砕ける月

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  第 30 章  

 坂崎自動車工業は福岡市の東隣、糟屋郡久山町に突如(?)オープンした巨大なショッピング・モールのすぐ近くにあった。
 福岡と筑豊を隔てる山々の麓に広がるこの辺りについて他にアタシが知っていることと言えば、街のど真ん中を九州自動車道と山陽新幹線が走っていることと、祖父が会員権を持っている(らしい)ゴルフ場があること、そしてこの街を横断して直方へと繋がる県道二十一号線が県内有数の心霊スポット、犬鳴峠を通っていることくらいだった。最後の一つにはあまり近寄りたくない。
 ショールームのドアには読みにくい金釘流の字で”八月十三、十四、十五日はお盆休みの為、休業致します”と書かれた貼り紙が貼ってあった。
「……ま、予想はしてましたけどね」
 本日の占い第十一位のアタシは盛大にため息をついた。もはや肩を落とす気にもならない。
 横で梅野が笑いを噛み殺しているのに気づいて、アタシは肘でその脇腹を小突いた。そんなに力を入れてはいないのだけど当たり所が良かった(悪かった?)のか、梅野は息を詰まらせた。
「……痛いじゃないっすかぁ」
「他人の不幸を笑うからですよ」
 アタシは梅野を軽く睨んだ。
 敷地にはガラス張りのショールームとその横の事務棟、その向こうに大きなシャッターの下りたガレージが並んでいる。その前には動かなくなったクルマを運ぶキャリアのついたトラックや明らかに動かなくなった古い軽自動車、衝突事故の惨状をありありと残した暴走族仕様の黒いグロリアなどが雨ざらしで停まっているけれど、それ以外にはクルマは見当たらなかった。
「誰もいないみたいですね。しょうがない、帰りましょうか」
 アタシは踵を返そうとした。
 すると、梅野がアタシの腕に手を置いた。
「ちょっと待った。中から音が聞こえないっすか?」
 アタシは耳を済ませた。
 何の音か分からないけど、モーターの唸るような音が確かに聞こえた。
「聞こえますね」
「誰か、中で作業しているんじゃないっすかね」
 梅野はガレージのほうへ歩いていった。
 シャッターに耳を当てて中の様子を窺い、それから辺りを見回した。
 梅野はガレージの通用口のドアに手を掛けた。ドアにカギは掛かっていなかった。口の端に笑みを浮かべてアタシに手招きをした。
「カギも開いてることですし、中に入ってみましょうか」
「エッ!?」
 梅野は返事を待たずにドアを開けて、躊躇う様子もなくズカズカと入り込んだ。
「こんちわぁ。誰かいませんかぁ?」
 返事はなかった。アタシもドキドキしながら後に続いた。
 六坪ほどの手狭な事務所(と言うか、休憩室)だった。
 誰もいなかったけど、エアコンを切ってからそれほど時間が経っていないのか、空気はまだヒンヤリしていた。表張りがところどころ破れた古い応接セットのテーブルにはセブンイレブンの弁当の食べかすが放置されていた。
 梅野はタイムカードの機械の前で壁のホルダーに差し込まれたカードの名前を読んでいた。やがておもむろに一番下のカードを引っこ抜いた。
「いましたよ、久住賢治。こいつが高橋拓哉のお友達のケンジ君っすかね」
「……梅野さん、すっごい大胆ですね。アタシがマンションに忍び込もうとしたときにはあんなに止めたのに」
「そりゃ、今回は警察を呼ばれる心配はないっすからね」
「どうして?」
「カマロの調子が悪いんで見てもらおうと思って寄ったら、カギが開いてたって言えばいいんすから。それに真奈さん、ここの駐車場、見ました?」
 アタシは意味が分からず入口まで歩いていってもう一度駐車場を見た。そこには梅野の(正確には梅野の兄の)シヴォレー・カマロが停まっているだけだった。
「カマロ以外、何も停まってませんけど」
「ということは、今、作業場でいじってるのはお客さんのクルマじゃなくて自分のってことでしょ。従業員が休みの日に勝手に会社の設備を使うのってどうなんですかね」
「何で勝手に使ってるって言えるんですか」
「堂々と使えるんなら、こんな蒸し暑い日にシャッターも開けずに作業したりしませんよ」
 アタシは梅野の顔をマジマジと眺めた。
「……なるほど。ひょっとして梅野さんって、頭いいんじゃないですか?」
「それほどでもないっすけどね」
 言葉とは裏腹に梅野は得意そうに目を細めた。調子に乗るなと言ってやりたかったけど、このヤンキー上がりが意外に(というか、かなり)頭が切れるのは認めざるを得ない。
