深夜になっても博多駅周辺は人通りも交通量も多くて、しかも街灯やネオンの広告看板の灯りが煌々と辺りを照らしているにもかかわらず、どこか仄暗い落ち着かない雰囲気を漂わせていた。
それはおそらく立ち並ぶビルの窓に灯りが点っていないせいで、この時間だけとは言ってもそこが無人の廃墟のような感じに見えるからだろう。同じ夜の街でもアタシはあまり好きにはなれない。
白浜第三ビルは博多全日空ホテルや代々木ゼミナールなどが立ち並ぶ住吉通りからは裏通りになる、鹿児島本線の高架沿いの雑居ビルが集まった一角にあった。
ビルのある区域を一周して徳永邸にあったクルマ――シルバーグレイのAMGメルセデス、またはホワイトのセルシオ――がないか確認した。その二台に限らず周辺に怪しいクルマは見当たらなかった。
表通りに面していないので看板の類は出ていなかった。どのフロアも灯りが点いている様子はない。
エントランスのガラス扉を押してみるとカギはかかっていなかった。
階段の横に案内用のプレートが嵌め込んであって、三階のところに熊谷総合企画と記されていた。
それ以外の二階は警備会社、四階は工業系のような名前の会社の福岡出張所が入っている。エレベータはなかった。狭い共有スペースには警備会社のものと思われる道路誘導用の光る棒(ライトセイバーのようなアレだ)や汚れたままのパイロンが雑然と置かれていた。
郵便受けには当然のことながらカギがかかっていた。
差込口に指先を差し込んで指に触れたものを引っ張り出してみた。
電気使用量の明細だった。宛名はちゃんと熊谷総合企画になっている。金額が会社事務所のものとして妥当なのかどうかは分からなかった。
明細を元の場所に突っ込んでから、足音を忍ばせて階段を上った。
アタシがこんな時間にここへ来てみようと思ったのは、ひょっとしたら由真が監禁されているかも知れないと思ったからだ。
由真が誰かの手によって監禁されているのか、それとも自分の意思で身を隠しているのかを判断するにはあまりにも材料が少なすぎた。
でも少しずつ事情が分かってくるほどに後者の可能性は少なくなっていくように思えた。
何故なら由真が自由の身であるのなら、MOディスクを預かっているアタシに接触してこないはずがないからだ。
とは言え、アタシは自分の考えに激しく落胆しつつあった。
安普請とは言わないけれど、このビルは同居する誰にも気付かれずに人間を監禁しておけるような建物じゃなかった。ほんの少しでも油断すれば容易に周囲の不審な眼差しを引き付けてしまうだろう。
熊谷総合企画のドアには(これも当然のことだけれど)カギがかかっていた。
蹴破れないことはないのかもしれない。しかしアタシは事務所荒らしに来たわけじゃなかった。
念のために寄ってみただけと言っても、こうまで見事に空振りだと何だか腹が立ってきた。
ドアノブの鍵穴に悪戯して開かないようにして帰ろうかと思った。
アタシは頭を振ってその子供じみた考えを追い払った。おそらくアタシは自分が思っている以上に疲れているのだろう。
外に出ると、頭上の高架線を博多駅のホームへと滑り込む列車の音が周囲に鳴り響いていた。そろそろ終電の時刻なのかも知れないなと思いながら、アタシは道端に転がっていた空缶を蹴り飛ばした。
ハンドバッグからケイタイを引っ張り出した。日付はとっくに変わっていた。
梅野との約束に従って、帰って眠ることにした。
そのまま高架線路沿いに歩いていって、博多駅の南側のガード下まで出ればタクシーを拾えるはずだ。
アタシはふと思い立って、由真のケイタイを鳴らしてみた。
これでもし繋がったらさぞ笑えるだろうなと思った。
アタシが今日一日やったことは何だったのか。――おそらく力が抜けて立っていられないだろう。
