砕ける月

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  第 19 章  

 左膝に走る焼けるような熱さと痛みで、アタシは意識を取り戻した。
「――痛たたたっ!!」
 アタシは反射的に足元のモノを蹴飛ばしそうになった。
 しかし脚は何かにがっちり押さえ込まれてビクともしなかった。
 バネ仕掛けの人形のような勢いで飛び起きて膝を庇おうしたところで、ヒゲ面の中年男とまともに目が合った。
 アタシは事態が飲み込めずに硬直した。
「まったく、足クセの悪い子だな」
 熊谷幹夫は呆れ顔で手にしていた消毒液(だろう、多分)のビンと液の染み込んだティッシュペーパーを傍らのテーブルに置いた。
 アタシが寝かされていたのは病院の待合室にあるような背もたれのない長椅子で、脚を押さえ込んでいたのは跨っている熊谷の尻だった。
 アタシはよほど呆けたような顔をしていたのだろう。熊谷は可笑しそうに笑うと腰を浮かせて後ずさった。
 二十坪くらいの広々としたオフィスだった。
 灯りはアタシたちがいる部屋の隅だけ点されていて、暗い舞台の上でスポットライトを当てられているような感じだった。冷房が思いのほか効いていて心地良かった。
 室内はいかにも事務所という感じのもので埋められていた。灰色で統一された事務机や書類の並んだキャビネット、専用の台に載せられたコンピュータ、革張りの応接セット、日別の予定を書き込めるホワイトボード。
 ホワイトボードには熊谷のほかに数名の名前が記されていた。
「ここは?」
「オレの事務所だ」
 熊谷は意識を失ったアタシを、三階のこの事務所まで担ぎ上げて手当てをしてくれていたのだ。
 アタシはゆっくり身体を起こした。
「ありがとうございました。その……助けていただいて」
「オレは何もしちゃいないよ。遠くから気付いたときには、君が二人組を追い払ったところだった」
 記憶を辿ってみた。
 そうだ、大沢という男と睨み合いになって、ヤツがマスク男を担いで去っていくのをアタシは仁王立ちのまま見送った。熊谷が声をかけてきたのはその後だ。
 熊谷はキャスター付きの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「大きなケガはないようだ。膝も血は結構出てたがキズ自体は大したことはないみたいだしな。風呂に入ったときにえらく沁みるだろうが……。あ、ストッキングを脱がせたのは手当てをするのに邪魔だったからだ。変なことをするためじゃないから誤解のないように」
 アタシは自分の脚を見た。
 確かにストッキングは履いていなかった。脱がされたストッキングはパーテーションに無造作に掛けられていた。熊谷の言ったとおり膝の辺りが見事に破れている。
 次の瞬間、アタシはハッとした。
 履いていたのはパンストだ。脱がすためにはスカートに手を入れなくてはならない。
 アタシは思わず腰から尻の辺りを押さえて熊谷を睨んだ。自分の顔が真っ赤になっているのが分かる。何か言ってやろうと思ったけど言葉は出てこなかった。
 熊谷は苦笑いを浮かべた。
「おいおい、変なことはしてないと言っただろう。そりゃ脱がす過程で可愛らしい下着が見えたが、それくらいは役得ってものだろ?」
「……まぁ、そうかも知れませんけど」
 アタシは渋々頷いた。確かに文句は言えない――のだろう、この場合。
 熊谷は救急箱から絆創膏を取り出すとアタシに手渡した。
「意識が戻ったんなら、あとは自分でやってくれ。女の子の脚に触るのは嫌いじゃないが、蹴飛ばされちゃかなわない」
 キズの手当てをしている間に、熊谷は部屋の墨にある給湯室の冷蔵庫から缶コーヒーを持ってきてくれていた。
 アタシの分を消毒液の横において、もう一本を指で缶の縁の周りを持ったまま人差し指だけで器用にタブを起こした。
 その手つきを見ていて、ふと熊谷の左手薬指にリングがないのに気がついた。その代わりということでもないのだろうけど、手首にはごつい金無垢の腕時計を嵌めている。
 両膝に絆創膏を貼り終えて、アタシは熊谷と向かい合うように長椅子に座り直した。
 タバコを吸ってもいいかと訊かれたので、アタシは構わないと答えた。熊谷は黒地に金文字をあしらったジョン・プレイヤー・スペシャルのパッケージから一本振り出してジッポのライターで火をつけた。
「吸うかい?」
「結構です。アタシ、未成年なんですけど」
「未成年はこんな時間に外をうろついてちゃいけないんだぞ。それに、酒は飲むんだろ?」
 アタシは思わず目を見開いた。
「何でそんなこと分かるんですか?」
「君を抱えて事務所に上がってくるときに、息からアルコールのニオイがしたからな。ついでに言うと一年程だが交通課にいたことがあってね。飲酒検問をやってると、飲んでるヤツは何となく分かるようになるのさ」
「そういえば、警察にいたって言ってましたね」
「そういうこと」
 熊谷は旨そうに煙を吐き出した。いつの間にか飲み干したコーヒーの缶を灰皿代わりにしていた。黄色がかったクセのある煙とジッポのオイルの残り香が入り混じって辺りに漂っている。
 非行少女時代にタバコにも手を出してみたことはあった。
 しかし体質的に合わなかったのか、あるいはそれがアタシの中のボーダーラインだったのかは分からないけどタバコを吸う習慣は身につかなかった。
 父親はヘヴィー・スモーカーで日にハイライトを三箱以上空けていたけれど、母親の死を機にピタリとやめてしまった。娘を残して肺がんでくたばるわけにはいかないからというのがその理由だった。それがアタシの意識の何処かに残っていたのかもしれない。
「元がついても、警官が未成年にタバコを勧めちゃいかんな。いや反省、反省」
 熊谷はそう言って愉快そうに相好を崩した。
 表情の豊かな男で、仏頂面をしているときはヤクザ顔負けの剣呑さを漂わせているけれど、笑うと人懐こさのようなものを感じさせる。それが経営コンサルタントという職業柄のものか、本来の性格なのかは分からなかった。
 アタシも缶のプルタブを押し開けてチビチビと啜った。
 大沢に腹を蹴られたせいで口の中に酸っぱい感じが残っていたけど、コーヒーで洗い流されて多少はスッキリした。
「さて、こんな時間に若い女性の訪問を受けるのは久しぶりなんだが。――用件を訊こうか」
「用件?」
「ウチを訪ねてきたんだろ? この辺りに君みたいな若い娘が遊ぶような店はないからな」
「ええ、まぁ、そうなんですけど」
 アタシはどう話を切り出すか、迷った。
 そもそも徳永邸に行ったのは由真の両親と話すためだったし、熊谷のような男が現れるとは思ってもいなかった。
 ここに来たのだってちゃんとした理由とか目的があったわけでもない。大沢たちが現れなければ今頃は家に帰り着いてベッドに潜り込んでいるはずだったのだ。