 梅野はタイムカードを元に戻してガレージへ通じるドアを開けた。
 埃と油と鉄のニオイが入り混じった、ガレージ特有のニオイが鼻を突いた。シャッターを閉め切っているせいで肌に纏わりつくような不快な熱気が篭っている。モーター音とガガガガガッと断続的に叩きつけるような音がした。タイヤのボルトを締め上げるトルクレンチの音のようだった。
 作業場の真ん中では男が片膝をついて座り込んで、ジャッキアップされた白黒ツートンのクルマのタイヤ交換をしていた。古い型式のスプリンター・トレノで、その型番から通称”ハチロク”と呼ばれる走り屋御用達のクルマだ。控えめだけれどしっかりとエアロ・パーツなどが取り付けてある。見た感じでもかなりいじってあるのが分かった。
 作業しているのは、せかせかした動きがトカゲを連想させる痩せた男だった。ツナギの上半身をはだけて袖の部分を腰に巻きつけるように結んでいた。前後逆に被ったダンロップのキャップの庇の下から束ねた縮れ毛が尻尾のように垂れ下がっていた。
 男はアタシたちが入ってきたことに気付いていないようだった。
「スンマセン、ちょっといいっすかぁ?」
 梅野は能天気な口調でそう言ってハチロクに近寄っていった。トカゲ男は不意打ちに驚いてバネ仕掛けの人形のように振り向いた。
「――どっから入って来たんだよ」
 トカゲ男が言った。ムリヤリ押し殺したような声だった。二十歳前後の酷薄そうな顔立ちで、メガネの奥から底光りするような眼差しを向けている。
 人がこういう声を出すときはおおよそ二種類の理由がある。一つは相手を脅そうとしているとき。もう一つは必死で恐怖を隠そうとしているとき。
 トカゲ男は間違いなく後者だった。
「いや、入口が空いてたんすよ。あんた、ひょっとして久住賢治さん?」
「……そうだけど」
「どうやらビンゴみたいっすね」
 梅野がアタシのほうを振り向いた。アタシは口を挟んだ。
「ちょっと話を訊かせて欲しいんだけど。高橋拓哉さんの件で」
「拓哉の?」
「そう。高橋さんが病院を抜け出したのは知ってる? アタシたちは彼を捜してるの」
 久住賢治は目を細めて梅野とアタシを値踏みするような視線を投げた。
 結論はあまり好ましいものにはならなかったようだった。
 久住はトルクレンチをゆっくりと床に置いて、代わりに大振りなモンキースパナを手に取った。
「ぶん殴られたくなかったら、さっさと帰れよ。言っとくけど手加減しねぇぞ」
「……だ、そうですけど?」
 梅野は再びアタシのほうを向いた。ケンカのセオリーから言えば得物を持った相手から視線を切るなど言語道断なのだけれど、久住が一足飛びに襲い掛かるにはまだ距離があった。
 アタシは二人の間に割って入った。
「ちょっと待って。ぶん殴られるようなことをした覚えはないわ。アタシはただ話を――」
「うるせぇっ!! よくも拓哉をあんな目に遭わせやがったなっ!!」
 久住はスパナを構えた。
 構えから見ると格闘技の経験はなさそうで、ケンカ慣れもしていないようだった。アタシは前に出ようとした梅野を制した。
 とっさに誤解を解く言葉を捜した。しかし久住が動くほうが早かった。
 やむを得ない。
 オーバーハンドから振り下ろされるスパナの軌道から、大きなサイドステップで身体をずらした。
 単純に叩きのめせばいいのなら必殺の一撃を打ち込む隙はいくらでもあったけれど、この後、話を聞かなくてはならないことを考えると多大なダメージを与えるのは憚られた。
 久住はアタシのほうに向き直った。息が荒くなって目が血走っている。何か言いたそうだったけど言葉にはならなかった。
 アタシは久住が動くのを待った。狙うのは相手の攻撃の終わり。
 スパナが今度は横方向から襲い掛かってきた。
 半歩後ろに下がってやり過ごした。それがバックハンドで戻ってくる前にがら空きの脇腹に拳を叩き込んだ。年頃の女の子が羨ましがりそうな腹回りの肉の薄さのせいで、直に内臓を叩いたような嫌な感触がした。
「うごおっ!!」
 形容しがたい呻きに続いて久住の上半身が折れた。そのまま千鳥足のような足取りで何とかアタシから離れた。
 手応えは充分でこれで終わりだと思った。しかし久住はスパナを取り落としそうになるのを必死で捕まえていた――つまり、まだ戦意は失っていない。見上げた根性だ。
「かかってきなさいよ。それとも、それで終わりなの?」
 歯軋りの音が聞こえそうな表情とともに久住の腕がノロノロと上がった。それだけが最後のプライドであるかのようにスパナの柄を握り締めている。