もちろんそれはアタシの妄想に過ぎなかった。スピーカーからは無情に「おかけになった電話は電波の届かないところにあるか電源が〜」というお決まりのメッセージが流れた。
電話をバッグに放り込んで歩き出そうとした。
しかし、アタシはすぐに立ち止まった。暗がりから表れた男が目の前に立ちはだかったからだ。
「――誰?」
アタシは言った。自分でも驚くほど落ち着いた声音だった。意識の何処かでこんな事態を想像していたせいかも知れない。
男はこのクソ暑いのに、九州では冬でも被らないような目出し帽を被っていた。
背はアタシより少し低いくらいだろうか。姿勢が悪くてだらしない立ち姿だった。灰色の襟付きのシャツと暗い色合いのスラックス。スーツのジャケットを脱いだだけといった感じだけれどネクタイは締めていない。
アタシは男の足元を見た。見た感じでは先端がスクエアになった普通の革靴だった。
意外に軽視されがちだけれど、靴はストリート・ファイトでは重要なファクターだ。安全靴の爪先とブーツの踵は立派な凶器になり得る。
「悪いんだけど、帰って寝るところなの。ナンパならよそでやってくれない?」
言いながら、アタシは自然と身構えていた。意識的に体の余分な力を抜いた。細く息を吐いて呼吸を整える。
相手の返事はなかった。アタシはハンドバッグを地面に落とした。
「どうしてもって言うんなら相手してあげてもいいけど、ケガしても恨まないでよね」
男は身構える様子もなく無防備に近寄ってきた。アタシは相手が蹴りの届く間合いに入ってくるタイミングを計った。
そのとき背後で足音がした。アタシは反射的に振り返った。
それとほぼ同時に、とんでもない速さの前蹴りがアタシの腹に飛び込んできた。
とっさのブロックは辛うじて間に合った。丸太のような脚を押さえるのと同時に身体を浮かせた。それでも爪先が鳩尾の少し下にめり込んだ。
ちょうど胃袋の辺りだった。直撃だったら胃の中身をアスファルトにぶちまけながら悶絶していたに違いない。
ここで悠長に痛がっているわけにはいかない。アタシは苦痛の声を飲み込んで顔を上げた。
その瞬間、横殴りの中段回し蹴りがアタシの上体に襲いかかった。
今度もブロックは間に合った。けれど、その上からでも全身の骨が悲鳴を上げるような重い回し蹴りだった。
決して軽くはないアタシの身体が、打たれて揺らぐサンドバッグのように泳いだ。
「……かはぁっ……」
アタシは身体を折って肺の中の空気を吐き出した。呼吸が止まって次の息が吸えない。息吹で無理やり呼吸を整えようにも身体を起こすことが出来なかった。
ガードした腕の感覚はすぐには戻らなかった。
いくら目の前のマスク男に気を取られていたとはいっても、背後に近づかれても気づかなかったことにアタシは歯噛みする思いだった。
涙目になりながら自分を蹴った男を見た。
大男は相棒とは違って素顔だった。面長のゴツゴツした顔立ちで短く刈った髪は剣山のように逆立っている。歳は三十台半ばか、もう少し上という感じだった。背丈はアタシよりかなり高い。百八十センチ以上はあるだろう。それに見合った体の幅と厚みがあるけれど太ってはいない。黒いポロシャツの袖から剥き出しになった上腕は筋肉の標本のように大きく盛り上がっている。
背後のマスク男と目の前の空手使いの大男の双方を見ながら、自分が絶望的な状況に立たされていることを悟った。少なくとも大男はアタシの手に負える相手ではなかった。
アタシは逃げるチャンスを窺った。
一般の車道ではあるけれど片側は高架のコンクリート壁、反対側は立ち並ぶビル。脇道はない。前後から挟まれている以上、脚で振り切って逃げ出すのは無理だった。
一発でいい。どちらかの脚を止めて逃げ出すチャンスを作り出さなければ。