 徳永邸で使うつもりだった筋書きを思い起こしながら、アタシは口を開いた。
「すいません。本当のことを言うと頂いた名刺にこの住所が書いてあったんで、ちょっとどの辺りかを見ておこうと思っただけなんです。由真のことで相談に乗って欲しいことがあって、場所だけ確認して明日にでも――もう今日ですけど、話をしに来ようと思って。第一、こんな時間に誰かいるとは思ってなかったし」
「まぁ、それはそうだろうな」
 熊谷は軽い口調とは裏腹に鋭い目でアタシをじっと見据えていた。目顔で話を続けるよう促された。
「由真が家に帰ってないことはご存知ですよね?」
「徳永から――父親から聞いている。もう六日、いや、日付は変わってるから七日目になるのか」
 今日は八月十三日の土曜日。由真がアタシの家を訪ねてきたのは月曜日だから八月八日の夜だ。七日目であれば由真は日曜日から家に帰っていないことになる。火曜日の夕方まではアタシと一緒にいたことを言うと、熊谷はなるほどと呟いた。
「それで、君は由真を捜してるということか」
 アタシは頷いた。熊谷が由真を呼び捨てにしたのが気になったけど、今は問い質す状況じゃなかった。
「心配してるのはアタシだけじゃありませんけどね。由真は友達が多いですから」
「麗しい友情というわけだな。で、俺に相談したいことというのは?」
「それなんですけど、実は由真と連絡が取れなくなるちょっと前に、預かって欲しいと言われてた物があるんです」
「何だい、それは」
「MOディスクです――あの、見た目はケースに入ったCDみたいなのですけど。分かります?」
「それくらいはね。ウチのパソコンには付いてないが」
 熊谷は暗がりの中に並ぶデスクトップのモニタのほうを見やった。
「で、それを預かったのかね?」
「そのつもりだったんですけど、アタシ、次の日から二泊三日で能古島に行く予定があったんで、結局は預からなかったんです」
「だったら、別に関係ないんじゃないのか」
「アタシもそう思ってたんですけどね。――由真に付き合ってる男の人がいるのはご存知ですか?」
「いや、それは初耳だな。それで?」
「昨日――じゃなくて一昨日の朝、その彼氏が病院に担ぎ込まれているんです。何者かにフクロにされて」
 熊谷の表情が消えて、高橋の入院先のコーヒーラウンジで村上が見せたものとよく似た眼差しになった。疑うことが仕事であり習性でもある警官の眼差し。
「彼が知人のコンピュータに詳しい人に、ある特殊なソフトを手に入れられないかって相談していたらしいんです。そのとき、これを見るのに必要なんだってMOディスクを見せてたらしいんですよね」
「特殊なソフト、ね。マンガの見すぎのような気がするが」
 熊谷は可笑しそうに口許を歪めた。
「ちなみにそれが何だか分かってるのかね?」
「それが、病院で使う電子カルテのものだそうなんです」
 高橋を由真の彼氏に仕立てたりと一部に膨らませた部分はあるけれど、ディスクがアタシの手元にあることを除けばウソはついていなかった。
「それで?」
「由真はMOディスクをアタシに預けようとしていた。その彼氏は電子カルテを見るためのソフトを手に入れようとしていた。その後、高橋は病院送りにされて由真は行方不明。関連付けて考えない方がどうかしてると思いませんか?」
「二人が持っていたMOが同じという確証はないだろう」
「確かにそうです。でも、MOディスクというのはそんなに出回っているものじゃないそうですね」
「らしいな。……なるほど。一応、筋は通ってるな」
 椅子の背に大きな体を預けて、熊谷は鼻から盛大に煙を吐き出した。短くなった吸殻を潰して飲み口から押し込んで二本目に火を点けた。
「その――由真はMOの中身について、何か言っていたかね?」
「それが、ある犯罪の証拠だって……。アタシも悪い冗談かと思ったんですけど」
「どんな犯罪だって?」
「詳しいことは教えてくれませんでした。聞いても多分、何のことだか分からなかったと思うんですけどね――その時は」
「その時は?」
「今ならおおよその予測は立ちます。由真のお母さんとお兄さんの会話のおかげで」
 熊谷の表情には呆れたような笑みが浮かんでいた。笑って誤魔化すというよりは、展開を面白がっているように見えた。
「まったく、あの二人は……。いや、しかし君は頭のいい子だな」
「中学に上がって以来ですよ。そんなコト言われたの」
「成績がどうこうという話じゃないさ。高校を卒業したらウチに来ないか? 言っとくがちゃんとした会社だよ」
「考えときます」
 間合いを測り合うような様子見は終わった。アタシは攻撃の口火を切る第一撃を放った。
「――熊谷さん、高橋拓哉に重傷を負わせて、由真を監禁しているのはあなたなんじゃありませんか?」

