し始める。車内の天地が逆転する様子を映しながらカメラは転がり続けて、灰色っぽい車体の何処かの平たい部分で止まった。電源が切れなかったのはある種の奇跡だと言っていいだろう。
 少しだけ映像を戻してスロー再生ボタンを押した。
 画像がゆっくりと進む。カメラはセンターラインを超えて突っ込んでくる黒っぽい大型高級セダンを捉え続けていた。二つの細長い丸をTの字に組み合わせた意匠がフロントグリルの真ん中に輝いている。車格からしてトヨタ・セルシオなのは間違いない。
 互いの右フロント同士がぶつかるオフセット衝突だったせいで、カメラのアングルはセルシオの運転席を正面に据える形になっていた。
 乗っているのは白いワイシャツを袖まくりしてネクタイを緩めた中年の男だ。激突の瞬間の一気に夢から現実に引き戻されたような表情までハッキリ映っている。コマ送りで再生すればもっと多くのことが分かるだろう。サングラスで顔の半分は隠れているけど、どう見ても未成年にしか見えない少女が助手席に乗っていることとか。
 しかし、今の段階でも言えることがある。半田亮二とその妻、息子の命を奪う事故を起こしながら逃げた犯人は、断じて盗んだクルマを遊び半分に乗り回しているような連中ではなかった。