この場合、どちらに仕掛けるかは考えるまでもなかった。そっと指先に力を入れてみた。大丈夫、折れてはいない。
「――お嬢ちゃん、悲鳴をあげたけりゃあげてもいいんだぜ。まあ、ここじゃ電車の音で聞こえねぇだろうがな」
マスク男が言った。擦り合わせたヤスリを連想させるザラザラした声。
アタシは苦痛を堪えて笑って見せた。
「そんな安っぽい脅し文句しか言えないようじゃ、大したことないのね、あんた」
「何だと?」
「弱い犬ほどよく吠える。――昔から言うでしょ?」
「どうやらもっと痛い目に遭いたいようだな」
マスク男の目には獲物を取り押さえたハイエナのような暗い喜びの色が浮かんでいた。
「……この女、やりますよ」
大男が口を挟んだ。
「オレの蹴りを両方とも受け止めましたからね。手加減したつもりはなかったんですが」
「黙ってろ、大沢。お前が間抜けなだけだろうが」
マスク男は構えも何もなく踏み込んできて、いきなり手の甲でアタシの頬を張ろうとした。
避けられるタイミングではなかった。アタシはとっさに首をすくめてその手を肩で逸らした。それでも男の大きな手がアタシの頬に熱を残していった。
マスク男は舌打ちして、振り抜いた手で反対の頬を張ろうとした。
汝、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ。そう言ったのはイエス・キリストだ。
そして左の頬を打たれそうになったらカウンターで沈めろ。そう言ったのはアタシの師匠だ。
アタシは一気に前に出た。振り下ろされた手を受け止めて、ガラ空きになった顎を肘でカチ上げた。マスク男の頭が喉仏が見えるほど仰け反った。
聞き苦しい呻き声とともにマスク男はその場で腰砕けになった。アタシはマスク男を突き飛ばした。
逃げるチャンスは今しかなかった。目の端で大沢が動くのが見えた。ただ、アタシはハンドバッグを落としたままにしていた。
身元の判るものを残してはいけない。やむを得ずバッグを拾いに行った。
それが勝負の分かれ目だった。
バッグを拾って駆け出そうとした瞬間、踏み込んできた大沢の後ろ回し蹴りが――こんな事態だというのに――惚れ惚れするような美しい軌道を描いて、アタシの身体を地面から引っこ抜いた。
アタシはそのままアスファルトに叩き付けられた。
大沢はゆっくりと近づいてきた。
何とか体を起こそうとした。しかし四つんばいから立とうとしたところでラグビーのプレースキックのような勢いで腹を蹴り上げられた。
もはや声も出なかった。アタシは再び倒れ込んだ。
荒い息を繰り返すアタシの傍らで、大沢はアタシが何か変な動きをしたら即座に二発目の蹴りを叩き込めるよう身構えていた。
「面倒を掛けさせるな。女の子に手荒なマネはしたくない」
「……これだけやっといて、手荒なマネしたくないなんて、よく言えるわね……」
アタシは浅い呼吸を繰り返しながら切れ切れに言った。倒れたときに打った膝が痛んだ。手のひらも熱を持ったように熱い。
「大沢ぁ、逃がしたんじゃねぇだろうな!?」
マスク男の声がした。目出し帽をたくし上げてシャツの袖で口許を拭っている。
「大丈夫です。大人しくしてますよ」
マスク男が近寄ってきた。
「……畜生、このガキ、なめた真似しやがって。大沢、こいつを立たせて、後ろで押さえてろ」
何をするつもりかは容易に想像がついた。アタシは腕を掴まれて立たせられた。
大沢はアタシを羽交い絞めにした。
「MOを出しな」
マスク男が言った。顔が近づいたせいでマスクから出たシワだらけの目許が見て取れた。マスクでくぐもった声は年齢が判りにくかったけど、意外と齢をくっているようだった。
「……エムオー?」
「しらばっくれるなよ。お前が持ってるんじゃねぇのか?」