 熊谷は興味深そうにアタシをじっと見据えていた。
 実は内心、熊谷が本気で怒り出したり、あるいは逆に大笑いしだすんじゃないかと思っていた――というか、それを期待していた――のだけれど、反応はそのどちらでもなかった。
 熊谷は吸殻を缶の中に落としてプラスチックの屑カゴに放り込んだ。近くのデスクの上にあった硝子の灰皿を手元に引き寄せて次の一本に火をつけた。細く長い息のように煙を時間をかけて吐き出した。
「そう思う理由を聞かせてもらえるかな」
 落ち着き払った口調だった。
「だって、そう考えるのが一番、筋が通ると思うんです」
「どうして?」
「熊谷さん、あなたは確か敬聖会の表に出せないようなトラブルを片付けるのがお仕事なんですよね」
「それだけじゃないが、そういう仕事もしている」
「二人が持っている電子カルテが、由真のお兄さん――徳永祐輔さんの医療ミスの証拠なら、その中身が公になって一番ダメージを受けるのは、間違いなく祐輔さんとご両親ですよね。でもこう言っちゃなんですけど、みんな自分の身に降り掛かる火の粉を上手に追い払えるタイプには見えません。特にあのお父さんなんかは」
「……違いないな」
 熊谷は苦笑した。アタシは話を続けた。
「だからあなたは徳永家の代理人として、事が公になる前に由真の身柄を押さえて、MOディスクを回収しようとした。しかし、由真を捕まえられなかったか、あるいは捕まえたけど由真はディスクを持っていなかった。アタシは後者だと思ってますけど。だから由真の協力者である高橋拓哉を拉致して、口を割らせようと重傷を負わせた」
「なかなか想像力が豊かだな。ま、確かに筋は通っている。状況証拠を見る限りでは、俺は嫌疑濃厚というわけだな」
 熊谷はJPSのパッケージを振って次を振り出そうとした。しかしさっきのが最後の一本だったらしかった。
 ジャケットのポケットにもスペアは入っておらず、熊谷はお菓子を取り上げられた子供のように顔をしかめてパッケージに空き缶の後を追わせた。
「一応、訊いてみるけど――持ってないよな?」
 アタシは頷いた。
 熊谷は椅子の背に大きな体をどっかりと預けて頭の後ろで手を組んだ。相変わらず面白がるように唇をシニカルに歪めている。
「由真が身柄を拘束されていると思う、その根拠は? 彼女の意思で身を隠している可能性もあるだろうに」
「根拠と言えるほどのものはありません。でも由真が自由の身でいるのなら、この期に及んで何のアクションも起こしていないのは返って不自然じゃないですか?」
「どうして? 彼女が告発――だとしての話だが、そうする相手は自分の家族なんだ。迷いがあったっておかしくないだろう」
「そうですけど、家族を窮地に陥れるカルテを持ち出した時点で、由真には相応の覚悟があったはずです。ましてや、高橋にまで手が伸びている以上、彼女に事の成り行きを見守るような余裕があるとは思えませんね」