 映像にはまだ続きがあった。
 カメラは横転が止まった車内を映し続けている。車体は裏返しになっていて、カメラが止まったのは車体の天井だった。つぶれて元の四角を維持していない窓からアスファルトの地面が見える。エンジンは停止していて物音はしない。
 ここからしばらく動きがないことは聞いていた。
 デッキにはイコライザがついていて音声が入ればゲージが動く。それを注視したまま二〇倍速再生で映像を送った。画面右下のカウンターが猛スピードで跳ね上がって、静止画像のように動きのない映像が一分以上続いた。
 不意にゲージが跳ねた。少しだけ巻き戻して再生する。
『――あーあ、こりゃひどい』
 割り込んできたのは他人事のような物言いの男の声だった。逆さになった車体のBピラーを無造作に蹴る黒い合皮の短靴が見える。
 声の主は地面に這い蹲るように姿勢を低くして車内を覗き込んだ。警察官の夏の制服だ。夜なので反射テープ付きのヴェストを着込んでいる。制帽を被っていて髪型は分からないが、色白の薄情そうな顔には見覚えがあった。西署(現・早良署)交通課の警官、今はナカス・ハッピー・クレジットの社長、立花正志だ。
『ひー、ふー、みー、……あ、子供がいるや。こりゃ、全員死んでますね』
『そういうことを気楽そうに言うものじゃなかろう、立花巡査長』
 苛立ちを隠そうともしない声。他人に自分の考えを言いつけることに慣れた響きがある。
 立花の隣に別の男が立った。足元しか映っていないが、こんな時間だというのにピンと線が入ったスラックスとウィングチップの革靴が見てとれた。 
『すいませんね、新庄警視正。事故直後にすぐ救護に当たっていれば、せめて、子供くらいは救えたんじゃないかと思いますが』
『なんだと?』
 新庄が気色ばむ。車内を覗いたままの立花は振り返りもせずに残忍な笑みを浮かべた。
『本官は事実を述べたまでです。――さてと警視正、お手数ですが調書を取らせて戴けますか』
『調書?』
『当然でしょう。これだけの人身事故なんです。それとも何ですか、まさかコイツを揉み消すおつもりで?』
『……君は井芹くんから指示を受けているんじゃないのかね?』
 わざとのようにゆっくりと時間をかけて立花は立ち上がった。しばらくの沈黙。
 次の瞬間、アタシはびっくりしてグラスを取り落としそうになった。唐突に立花が爆笑したからだ。
 驚いたのは新庄も同じだったようだ。立花が笑い続けている間、何も言えずにいた。新庄が口を開いたのは立花の笑いが収まって耳障りな引き笑いに変わった頃だった。
『何だね、君のその態度は?』
『笑わせなさんな。酒酔い運転で四人も殺しておいて、人の態度に文句をつけられるような立場じゃなかろうよ。こっちも言わせてもらうよ。あんたがそんな態度なら、この場であんたを道交法違反で現行犯逮捕して、署の連中に連絡して事故処理車を呼んだっていいんだぜ。そうなりゃ、あんたがいくらキャリアだからって揉み消しなんかできなくなるんだ』
『……ぐっ』
 画面に映っているのは二人の足元だけなのに、そこで火の出るような睨み合いが続いているのが感じられた。
 諍いを打ち切ったのは立花のほうだった。 
『でもまあ、心配はしなくていい。俺はそんなことはしないからな。井芹の旦那からはちゃんと指示を受けてる。すでにあんたのセルシオには盗難届が出されてる。昨日の日付と受付でな。この事故はセルシオを盗んで乗り回してたガキども――とは限らんが、そいつらが起こした事故だ。あんたのクルマだからあんたの指紋が出てきても何の不思議もないしな。あんたがこれからやるべきことは、この事故が起こった時刻のアリバイを作ることだ。いいかい?』
 立花はわざとのように”あんた”を繰り返した。そうすることでこの場の主導権は完全に立花のものになっていた。
『それについては問題ない。私は自家用車を盗まれて足がないのでね。仕方がないので公用車で家まで送ってもらった。家に着いたのは午後十一時三〇分だ』
