カマロは延々と続く県道二十一号線(通称・福岡直方線)を市内へと引き返していた。
夕方になるにつれて雲は厚くなる一方で、まだ六時を少し過ぎたくらいなのに日はまったく差していなかった。辺りの景色は色彩を失って、夜の帳が下りる直前の紺色に染まり始めていた。アスファルトを叩く雨粒がヘッドライトの灯りを反射して光って見える。
「――それ、見せてもらっていいっすか」
梅野が言った。
アタシは助手席の背もたれに身体を預けて無意識に由真のドッグタグを弄んでいた。一緒に買ったチェーンは引きちぎられて、手首にも回らないほどの長さのものが残っているだけだった。
アタシはドッグタグを梅野に手渡した。
ドア・スピーカーからはジプシー・キングスの「インスピレイション」が流れていた。
センチメンタルなフラメンコ・ギターの音色は、この曲が使われた時代劇のエンディングの静寂に満ちた美しい映像を思い出させた。どちらかと言えば「ボラーレ」や「バンボレオ」のような情熱的なものが多い中では異質なのだけれど、彼らの曲の中でアタシが一番好きな曲だった。渋滞情報を聴こうと思ってラジオをつけたらかかっていたのだ。FMとはいってもインストゥルメンタルがラジオで流れるのはかなり珍しい。
短い曲が終わってDJのトークに変わった。
「これ、どっかで聴いたことのある曲っすよね」
「鬼平犯科帳のエンディングですよ。中村吉右衛門が出てたやつ」
梅野は合点がいったらしく「……ああ、あれっすか」と呟いた。
「でも真奈さん、時代劇なんか見るんすか? イメージ合わないっすね」
「そうですか? 結構、好きなんですけど。アタシ、逆に最近の連続モノのドラマとか見ませんし」
だから、由真に「……婆くさい」などと言われるのだけれど、と心の中で付け加えた。
多々良川を渡る橋に差し掛かったところで、交差点を越えた前方に警察の事故処理車の”事故”という表示板が見えた。
梅野は小さく舌打ちして「何やってんだよ」と呟いた。
反射材付きの雨合羽を着た警官がイライラをぶつけるように警笛を吹き鳴らしながら交通整理をしている。片側車線を交互に通らなくてはならず、広さの割に交通量の多いこの道は渋滞というよりほとんど動いていなかった。
梅野は諦めたようにサイドブレーキを引いてギアをニュートラルに移した。
「それもお父さんの影響っすか?」
梅野が言った。
「どっちかっていうと母親の影響かもしれないですね。吉右衛門のファンでしたから」
「えっ? お母さんって、お幾つなんすか」
「生きてれば、えーっと、五十……四かな。アタシ、ずいぶん遅く生まれた子なんですよ。バカ親父がなかなか結婚に踏み切らなかったせいで」
「……そうなんすか」
梅野は二重の意味で驚いているようだった。アタシの周囲には父親の事件のことは知っていても、母親が早くに死んでしまったことを知っている人間は少ないからだ。
「悪いこと、訊いちゃいましたかね?」
「気にしないでくださいよ。それより、何か分かりました?」
アタシの言っている意味が分からなかったのか、梅野はキョトンとした顔をしていた。それがドッグタグのことだと分かると、慌てて手にしたそれをルームランプの灯りにかざした。
「ああ、これっすね。――何で、真奈さんの名前が入ってるんすか?」
「由真とアタシのお揃いなんですよ」
「お揃い?」
「そう。ほら、コレ」
アタシは自分のドッグタグを胸元から引っ張り出した。
どちらにも”MANA SAKAKIBARA/YUMA TOKUNAGA 2005/08/09”と彫られている。ただ、由真のは何かに(おそらくクルマのタイヤに)踏まれていびつに曲がってしまっていた。
梅野は証拠品を仔細に観察するシャーロック・ホームズのように、目を細めて手にした小さな金属片を眺めていた。
かの名探偵ならこの後、常人には理解できないような飛躍した推理を展開するのだろうけど、梅野は諦めたように鼻息を吹き出しただけだった。
アタシはドッグタグを受け取った。
「問題はコレが何故、春日のロイヤルホストの駐車場に落ちてたかってことですよね」
「そうっすね。……何時頃の話って言ってましたっけ」
「久住が近くのジョイフルに着いたのが午前一時頃。それから一時間くらい待ってたってことは二時過ぎくらいですね。で、その時刻に駐車場から飛び出してきたワンボックスがいたと」
「キャラバンだって言ってましたっけ。そのクルマ」