 熊谷はアタシをじっと見つめて、ニヤリと笑った。
「やはり君は頭のいい子だな。ただ惜しむらくは、俺を容疑者だとするには確証がなさすぎるな。状況証拠だけで、他に該当者がいないからという理由じゃ逮捕状は下りないぜ」
「……ま、それは確かにそうですけどね」
 アタシは肩を竦めた。先制攻撃は見事に捌かれてしまったようだった。
「いきなり犯人呼ばわりして挑発すれば、ボロを出してくれると思ってたんですけど」
「悪い手じゃないけどな。だが、そんな手ばかり使ってると、いつか痛い目に合わされるぞ――さっきの奴らみたいなのに」
 大沢に蹴り上げられた腹が思い出したように疼いた。相棒のマスク男が間抜けだったおかげで助かったけど、そうでなければ今頃、アタシも高橋と同じ運命を辿っていたかもしれないのだった。
 奴らの目的は一体何だったのだろう。
 ふと、アタシの脳裏にマスク男とのやりとりが甦った。
 ――MOを出しな。
 マスク男は確かにそう言った。
 奴らは由真がMOディスクを持っていないことを知っている。そしてそれを手に入れようとしている。
 アタシがディスクを持っているという確証があったとは思えない。確証があったのなら、あんなところで芝居がかった脅しなどせずにアタシを攫えばいいからだ。
 問題はアタシがこの場所へ現れることをどうして知っていたのか、ということだ。
 アタシがここを見てみようと思ったのは熊谷の名刺を貰ったからで、それまでは熊谷の存在すら知らなかったのだから。
 アタシが徳永邸を出るとき、熊谷は由真の父親に呼ばれて家の中へ入っていくところだった。彼にはアタシの行き先など分かるはずもない。
 誰かに後をつけられた可能性もなくはない。アタシは別に尾行に気を使っていたわけじゃない。しかし、父から聞いたことのある話では乗り物を乗り継ぐ相手を尾行するのは至難の業らしい。アタシは中洲のピアニッシモに寄るためにタクシーを乗り継いでいる。あの辺りでアタシが店から出てくるまでクルマを停めて待つのは不可能だ。
 だとすると、さっきの二人組は最初からここにいたことになる。
 そして、そうならば奴らの狙いはアタシではなかったことになる。最初に戻るけれど、アタシがここへ来たのは思い付きだったのだから。
 MOディスクを狙っている他の誰かがいる、ということだろうか。
 アタシは混乱する頭を抑えるように眉間に深いシワを寄せた。ただでさえ近寄りがたいのがさらに恐くなるからやめろ、と何度も由真に注意された仕草だった。