『公用車の使用記録を改竄させるわけですか』
『そういうことだ。じゃあ、後は頼む。くれぐれも遺漏のないようにな』
『お帰りで?』
『アリバイがそうなっている以上、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう』
『ですな。どうやってここから帰るおつもりですか、警視正? 何なら家まで送りましょうか?』
『結構だ。迎えが来る』
『そいつも井芹課長の手配ですか?』
『君には関係のないことだ。――ところで、さっきのあの娘はあれで大丈夫なのかね?』
 言葉遣いは変わらなかったが、新庄の声からはすでに上官の威厳は消し飛んでいた。
『名前と住所は控えてますよ。ワカマツイクミちゃん。何でしたらあの娘も始末しときましょうか?』
『……巡査長』
『冗談ですよ。しっかり脅して帰しましたから、後になって申し出たりはしないでしょう。本当なら家と学校に連絡が行くところを見逃して貰えたんだから、感謝すらしてるんじゃないですかね。しかし、警視正。女子高生ってのはそんなにいいもんですか?』
 再び新庄が気色ばむ気配がした。しかし、何も言わずに踵を返した。それに付き従うように立花もトゥデイを離れた。
 それから五分ほどの沈黙。その間、アタシはこの連中の間を繋いでいる運命の悪戯としか言いようのない糸について考えていた。
『……ううっ』
 微かな声がした。
『リョウジ……くそっ、アタマいてえ』
 怒りと困惑の入り混じったザラザラした声。ゴソゴソと音がしたと思ったら、渡利は何かの傷に触れたように『……つぅッ!!』という呻き声をあげた。
『ちくしょう、何がどうしたってんだ……って、オイ、ヒトミッ!!』
 声の調子が変わった。渡利は『おい、しっかりしろッ!!』と繰り返すが返事はない。そのうちに諦めたような大きなため息が聞こえた。
『おい、リョウジ、そっちはどうだ?』
 もちろん返事はない。さして期待してもいなかったように、渡利は『……おまえもかよ』と吐き捨てる。
 伸びてきた手がカメラに触れた。後ろの様子を探ろうとしたのだろう。その瞬間、アタシは罵りの言葉を吐きそうになった。それまで画面の枠外にあったものがフレームに入ってきたからだ。
 ショウ――和津実の息子と同じ名の子供は無惨な姿を晒していた。
 小さな身体は父親の下敷きになっていて、首は絶対に向いていてはいけない方向を向いている。事故の瞬間まで眠っていたせいか、恐怖や苦悶の表情は浮かんでいないが、力を失ったあどけない顔の中でうっすらと閉じられた瞼と何かの拍子に唇からはみ出したに違いない小さな舌先を見た瞬間、アタシは鳩尾の辺りに鉛の塊りを飲み込んだような気分になった。知らず知らずのうちに息苦しさが増していく。
「――くそッ」
 痛みを感じる暇もなく逝ったことがせめてもの救いだと思おうとした。しかし、そんな戯言は他人だから言えることだ。本人にとっては理不尽に命を奪われたことに何の違いもないのだから。
 渡利は尚も動こうともがいているようだった。その度に聞き苦しい呻き声があがる。
『……ちくしょう、あいつら、なめやがって』
 地獄の底から聞こえてくるような呟きは、渡利純也が新庄圭祐と立花正志の会話をすべて聞いていたことを示していた。そして、それこそが全ての始まりなのだった。
 渡利の手がもう一度カメラに触れて、指がカメラのスイッチを押した。何と言っているかは定かではない――けれど、明らかな呪詛の響きを残して画面は暗転した。
 DVDを止めて、封筒の中から和津実宛の便箋を取り出した。
 アタシ宛のファンレターとは比べ物にならない乱雑な字だ。表書きと比べてもひどい。誤字や脱字を直した形跡がないのは、アタシのときと同じように何度も書き直しをしたのだろう。それでこれとは恐れ入るが、普通ならDVDだけ送って連絡はメールで済ませるところを――村上にはそうしている――手書きにこだわって便箋と苦闘する葉子の姿勢は微笑ましくもある。
 