久住賢治は記憶を辿りながら、ドッグタグが落ちていたところに停まっていたらしきワンボックスはおそらく年式の古いニッサンのキャラバン、色は白だと言った。職業柄、テールランプの形状でおおよその車種が分かるらしかった。世の中にはいろんな特技があるものだ。
「キャラバンって納品業者入口って書いてあるとことか、工事現場なんかでよく見かけるクルマですよね」
「ちょっと偏見が混じってるような気はしますけど、でもまぁ、そんな使われ方っすね」
「手掛かりになると思います?」
梅野は首を捻った。
「ないよりはマシな程度には、ってとこでしょ。ナンバーでも分かってれば別っすけど」
「そうですよねぇ……」
ラジオからは三人のパーソナリティのトークが流れていた。
二人とも聴いていなかったので梅野はラジオを消した。この状況では交通情報を聴いてもあまり意味はなかった。
「でも、やっぱり由真さんがそこに落としていったんすかね。それとも、揉み合ってるときにチェーンが千切れて落ちたのか」
梅野の問いに、アタシは少し考えて口を開いた。
「何かしらの痕跡を残そうと思ってキャラバンに乗る前にわざと落としていった、と考えるのが妥当だと思うんですよ。この際、誰がそのワンボックスに乗ってたのかは置いとくとして、いくら深夜と言っても店員や出入りする客の目のあるファミレスの駐車場で、嫌がる由真をムリヤリ拉致できたとは考えにくいですからね」
ワンボックスを使ってほぼ一瞬のうちに拉致をやらかす連中がいることはアタシも知っている。
でもそれは気付かれることなくクルマを傍まで寄せられるところにターゲットが突っ立っていることが前提だ。いくら由真でも大して広くもないファミレスの駐車場で不審な動きを見せるクルマに気付かなかったとは思えないし、連れ去った側もそんなリスクを犯したとは考えにくい。
ただしそれは由真が少なくとも表立った抵抗をすることなくワンボックスに乗ったことをも意味していた。そうする(あるいは、そうせざるを得ない)理由は何だったのか。
警官が誘導灯をライトセーバーのように振り回しながら、停まっていた側の車に”行け”と指示していた。
梅野は事故現場を通り過ぎると、モヤモヤした気分を吐き出すようにアクセルを開けた。
由真のマンションに行く前に、最初に立ち寄ったときにカマロを停めたショッピングモールのマクドナルドで腹ごしらえを済ませた。
昼がチーズバーガーだったので和食が食べたかった(せめてハンバーガーは避けたかった)のだけれど、これからまだ動かなくてはならないので軽めにせざるを得なかった。
敷地内には他にロイヤルホストとリンガーハット、ケンタッキー・フライドチキンしかなくて――ミスター・ドーナツは申し訳ないけど眼中になかった――アタシは渋々、マクドナルドで食べることに同意したのだった。
セットについてきたアタシのポテトまで完食して満足げな梅野を引っ立てて、同じ敷地内にあるホームセンターでマグライトと軍手を買った。アタシの分の傘をカゴに入れると梅野は少し残念そうな顔をしたけれど、また濡れながら歩くわけにもいかないので気付かなかった振りをした。
吉塚パークサイド・ヒルズの周りの様子を窺ってからロビーに入った。灯りの点いている部屋は少なくて、由真の部屋のある三階は好都合なことに真っ暗だった。
一方、オートロックを避けて侵入するのはちょっと難しそうだというのも分かった。雨が降っていなければ外壁の出っ張りに足をかけてよじ登ることも出来そうだけれど、濡れたコンクリートや外壁タイルに体重をかけるのは危険だった。
アタシが困惑していると、梅野はロビー内の壁を見回して何かを探していた。
「何してるんですか、梅野さん?」
「いや、ちょっと。――あ、あった」
梅野は壁のちょっと高いところにあったパネルに近寄った。
それは非常用の開錠装置のスイッチで、緊急事態の際にオートロックを解除するためのものだった。ただし、これを押すとロックは外れるけど、とんでもない音量のベルが鳴る仕掛けになっている。その昔、同じマンションの悪ガキが両親に叱られた腹いせに(しかも真夜中に)押したことがあって、火災報知器の音と勘違いした父親に叩き起こされてひどい目に遭ったことがあった。
梅野は無造作にスイッチに手を伸ばした。
この男は何を考えているのだろう? まさか、ベルが鳴ることを知らないのだろうか?