「――どうした?」
 熊谷は不審そうにアタシの顔を覗き込んだ。
「あ、いえ。何でも。今頃になって、ちょっと怖くなってきちゃって」
「無理もないさ。空手をやってるといったって君はまだ十七歳の女の子なんだからな」
「アタシが空手をやってることをどうして?」
「麻子さんに――由真の母親に聞いたのさ。由真がよく君のことを話していたらしい」
 熊谷は立ち上がって、給湯室から冷えたギネスの缶を二缶持ってきた。
「飲むだろ?」
 アタシが頷くと一つを手渡して、熊谷は椅子ではなくデスクの角に尻を乗せた。ジャケットを脱いで無造作にデスクの上に放ると、泡が吹き出さないように慎重な手つきでプルタブを起こした。
 アタシも同じようにプルタブを起こした。コクのある苦味とほんの少しの甘味が入り混じったスタウト独特の味がした。
「確かに俺は由真と彼女が持ち出したMOディスクを追っている」
 熊谷は言った。
「認めるんですね」
「追っているという事実はね。由真を監禁したり、高橋を痛めつけたのは俺じゃない。一人でそんなことは出来ないよ」
「一人?」
「この会社は敬聖会の仕事だけしてるわけじゃないんでね。それにあんまり荒事向きの人材もいない。だから君をスカウトしてるんだ」
 アタシは思わず笑いそうになった。しかし、すぐに表情を引き締めた。
「証拠もなしに信用しろって言うんですか?」
「好きにすればいいさ。とにかく俺は未だに彼女の行方を掴んではいないんだ。ディスクの行方もね」
 アタシはじっと熊谷の顔を見た。本当のことを言っているかどうかはともかく、今は話を聞くところだった。
 アタシはギネスを啜って喉を潤した。
「ディスクの中身は何なんです?」
「徳永祐輔の起こした医療事故とその隠蔽工作の動かぬ証拠となり得る代物だ。敬聖会理事長である母親――徳永麻子の指示の下に行われた工作のね」

 父親の指示じゃなかったのはちょっと意外だった。
「いいんですか、アタシにそんなことを教えて」
「あれだけ当人たちが君の前で喋ってしまってるんだ。今更、否定しても始まらないさ。それと断っておくが、もしもこの件が明るみに出れば、由真も恐喝罪に問われかねないことを頭に入れておいてくれ」
「恐喝罪?」

 熊谷は頷いた。
「そうだ。君にも見せておきたいものがある。立てるかね?」
 アタシは返事の代わりに両脚と下腹に力を入れて立ち上がった。まだ少し鈍い痛みが残っていたけど、表情に出すのは我慢できる程度のものだった。
 熊谷はデスクトップの前に歩いて行った。アタシはその後ろを着いていった。
 デスクトップの電源を入れて画面が出てくるのを待った。熊谷はマウスを操作してアイコンをクリックしていた。
「――これだ」
 目顔でデスクの前の椅子に座るように促された。アタシは素直に腰を下ろした。
「八月九日、火曜日の十九時四十二分に受信したメールだ。君が由真と別れたのは?」
「その日の夕方です。アタシがバイトに行く前だから、五時過ぎくらいだと思いますけど」
「ということは、その約二時間半後だな。俺のメールアドレスにメールが送られてきた。送り主は徳永由真。ただし、フリーメールのアドレスからだが」
「内容は?」
「件名も本文もなし。添付されていた動画ファイルだけだ。画質が荒いんで、ちゃんとしたカメラじゃなくて、携帯かデジタルカメラの動画モードで撮ったんだろう。約二十秒の短いものだ」
 画面上の矢印がクリップの形をしたアイコンの上に停まっていた。マウスのボタンを押すカチカチッという音が、静まり返ったオフィスの中でやけに大きく響いた。
 映像を再生するソフトが立ち上がって、液晶画面の真ん中に由真が現れた。
 ひどく沈んだ表情――なのに口許には明らかに笑みが浮かんでいる。背景は暗くて見えない。顔にだけデスクライトのような明かりが当たっていて、それが由真の表情に強いコントラストを作り出していた。


『――叔父さん、いきなりこんなメールを送ってごめんなさい。叔父さんのところからコレを持ち出したのはあたしよ』
 由真は顔の前にMOディスクを掲げて見せた。
『何が入っているかは、判るよね。絶対に表沙汰には出来ない三つのファイル。――五千万円でいいわ。あと、アタシを捜さないって約束して欲しい。こんなコトしたんだから、もうウチには戻れないし』
「どういうこと?」
 アタシは思わず呟いた。無論、返事はない。
『お金の受け渡しについては、また連絡するわ。じゃ、またね』







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