 和津実へ。
 
 あれから考えたんだけど、やっぱりホンモノのDVDはあげられない。
 必要だっていうのはわかる。あんたの借金がどうにもならないとこまできてるってことも。
 でも、これはあげられないの。正直にいうけど、あたしが好きな人がこれを必要としてるから。
 だから、このディスクをあげることにしたわ。
 これにはジュンたちの事故しかうつってないけど、それでもおカネにはなるはず。
 ホントはあんたがそうするのもイヤだけど、あんたも何もなしってわけにはいかないだろうし。
 そのかわり、気をつけるんだよ。相手はヤクザなんだから。
 
 もう2度と会わないかもしれないけど、身体を大事にしてね。
                                          白石葉子

「……ホンモノのDVD?」
 思わず一人ごちた。
 葉子の文面をそのまま受け取れば”ホンモノのDVD”とやらには半田亮二の事故の映像と、それ以外の何かが収められていることになる。
 渡利純也が新庄警視正を恐喝するのにはこの八センチDVDだけで充分な気がする。けれど、他に何か、それを補強する画像なり音声なりがあったのかもしれない。あり得ないことではない。運命の悪戯としか思えないが、渡利の懐には事故のただ一人の証言者が転がり込んできたのだから。
 しかし、それよりもアタシの心を鷲づかみにしたのは”あたしが好きな人がこれを必要としてるから”の一文のほうだった。
 不思議なことに心は揺れなかった。葉子の恋心については何度も耳にしているので慣れたのもある。すでに彼女はこの世にいないという後ろめたい安堵もないとは言わない。
 けれど、アタシが感じていたのはある種のシンパシーだった。報われないかもしれなくても、好きな人のために懸命になれる想い。友だちになれたとは思わないけど、彼女が生きているうちに会いに行かなかったことを今さらながら残念に思った。
 とにかく、これで白石葉子が村上に渡したのが渡利純也が恐喝に用いていたネタ――すなわち、警察が渡利に便宜を図り、時に彼の敵を屠ってきた証拠に他ならないことが明らかになった。三年にも及ぶ長い捜査の過程で村上が何よりも欲したに違いない決定的な証拠。
 ドアがノックされた。
「――終わった?」
 留美さんが顔を出した。手にはサンドイッチを載せたトレイを持っている。一人暮らしをしているだけあって留美さんの料理の腕はなかなかだ。やや、味付けが濃すぎたり辛すぎたりする傾向はあるが。
「終わりました。酷い映像ですね」
「だよね……。和津実のヤツ、こんなもんで取引なんかするつもりだったのかな。だとしたら、従妹でも許せない」
 留美さんの目は真剣に怒っていた。アタシはとりなすように笑った。
「彼女はそんなことしてませんよ。街金の連中には渡利の遺産は手に入らなかったって言ってましたし――あれっ?」
「どうかした?」
「この封筒、見つかったときどんな状態でした?」
「どうって、封は切ってあったし、中の厚紙も外に出してあったよ。ディスクを挟んでたやつね」
「ちょっと待ってください。和津実の家のDVDプレーヤーって八センチディスクを再生できるやつですか?」
「DVDプレーヤーはないけど、プレステの横にちっちゃいディスク用のアダプターがあったよ。わざわざ買ってきたらしくって袋もいっしょにあったけど」
「なるほど」
 つまり、和津実は間違いなく渡利たちの事故の映像を目にしているわけだ。なのに何故、彼女は立花正志に向かって「渡利純也の遺産は手に入らない」などと自ら死刑執行を宣告するような真似をしたのだろう。
 立花たちには渡利の遺産のことをドラッグやそれで稼いだ金だと説明していたからだろうか。
 それはあり得ない。和津実は渡利が遺したそれらが夫の吉塚正弘たちによって浪費されてしまっていて、すでに存在しないことを承知の上で立花と話をしている。
 つまり、どこかの段階で借金の棒引きと引き換えに差し出すものが当初の予定と違うことを切り出す必要があった。だとしたら、あの拉致の現場はまさにカードを切るタイミングだったはずだ。ジョーカーは彼女の手の中にあったのだから。
「身内を庇うわけじゃないけど、その……重なっちゃったんじゃないかな」
 留美さんは言った。
「何がですか?」
「ビデオの中のショウくんと、自分の息子の翔が。名前と歳がだいたい同じってだけなんだけど」
 陳腐な一致かもしれない。危険な選択の理由には根拠薄弱の誹りを免れないかもしれない。しかし、初めてこの映像を見たときに和津実はドキリとしたはずだ。それが彼女の心に小さなトゲを残したのだとしたら。最後の最後で彼女に良心の呵責を覚えさせたのだとしたら。
「あり得る話ですね。――ううん、きっとそうですよ」
「そうかな?」
 留美さんの声に重荷が落ちたような響きが混じった。
 本当はそれは何の救いでもない。ディスクを渡さなかったことと彼女が殺されたことはまだイコールでは結ばれてないが、何の関係もないはずはない。大人しくこの八センチディスクを渡していれば、和津実は命まで落とさずに済んだかもしれないのだ。
 ただ、遺族にとって、死んだ家族が善人であったかどうかは大きな意味を持つ。和津実の真意を知る術がない以上、それいうことにしてもバチは当たるまい。

