Left Alone

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  第 68 章 

「それじゃ、あたしは警察に行くから」
 菜穂子はディアマンテの窓から顔を出して、小さな笑みを浮かべた。アタシを安心させようとするような優しい笑みだ。彼女と知り合ってそろそろ七年経つが、初めて見る類の表情だった。
「すいません、お願いします。――納富先生も」
「ああ、分かった。なぁに、そんな顔せんでも心配はいらんよ。由真坊のことだ、その辺で適当に遊んどるだけさ」
 助手席には太鼓腹の老齢の医師が座っている。豊かな白髪と庇のように伸びた眉の下の愛嬌のある眼差しは、何処となく県警の毛利課長に似ている。由真の実家の病院の古参理事で、天神のど真ん中にある系列クリニックの院長だ。女の子である由真に”坊”をつける妙な癖があって、二人の会話はいつもこれに由真が文句をつけることから始まる。病院と無縁のアタシがこの人に会うのは、先月の終わりに、重い生理痛持ちである由真が普通はなかなか処方されない強力な鎮痛剤を貰いに行くのに着いていって以来だ。
 イオン香椎浜で一時間ほど待ってみたが、由真は現れなかった。
 警察に捜索願を出すべきかどうか、意見は分かれた。アタシと多香子は出すべきではない――正確には出しても無駄。菜穂子はそれでも出しておくべき。
 アタシの論拠は偏に”警察はあてにできない”で、多香子は”事件性のない失踪では警察は動かない”だった。由真がクルマを残して姿を消していることや待ち合わせ相手が重傷を負わされていることを考えると、多香子の言う事件性云々について異論がなくはない。でも、十九歳の女の子の居所が一晩分からないくらいでそういう判断がされてもおかしくないのも事実だ。
 菜穂子はそれでも届けは出しておくべきだ、と主張した。警察が動かないとは限らないし、いくら新庄警視監や井芹課長たちが警察内で影響力を行使していても、末端の警察署の細かい業務にまで口出しはできないはずだ、というのが論拠だった。そしてもう一つ、届けを出していれば何かあったときにすぐに連絡が入る。
 最後の一つは、すなわち由真の身に良からぬことが起こった場合を想定してのことだ。アタシは思わず菜穂子に食って掛かりそうになったが、多香子に割とキツイ言葉で窘められて我に返った。
 警察に失踪者の捜索願を出せる続柄は決まっていて、誰でも出せるというものではない。由真の場合は事実上の保護者であるアタシの祖母か、由真の未成年後見人である老医師しかいない。何も知らないこの人に心配をかけるのはかなり気が引けたが、逆に万が一のときに何も知らせてなかったというのも問題があるという菜穂子の判断で、警察への同行を頼むことになったのだ。
 走り去るディアマンテを見送って、背後で待っている多香子を振り返った。親不孝通りと明治通りの角に黒ずくめの美女がたたずむ姿は思いっきり周囲の目を引いている。見ているこちらが暑さを感じるほどだが、多香子はいたって涼しそうな顔をしていた。これから別件の仕事があるとかで、彼女はジャガーを自分の事務所に停めてきている。
「これからどうするの?」
 多香子のコントラルトがアタシの耳朶を打った。親近感も何もないはずの相手なのに、その静かな声音にアタシは心が揺れるのを感じた。思わずこぼれたのは本音だった。
「……どうしたらいいんでしょう?」
「意外ね、あなたがそんな自信なさそうな顔するなんて。飯塚の病院で会ったときとはまるっきり別人みたいよ」
「それは――」
 自分でも困惑していた。白石葉子の手紙を受け取ったのきっかけに、父親が起こした二年前の事件について調べ始めたのがすべての起こりだ。それがいつの間にか渡利純也の遺産をめぐるいざこざに首を突っ込むこととなり、途中からは同じように過去の事件を追い続けていた村上恭吾の調査を引き継ぐことになった。
 それは多くの人間が押し流したはずの過去を掘り返す作業だ。それによって様々な痛みを被る連中がいる。ある者にとっては気まずいことを思い出す程度かもしれない。しかし、ある者にとっては今日まで積み上げてきた様々なものをすべて失いかねない危機だ。