「ちょっと待ってください、それはヤバイですって――」
アタシの声は間に合わず梅野はスイッチを叩いた。万事休す。アタシは目を閉じて耳を両手で塞いだ。
ベルは鳴らなかった。
恐る恐る目を開けると梅野は開いた自動ドアの向こう側にいた。
「真奈さん、何してるんすか。行きますよ」
「……ヘッ? ベルは?」
「ああ、これね。軽く叩くと開錠スイッチだけ入るんすよ。新聞屋のオッサンから教わったんすけどね」
梅野の解説によると、誰も中に招き入れるはずのない勧誘のオッサンがいきなり玄関のチャイムを鳴らせるのはそういう裏技のおかげらしかった。でもコツがあるから真似しちゃダメっすよ、と梅野は言った。
頼まれても真似なんかしないと思いながら、アタシは梅野に続いて中に入った。エレベータで三階まで上がって、一番奥の部屋の前に立った。
カギを隠せそうな場所はそう多くはなかった。せいぜいガスのメーターのところくらいだ。
アタシはパネルを開けて中を覗き込んだ。マグライトの灯りで配管や器械の形を確認してから手を突っ込んだ。開閉式のメーターボックスの蓋を開けると、中からビニール袋に入ったカギが出てきた。
「ビンゴ」
アタシは梅野を振り返ってニンマリ笑った。梅野は手に持っていた何かをポケットに戻した。それはあまり良いことには使われない――率直に言えばピッキング用の工具に見えたけど、何故にそんなものを持っているのかは追求はしないことにした。
ビニール袋からカギを出して鍵穴に差し込んだ。
カチリという音を立ててロックは外れた。ドアの中に身体を滑り込ませた。狭い三和土で靴を脱いで上がり込んだ。後ろで梅野がドアのカギとチェーンロックをかけた。
一瞬、迷ったけれど廊下の灯りを点けた。
三和土には見覚えのある靴があった。ダークブラウンのローファー。ウチの学校の通学用の靴だ。
ローファーを手に取ってみた。サイズはアタシと同じ二十五・五センチ。名前こそ書いてないけれど由真のものに間違いなかった。
華奢な体つきにしては足が大きいのが、由真の自分の身体に関する数少ないコンプレックスで、それは何故か彼女がアタシにひた隠しにしていたことだった。ある時、アタシが間違えて由真の靴を履いてしまったことで結局はバレてしまったのだけれど、その後、盛大にむくれる彼女を宥めるのが大仕事だったことを思い出した。
「真奈さん、何がそんなに可笑しいんすか?」
「――えっ?」
梅野は不思議そうな顔をしていた。
アタシは思い出し笑いをしていたようだった。
「あ、いや、何でもないですよ」
「そうっすか。真奈さんがそんなに優しい顔してるの、何か初めて見たような気がするんすけど」
梅野はアタシが邪魔で三和土に突っ立ったままだった。後ずさりして梅野が上がるスペースを空けてやった。
「アタシ、そんなに怖い顔してました?」
「怖くはないっすけど、ずっと眉間に縦皺が寄ってたっすから。そのうち、頭蓋骨まで縦皺が寄りそうでしたよ」
「あ、ひどーい、それ。女の子に言うことじゃないですよ」
「すんません。でも俺、真奈さんは笑ってるほうが……」
言葉の最後はよく聞き取れなかった。聞き返そうかと思ったけれど、ソッポを向いた梅野の耳が真っ赤になっているのに気がついた。
住居不法侵入というれっきとした犯罪行為の真っ最中にラブコメの真似事などやっている場合ではなかった。でも、アタシと梅野はしばらくお互いの顔を見合わせてぎこちない微笑を浮かべていた。