なす術もなく敗れたアタシのプライドはズタズタだった。にもかかわらず、この男は父親譲りのアタシの反骨心をすこぶる刺激した。
夜の街で学んだことなどほとんどないけれど、その数少ない得たものの一つに試合とケンカの違いがある。
試合はルールに則って勝敗が決する。しかし、ケンカは負けを認めるまでは負けではない。
アタシは顔を上げて、片頬に皮肉たっぷりの微笑を浮かべた。
「最後のとこ、疑問形にしないほうがよかったわね」
「何だと?」
「確証がないのがバレバレ。カマを掛けるんなら、言葉の組み立てはもう少し考えないと」
「口の減らねぇ女だな」
「一つしか、ないもの。減ったらなくなっちゃう」
(……無駄な抵抗をするな)
大沢が耳元で囁いた。
アタシは力を振り絞って羽交い絞めを振り解こうともがいた。両手をバタつかせると指先が大沢の顔に触れた。それを嫌がって大沢は頭を反らした。
大沢の羽交い絞めはアタシの力ではビクともしなかった。返って深くはまり込んだだけだった。アタシは言われたとおりに力を抜いた。
抵抗を諦めたのを見て取ると、マスク男は指先でアタシの顎を持ち上げるようにしてニタリと笑った。
「もう一度、訊くぞ。MOはどこにやった?」
マスク男はいきり立っていて鼻息が荒かった。
唾を吐きかけてやりたい衝動に駆られた。しかしそういうはしたない真似は名門女子高の生徒としてはやってはいけないことだ。アタシはその代わりに礼節に満ちた答えを返させてもらうことにした。
「――脳味噌は生きてるうちに使えよ、このサディストのインポ野郎」
「……いい度胸だな、テメェ」
マスク男はヒュウと細い息を吐いた。
目が怒りで血走っていた。そのまま半歩下がって拳を握り締めた。
――今だ。
わざと羽交い絞めに深くはまり込んだおかげで肘から先は自由に動かせるようになっていた。
アタシは大沢の頭を包み込むように掴んで、それを支えに地面を蹴った。そのまま踏み込んできたマスク男の顎を思いっきり蹴り上げた。
「ぐふぅっ!!」
マスク男はもんどり打って倒れた。首相撲からの膝蹴りではないので威力は本来のものじゃない。それでもカウンター気味に入ったせいで感触は十分だった。
「貴様ッ!!」
大沢が怒鳴った。
アタシはそのまま頭を掴んだ指を滑らせて大沢の顔を探った。
狙いに気付いた大沢は羽交い絞めを解いてアタシを突き飛ばした。アタシは何とか無様に転ばずに着地した。
振り返ると大沢は気絶したマスク男の傍らに膝をついていた。マスク男の口許からは鮮血が流れ出している。白目を剥いて体が小刻みに痙攣していた。
「迷わず目を潰しにくるとは……。可愛い顔してえげつないな、やることが」
「か弱い少女のお腹を思いっきり蹴飛ばすようなオトコに言われたくないわね。――お仲間を早く病院に連れてったほうがいいわよ。舌、咬んでるかもしれないから」
それはアタシのせめてもの抵抗だった。もう闘う力は欠片ほども残っていなかった。大沢が仲間の生命の危険よりも目的を優先するタイプなら万事休すだった。
大沢は仲間のほうを選んだ。
「お前の顔は覚えた。また会いに来るからな」
「デートのお誘いにしては無粋よね」
アタシは精一杯の虚勢を張った。大沢は舌打ちして足元の仲間を乱暴に引っ張り起こした。そのまま担ぎ上げて路地の向こうへ去っていった。
どれくらいその場に立っていただろうか。
「――オイ、君、何してるんだ?」
不意に路地の角を曲がったところから聞き覚えのあるバリトンが聞こえた。マグライトの強烈な灯りが暗闇を切り裂くように光の帯を作った。アタシはそちらに顔を向けた。
熊谷幹夫は驚いたように声のトーンを上げた。
「君は榊原の――。何をしてるんだ、こんなところで」
「いえ、実はちょっと……」
覚えているのはそこまでだった。アタシの意識は泥沼に沈んでいくように薄れていった。