 当然のことだが、連中も事の成り行きを黙って見ているわけではない。それどころか、血なまぐさいまでの実力行使に出ている。白石葉子はひき逃げに見せかけて殺されたし、吉塚和津実は南福岡駅で非業の死を遂げた。村上は権藤康臣の凶弾に倒れた直後に県警監察官室によって拘束された。その権藤は復讐劇の最中に馬渡に射殺された。藤田知哉はでっち上げの容疑で村上同様に拘束され、桑原幸一は捜査の現場から追い払われた。高坂朋子にも監察の手が伸びようとしている。夕べ、高橋拓哉は暴漢に襲われて重傷を負った。
 そして、由真が行方をくらました。
 これまで、アタシが自分がしていることに比べて恐怖心を抱かずにいられたのは――褒められた話ではないのだろうが――その実力行使が自分の身に及んでいなかったからだ。村上の身に起きたことに憤り、権藤の最後を目の当たりにしてショックを受けた。藤田の動向には気を揉んだ。桑原の無念と意外な優しさに思いを馳せた。けれど、その痛みを直接味わったわけではない。だから、アタシの心は折れずにここまで来られた。
 しかし、今、アタシは心の底から恐怖していた。もしも由真の身に何かあったら、アタシは自分を許さないだろう。
「もう、やめる?」
「何を……ですか?」
「真奈ちゃんが今、やろうとしていることよ。DVDを探すのをやめて、十九歳の女子大生の夏休みに戻るの。あなたがそうしたって分かれば、相手だってあなたやあなたの大切な人に危害を加えようとはしないでしょ」
「それは――」
「もちろん、菜穂子の元旦那とか、警察関係の人たちにとっては終わらないでしょうけど。でも、あなたがここで手を引いたからって誰も責めはしないわ。当たり前のことだもの」
 そんなことは分かっている。自分で言うのもなんだが、普通の十九歳の女には到底手に余ることに立ち向かっているのだ。自分自身が父の事件の背景や忌まわしい構図に怒りを抱いていて、尚且つ、村上恭吾の三年にも及ぶ執念に似た調査を無駄にしたくないという想いがなければとても耐えられはしない。とっくに放り出しているはずだ。
 アタシが手を引いたら村上は怒るだろうか。そんなことはあるまい。むしろ、アタシがこうやって事件に首を突っ込んでいることのほうに怒るはずだ。そうでなければ上社に頼んでアタシを事件から遠ざけようとはしなかったはずだ。なのに、最後の最後で彼はアタシを頼った。その想いに応えないという選択肢はアタシにはない。
 しかし、そう思えば思うほど由真の安否がアタシを揺さぶった。いっそ、危害を加えられるのがアタシ自身だったならどれほど気が楽だろう。
「……あれっ?」
 アタシの中で一つの疑問が浮かんだ。
「どうしたの?」
「どうして、アタシじゃないんだろ?」
 多香子は意味が分からないような顔をしている。
「何が?」
「どうして、アタシは襲われてないんだろうって。だって、そうじゃないですか。アタシが邪魔ならアタシを排除すれば済む。アタシは村上さんの代わりのつもりだけど、アタシの代わりに動いてくれる人なんかいないのに」
 あるいは由真が意志を継いでくれるかもしれないが、それはともかく。
「どうして、アタシの周りから一人ずつ遠ざけていくみたいな回りくどいことをするんだろ?」
「それは……」
 言葉に出さなくても表情に答えが出ている。アタシも同じことを考えていた。
「郁美が残したDVDに一番近いアタシが泳がされているんですね」
「多分ね。そして、何処かでどうにかして真奈ちゃんの動向を監視してる。DVDを手に入れたら取り上げるために」
「由真はそのときにアタシに言うことを聞かせるための人質?」
「そう考えるほうが自然ね」
 何てことだ。だとしたら、アタシには今すぐ手を引くという選択肢すらないことになる。
「菜穂子の元旦那が残したメッセージに心当たりはないの?」
 アタシは首を横に振った。
「まったく心当たりナシです。手紙なんか貰ったことないし」
「なんてメッセージだったっけ?」
「”The love letter to Miss Mana Saeki.From Kyogo Murakami ”――です」
 言ってて赤面しそうな内容だが恥ずかしがっている場合ではない。ところが、多香子は違うところに反応した。