 でも、そこまでだった。
 スパナはコンクリートの床の上に落ちて盛大な音を立てた。膝をついた久住の脚の間に嘔吐物が広がった。

 格闘技をやっていると慣れることはいくつもあるけれど、十七歳の乙女としてあんまり慣れたくないことの一つに嘔吐物の後始末というのがある。打撃系の格闘技では腹部にクリーンヒットが入るとよく起こることなので致し方ないことではあるけど。
 アタシがビニール袋に詰め込んだトイレットペーパーを敷地の外にあるゴミ捨て場に捨てに行っている間、梅野は脇腹を押さえて蹲っている久住を慎重に監視していた。アタシが戻ると「お疲れ様っす」と習慣と言ってもいい自然さで言った。
 アタシは久住の傍らにしゃがみ込んだ。
「気分はどう?」
「……良いわけねぇだろ」
 久住の声はかすれて弱々しかった。脇腹に開いた穴を塞いでいるかのように両手をあてがっていた。
「ちくしょう、まさか、女に負けるなんてな。情けねぇにも程がある」
「気にすんなよ。この人は普通の女の子じゃないから」
 梅野が口を挟んだ。アタシは梅野を睨んだ。
「それ、どういう意味ですかぁ?」
「あ、いや、その……」
 しどろもどろの梅野は放っておいて、久住に向き直った。
「高橋拓哉は誰かに追われてるの?」
「テメェらだろうが、拓哉を追い回してるのは。言っとくが、何もしゃべらねぇぞ」
「それは思い込みだってば。アタシは高橋さんのその……彼女の友達なの。二人とも連絡が取れないから捜してるのよ」
「拓哉の彼女って、由真ちゃんの?」
 やはり高橋の周囲では由真は”彼女”ということになっているらしかった。本人に確かめたわけではないので、それについては保留しておくことにした。
 久住は「……信じられない」とでも言いたげな呆けた顔をしていた。
「だってあの子、すっげぇ良いトコの箱入り娘なんだろ? お嬢様学校に通ってるらしいし」
「……アタシもそのお嬢様学校の生徒なんだけどね」
 財布に入れっぱなしにしている学生証を見せてやった。久住はそれをマジマジと見てから、大きく天を仰いだ。
「何だよ、それを早く言えよぉ。俺、殴られ損じゃんかよ」
「そっちが話も聞かずに殴りかかってくるからでしょ」
「だってあんた、絶対に女子高生には見えねぇもん。そっちの連れもヤンキーみたいだしさ。俺はてっきり拓哉をフクロにした連中が、病院を抜け出したのを知って捜しに来たんだと思ったんだ」
 もう二、三発ぶん殴ってやりたくなるのを堪えた。
「十日の――水曜日の夜、高橋さんを福岡市内まで送っていったのはあんた?」
「ああ、俺だよ。急に電話がかかってきて、悪ぃけど送ってくれって言うもんだからさ」
「次の日、雑餉隈で見つかるまでの間、彼が何をしていたのか知りたいのよ。話してくれない?」
「ああ、いいけど。その前に着替えてきていいか?」
 久住は自分のツナギを見た。
 キレイに拭き取ってはあったけど嘔吐物の痕跡はアリアリと残っていて、それは結構な異臭を放っていた。着替えてくれたほうがこちらとしてもありがたかった。
「逃げ出したりしないでしょうね?」
「何のために? それに俺のハチロクはそこにあるよ」
 久住は顎をしゃくって見せた。
「ここは暑いし、あっちの事務所で待っててくれよ」
 そう言って久住は奥の小部屋へ入っていった。足取りはまだ少しフラフラしていた。

「で、高橋さんを乗せて福岡に行ったのは何時頃だったの?」
 アタシは言った。
「九時半……十時は過ぎてたんじゃねぇかな。野球中継が終わったあとだったから。ボーっとテレビ見てたら拓哉から電話が掛かって来て「送ってくれ」って。いつもなら自分のクルマで行くのに珍しいなって言ったら、街中の駐車場に一晩停めたら高いからって」
 久住は単に色が違うだけの同じようなツナギに着替えていた。まだ作業が終わっていないからだろう。
「それでも、普段なら自分のクルマで行くんでしょ?」
「まあね。人の運転は嫌いだって言うし」
 彼の叔母からも同じようなことを聞いていた。
「何しに行くかは訊かなかったの?」
 久住は首を振った。
「そのときは、どうせデートだって思ってたから。こっちは独り者でヒマだってのに、わざわざ聞かされるのもイヤだしな」
「ま、そりゃそうね」
「それで街まで送って、親不孝通りで下ろしたんだ。一回」
「一回?」
「そう。俺はその後、行くとこもないから油山にでも行こうかとか思って、近くのコンビニでジュース買って、あっちのほうに走りに行ってたんだ」