 ……待てよ?

 アタシは唐突に頭から抜け落ちていた疑問に思い至った。
 そもそも、和津実は何ゆえに殺されなければならなかったのだろう。そして、白石葉子が轢かれた日とディスクのやり取りが行われた日々があまりにも近いのは、果たして偶然なのだろうか。
 藤田警部補のケイタイを鳴らした。

<この電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません――>

「なにやってんのよ、この非常時に」
「どうしたの、真奈ちゃん」
「いえ……そうだ。留美さん、この家って古い新聞とかとってあります?」
「あると思うけど」
 八月四日のものを見せてくれと言った。アタシが葉子の死を知って彼女の実家を訪ねた翌日、ショーの仕事中だったアタシのところへ上社が轢き逃げの犯人が捕まったことを知らせに来てくれた日だ。
 二人で母屋に移動して、読み終えた新聞を突っ込んだラックをひっくり返した。
「叔父さんがジャイアンツ・ファンなんで読売だけど、社会面だから問題ないよね。――えっと、これだ」
 留美さんが指差したところに記事が乗っていた。アタシが見せられたのは西日本新聞だったけど扱いは大して違わない。
「犯人は東区馬出の十九歳の無職少年。先輩からの借り物の車だったんで怖くて逃げた、か。へえ、自首なんだ」
「自首? 出頭じゃないんですか?」
 記事に目を落とした。西日本には出頭と書いてあったような気がするが、読売には確かにそう書いてある。
「何か違うの?」
 自首と出頭はよく間違えられるけど法律的には扱いがまるで違う。自首とは警察が被疑者を特定していない段階で自ら犯行を名乗り出ること、出頭とは警察が被疑者を特定した段階で自ら警察に出向くことを意味する。アタシに言わせればやったことには違いはないはずだけど、自首だと反省の意があるということで刑が軽くなったりするらしい。
「人を撥ね飛ばして逃げといて、反省もへったくれもないような気がするけど」
「まあ、そうなんですけどね。留美さん、お願いがあるんですけど」
「なに?」
「この馬出の十九歳の無職少年って、誰だか分かりませんか? 犯人が必ずしもヤンキーとは限らないけど、誰かが警察に捕まったとかの噂話は広まってると思うんです」
「昔のツテを使えってこと?」
「お願いします。それと、できればクルマを貸した先輩って誰なのかも」
「りょーかい」
 留美さんは自分のケイタイを取りに二階に上がっていった。
 アタシはその間に由真に連絡をとろうとケイタイを手にした。その刹那、高坂菜穂子から電話がかかってきた。
「もしもし――」
「ごめん、挨拶してる暇ないの」
 バッサリと斬り捨てるような迫力のある声。アタシは反発することすら忘れた。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「夕べ、藤田警部補が監察に身柄を拘束されたわ。容疑は管内の暴力団から金品の饗応を受けたっていう服務規程違反」
「藤田さんが!?」
 アタシは藤田警部補のことを何でも知ってるわけじゃない。アタシと彼の接点はプライベートでお茶や買い物に付き合ってもらったのが何度かと、モデルの仕事を始めてから合コンをセッティングしろという電話がやたらとかかってくるだけだ。あとは村上と由真と四人で食事をしたことが数回あるくらい。だから、捜査四課という本来の職務での仕事ぶりはまるで知らない。想像すらつかない。
 それでも、暴力団とお友だち付き合いをするような男でないことは確かだ。
「それだけじゃないわ。吉塚和津実殺害事件の捜査本部が被疑者死亡により解散。それ自体は別におかしくないけど、被疑者の逃亡と別の犯行を防げなかった責任を取らされる形で桑原警部が左遷されたわ」
「ちょ、ちょっと待ってください。あの人、捜査の責任者じゃないでしょ?」
 桑原警部は権藤を和津実殺害の被疑者として指名手配する方針に反対する側にいたはずだ。それに被疑者死亡とはどういうことだ。被疑者は権藤康臣とは断定されていないはずだ。
 背筋に冷たいものが走るのを感じた。誰かが事件の幕引きを図っている、ということか。
「詳しいことは分からないけど、その辺りの事情を材料に屁理屈を捏ねたヤツがいるみたい。あの人ってやり方が強引だから、誰も庇ってくれなかったらしいわ」
「そんな……。じゃあ、桑原警部は何処に?」
「分からないわ。携帯電話にかけても出ないし。辞令が出たって話は姉さんから聞いたんだけど何処かまではちょっとね」
 菜穂子はそこで黙り込んだ。挨拶する暇がないと言った人間のすることではない。
「藤田さんは監察に捕まったって言いましたよね。それは片岡警視の差し金ですか?」
「それも何とも言えないわ。監察官はあの人一人じゃないから」
「そうなんですか?」
「そうよ。真奈ちゃん、そんなことも知らなかったの?」
 あげつらうような物言い。しかし、いつもの憎らしいほどの余裕は微塵も感じられなかった。
「何かあったんですね?」
「……姉さんにも「話を聞きたい」って監察から接触があったみたい。今、あなたに話したことだって本当は洩らしちゃいけないことらしいの。でも、姉さんは――」
 菜穂子はそこで声を詰まらせた。そういうことか。
 脳裏に高坂警部補の和風美人の顔が浮かんだ。率直に言って由真と組んでアタシを苛めた人間だし、彼女が警察内の情報をもたらしてくれるのはアタシのためではない。それでも、同じ側にいるはずの誰かが窮地に陥るのは心を重くした。
 昨夜、公安の刑事に出くわしたことを話すかどうかは迷いどころだった。今の菜穂子に話しても上の空か、あるいは一層の負担をかけるだけのような気がしたからだ。
 しかし、後になって話しておかなかったために足を引っ張るようなことがあってはならない。何度かちゃんと聞いているかを確かめながら馬渡敬三が村上のマンションに現れたことや、ヤツの弁を信じるなら村上の容疑である熊谷のファイル流出を公安課も追っていることを話した。
「それは変だわ。あたし、由真ちゃんから預かったファイルを見たけど、右翼も左翼も共産党も関わってなかったわよ?」
「だから、それは相手の言うことを信じるなら、ですよ」
「真奈ちゃんは信じてないの?」
「初めて会った人間の言うことを鵜呑みにするほどアタシはお人好しじゃないんで。話を聞くことと信用することは別の話です」
「おっどろいた。初めて会ったときにあなたのこと、素直で可愛い女の子だと思ったのに」
「女も十九年やってりゃ、多少は擦れちゃいますって」
「やだ、真奈ちゃんったら」
 菜穂子は小さく吹き出していた。
 DVDのこともついでに話してしまおうかと思ったが、それは電話では手に余る。後で連絡をとって落ち合う約束をして電話を切った。
 しかし、いったいどうしてしまったというのだろう。まるでアタシが助けを求め得る警察内の人間が片っ端から槍玉に挙げられているような気にすらなる。いや、実際にそうとしか考えられない。
 身震いするのを抑えることはできなかった。そんな真似ができる人間は一人しかいない。九州管区警察局次長、新庄圭祐。酔っ払い運転で四人も死なせた上に事件を揉み消したクソ野郎だ。

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