「あれっ、真奈ちゃんって榊原さんじゃなかったの?」
「佐伯は父の姓です。二年前の事件の後、祖父の籍に入ったんで今の名前になったんですけど、村上さんは”佐伯真奈”のほうが馴染みがあるんで」
 言ってから何かが引っ掛かった。しかし、何が引っ掛かったのかは分からなかった。
「とにかく、彼が真奈ちゃんにDVDを送ったことは間違いないわけよね……」
「そうなんですけどね……」
 思わず顔を見合わせると、どちらからともなく苦笑いが浮かんだ。考えてみれば、彼女と笑みを交わすのは初めてのような気がした。こんな状況でも誰かと距離が縮まるのは嬉しいものだ。
 ただ、残念なことにアタシたちは一歩も前に進んではいない。笑みの後に続いたのは盛大なため息だった。
 多香子を見送ると、いよいよアタシは独りになった。
 やるべきことは一つ。村上のメッセージの意味を紐解くこと。しかし、今のところサッパリ意味が分からない。
 念のために祖母に電話をかけてアタシ宛の郵便物について訊いてみたが、考えたら家を出る前に同じことを訊いている。大学からの連絡とダイレクトメールが幾つか、昔通っていた空手道場から合宿のお誘いの手紙――まあ、これは単に名簿からアタシの名前を削除し忘れているだけなのだが――があっただけだ。「ラブレターならなかったって言ったでしょ?」という祖母の軽いイヤミを再び聞かされて電話を切った。大きなお世話だよ。
 天神でブラブラしていても仕方がないが、行くあてはなかった。由真を探そうにも手がかりの欠片すらない。奴らの拠点らしきものでアタシが知っているのにナカス・ハッピー・クレジットがあるが、雑居ビルの六階にある店舗兼事務所に人間を監禁しておけるとは考えにくい。
 多香子と話したように由真の身柄がアタシへの人質であるのなら、少なくとも何らかの要求があるまで危害は加えられないはずだ。そう思うしかなかった。
 そして、その要求とはやはり村上がアタシに送った”love letter ”ということになる。仮に謎が解けてDVDを手に入れても相手の出方を待つしかないのか、と思うと怒りで目眩がしそうだが、致し方ないと諦めるしかない。
「――あれっ、真奈っち?」
 当てもなく親不孝通りを歩いていると、道向こうから声を掛けられた。
 シュンだった。クルマを何台かやり過ごしてから車道を渡ってくる。
「ああ、シュンさん。どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、店の近くだし。待ち合わせ?」
「いえ、今、解散したところです。これから帰ろうかなって思ってて」
「そっか……。何ならウチで飲んでいかないかって誘おうと思ってたのに」
「ごめんなさい、クルマなんで」
 そろそろロードスターを天神地下駐車場から出さないと、料金がとんでもない額になっているはずだ。そうでなくても、とてもアルコールを口にする気分ではなかったが。
「……なんかあったのか?」
 シュンの声がスッと低くなった。
「何かって……何が?」
「分かんねえけど。でも、何だかすっかり参ってるみたいだな」
「言いえて妙ですね。実は村上さんから変なメッセージが来てて。それが――」
「それが?」
「あ、いえ、何でもないです」
 アタシは自分が思っている以上に参っているようだった。よりによってこの男に教えられる文面ではなかろうに。
「なんだよ、真奈っち。言いかけてやめるなよ」
「いえ、その――」
「言い難いことかよ?」
「ええ、まあ。その……察してくださいよ」
「真奈っちの彼氏のことだからか?」
 まだ彼氏でも何でもないが、変に否定にかかると泥沼になりそうな気配がした。アタシはいよいよ首をすくめるしかなかった。
 気まずさ全開で黙り込んだアタシを、シュンはジッと見つめていた。
「あのな、フラれたからって俺は恨みになんか思っちゃいないし、別に真奈っちがその村上って男にフラれたときの後釜狙ってるわけでもねえよ。俺はただ、真奈っちが困ったり悩んでたりするのを見てらんないだけなんだ」
 その真っ直ぐな気持ちがアタシには負担なのだ、ということにはおそらく気づいていないのだろう。けれど、そう言われて嬉しくないわけはなかった。