「油山に?」
 梅野が口を挟んだ。意外そうな口調だった。
「そうだけど、何で?」
「いや、別に」
 油山は早良区から城南区へ向かう途中にある山で、福岡では夜景のキレイなスポットとしてカップルに人気があるところだ。もっとも、その実は途中の山道にあるラブホテルが目当てらしいのだけれど。
 アタシも昼間に一度、バンディットで走ったことがあるけれど、特に走りに行くようなコースではないような気がした。おそらく梅野もそう思ったのだろう。
 アタシは大きく息をついた。
「じゃあ、親不孝で下ろしてからの高橋の足取りは分かんないのね」
「……話は最後まで聞けよ。一回って言ったろ」
「そうでした。続きをどうぞ」
 久住は憮然とした顔をしていた。
 こっちが下手に出ているのでだんだん横柄な物言いになってきていた。梅野の視線に剣呑なものを感じたので目顔で制した。
「帰ろうかなと思って山を降りてきた頃だったかな。拓哉が電話してきたんだ。十二時をちょっと過ぎた頃。デートにしては早かったなとか思ったんだけど、「今、春日の駐屯地の近くにいるんだけど、来てくれないか」って言うもんだからさ」
「そりゃまた、ずいぶんと移動したものね」
 久住が高橋を下ろした親不孝通りは天神の北側、もう少しで博多湾というところだ。
 それに対して陸上自衛隊春日駐屯地は南区と博多区の南側、春日市との境にある。というか住所的には完全に春日市になるはずだ。つまり高橋は福岡市を北から南に縦断したことになる。
 そして、春日駐屯地のすぐそばには高橋が重傷を負って発見された雑餉隈がある。
「何してるんだって訊いても、どうもハッキリしなくてさ。しょうがないから行くって言ったんだ。近くにあるファミレスで待ち合わせして」
「それで?」
 久住は肩を竦めた。
「ところがさ、ファミレスに着いたのが一時くらいだったと思うんだけど、来ないんだよ。一時間は待ってたと思うんだけど。電話かけても出ないしメールの返事も来ないし。……だんだん心配になってきちゃってさ」
 嫌な予感がした。久住は手違いをやらかしてしまった人間に特有の暗い目つきをしていた。
「それ、ちゃんと待ち合わせしたの?」
「した……つもりだったんだ。日赤通りにあるファミレスって。俺たち、いっつもガストとかジョイフルだから、拓哉が言ってるのはてっきりそこだと思ったんだ。でもよく考えたら、近くにロイヤルホストもあったんだよな」
 アタシは梅野を見た。南区から春日、大野城辺りにかけてはこの男のテリトリーだ。
「そうなんですか?」
「確かにありましたね。宝町の交差点じゃなかったっけ?」
 久住は頷いた。バツが悪そうに顔をしかめていた。アタシは思わず舌打ちした。待ち合わせ一つ満足に出来ないのか。
「ロイヤルホストには行かないの?」
「行かねぇよ。だってあそこ何でも高ぇし。俺ら、カネねぇしな」
 若い男がクルマに給料を突っ込んでいればカネがないのは当然のことだろう。久住のハチロクはもとより、高橋のCR−Xにもロール・バーが入っていたりしたので、それなりにつぎ込んであるはずだ。彼らがちょっとお高めのロイヤルホストではなく庶民的なところを選ぶのは当然のことに思える。
 ただし、由真が一緒だったとすれば話は別だ。名物のオニオングラタンスープ(かのマリリン・モンローが福岡に来たときに三日間連続で食べたという逸話で有名なのだそうだ)の大ファンで、由真にとってファミレスとロイヤルホストはイコールだからだ。
「で、その後、高橋さんとは会えたの?」
「遅ればせながらロイホにも行ってみたけどいなかった。店員に聞いても、オレみたいなのには教えてくれないし」
「でしょうね」
 アタシの声に明らかな落胆の響きが混じった。それを隠す気にもならなかった。
「でも、一つだけ。ロイホの駐車場で拾ったものがあるんだ。オレもさっきまでそれが何なんだか分かんなかったんで、ハチロクに乗せたままにしてたんだけど。――あんた、榊原っていったよな」
「榊原真奈、だけど」
「オレがちょうど駐車場に入ろうとしたとき、スッゲェ勢いで出てきたワンボックスがいてさ。そいつが停まってたところに落ちてたんだ。コレだよ」
 久住はポケットから銀色の金属片を取り出した。
 アタシは思わずアッと声をあげた。
 それはあの日、アタシと由真がキャナルシティで作ったお揃いのドッグタグだった。








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