 わざとらしいほど大きく深呼吸してから、無理やり笑ってみせた。
「……ねぇ、冷やかさないって約束できる?」
「そういう内容なのか?」
「まぁね。ちょっとストレートすぎかな。――で、どうなの?」
「オッケー、約束する。敬語もやめてくれるみたいだし」
 何度か小さく咳払いしてからメッセージを読み上げると、シュンは当たり前のように「意味は?」と聞き返してきた。短い訳文を口にするのは英語の文章の何十倍も恥ずかしかった。シュンは言葉にはしなかったがニヤニヤと笑っていた。
「なーるほどね。ラブレターか」
「でも、アタシはあいつからラブレターどころか、年賀状すら貰ったことないのよね。一度だけ貰ったのは奥さんの代筆だったし」
「俺も長いこと書いてないけどな。しっかし、それじゃ意味分かんねえよ」
「そうなのよ……。ホント、無駄な謎かけしてくれるわよね」
 シュンはいつの間にか火をつけたタバコを燻らせながら、考えをまとめるようかのに空を見上げている。
「ちょっと待てよ。真奈っちの苗字って榊原だろ?」
「そうだけど、それは父さんの――」
 同じことをさっきも指摘され、同じことを答えようとした。そして、また何かが引っ掛かった。
「今の苗字になって何年?」
「父さんの事件のすぐ後だから、三年とちょっと」
「なのに、未だにそいつは名前を呼び間違えるのか?」
 引っ掛かっていたのはそれだ。
 アタシは記憶を辿った。二年前の敬聖会事件のときに再会してから今まで、村上がアタシを”佐伯真奈”と呼び間違えたことがあっただろうか。普段、村上はアタシを下の名前でしか呼ばないので苗字を呼ばれること自体が少ないのは事実だが、佐伯と呼ばれた記憶は一度もなかった。呼ばれていればアタシのことだ、イヤミったらしく突っ込んだに違いない。再会直後に拠所ない事情で出た捜査会議の席でも、村上はアタシをよどみなく”榊原さん”と呼んでいた。
 それに言葉で言ったならともかく、あの男が文章で間違うとは考えられない。つまり、村上は意図的にアタシを”佐伯”と呼んでいる。
「真奈っち、モデルの仕事のときは佐伯さんなんじゃなかったか?」
「……そっか!」
 ようやく意味が分かった。
 村上はアタシが所属するモデル事務所に向けて、おそらくファンレターの体裁をとってDVDを送ったのだ。そこなら、仮に相手がアタシ宛の郵便物に狙いを定めても想定外の場所だし、村上は白石葉子がアタシに送ったファンレターの件で、事務所がモデル宛の手紙を保管して本人に渡してくれることを知っている。ついでに言えば、仮に例のノートパソコンが相手の手に落ちてメッセージを見られたとしても、父の相棒だった村上がアタシを”佐伯”と呼ぶことに疑問は感じないだろう。
 ケイタイを引っ張り出してモデル事務所に電話を入れた。延々と呼び出し音が鳴るばかりで誰も出る気配がない。
「おっかしいな、もう店じまい?」
「……言っとくけど、九時過ぎてるぜ」
 目の前に突き出された液晶画面を見るまでもなく、もう時刻は遅い。天神に戻ってきたときには日の入りの遅い夏の九州ですら夜の帳は降りていたのだ。何と言っても香椎浜で過ごしたあの一時間が無駄の極みだった。
 アタシは無言で大名方面に歩き出した。シュンが慌てて後ろから着いてくる。
「おい、どうすんだよ、真奈っち?」
「行くに決まってるでしょ」
「決まってるって、事務所って閉まってんだろ。鍵は?」
「こじ開けるに決まってるでしょ」
 事務所には警備会社の警報システムがあるが、アタシは由真や留美さんが最後に戸締りと装置のセットをするところを何度も見ているので暗証番号は知っている。ドアノブの物理的な鍵はアタシにとってはないのと同じだ。
「シュンこそ、お店があるんじゃないの?」
「……あるけど、そんなに忙しくねえから。それに、何するにしたって見張りは必要だろ?」
 アタシはシュンを振り返った。シュンはピアスだらけの顔でウィンクしながら、右の拳を小さく差し出した。アタシも同じようにあまり得意ではないウィンクを返しながら、彼の拳に自分の拳を軽く打ち合わせた。

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