とは言え、いつまでもラブコメを続けているわけにもいかないので、アタシはかなり不自然な咳払いをして梅野から顔を逸らした。頬が熱くなっていたけれど不十分な照明のおかげで気付かれてはいないようだった。
手分けして室内の捜索に取り掛かった。
ワンルーム・マンションにしては珍しく廊下にはバスルームだけで、キッチンは奥の部屋の中にあるようだった。梅野は奥の部屋を、アタシはバスルームの中を覗いてみることにした。
中は脱衣所とユニットバスという構成になっていて、洗濯機はベランダじゃなくて脱衣所と同じ室内にあった。おかげでかなり手狭だったけれど、短い期間を一人で暮らすのなら何とか我慢できないことはなさそうだった。
洗面台の棚には洗顔クリームや化粧水などの小瓶、ヘアブラシとスタイリング剤、コンタクトレンズの保存液が並んでいた。由真は恐ろしく視力が悪い。裸眼ではアタシと高橋拓哉の区別もつかないはずだ。
プラスチックのコップには歯ブラシが一本だけ立ててあった。それが二本じゃなかったことにアタシは何故だかホッとしていた。
洗濯機は乾燥機を兼ねているタイプで、開けてみると湿っぽさと洗剤のニオイが混じった空気が立ち昇った。中には洗濯された衣服や下着が入っていた。ウチに泊まりにきたときに着ていた服も中にあった。
ユニットバスにはシャンプーとリンス、ボディソープといったごく普通のもの以外には特に注意を引くようなものは見当たらなかった。
奥は京間の十二畳程度の広さのフローリングの部屋になっていた。
梅野はその真ん中の床に座り込んでノートパソコンを開いていた。由真が学校に持ってくるリンゴのマーク入りとは違う”Dell”というロゴの入ったものだ。
「何かありましたか?」
梅野は画面から目を離さずに訊いた。
パソコンを使う人たちがよくやる仕草なのだけれど、相手にしてもらっていないような気がするのであまり好きではない。アタシは「特に何もなかった」と答えた。
梅野はパソコンに集中しているので、アタシはその間、室内を見回していた。
家具と呼べるもはなくて、梅野がノートパソコンを載せている小さな卓袱台と空気を入れて膨らませて使うマットレスくらいだった。布団は敷きっぱなしではなくマットレスの上に畳んで置いてあった。
窓際のカーテンレールには梅野が外から見つけたウチの学校の夏服のブラウスが下がっていた。襟元に結ぶ細いリボンも一緒にしてあった。隣にはチェックのプリーツスカートも下がっている。彼女の愛用のバーバリーのトートバッグは通学用のカバンと一緒に部屋の隅に置いてあった。まるで明日、学校に行くための準備をしていたかのようだった。
他の服は作り付けの小さなクローゼットにずらりとぶら下げてあった。ちょっと地味めなセレクトではあったけれど、どれも由真の衣服のようだった。中にはアタシの家に泊まりにきたときに着ていたワンピースもあった。
梅野はまだ、パソコンと格闘していた。アタシはテーブルの脇にあった屑籠を覗いてみた。
財布の整理をしたらしくてレシートがいっぱい捨ててあったので、拾い上げてテーブルに広げてみた。
大半はコンビニエンス・ストアやスーパー・マーケットのレシートで、食事は弁当やお惣菜で済ませていたようだった。壁際には申し訳程度のキッチンがあるけれど、料理をしていたような形跡は見当たらなかった。まあ、由真の場合は最新式のシステム・キッチンがあったってやらないだろうけど。
一緒にビールやワインも買っていたようだけれど、それには目を瞑っておいてあげることにした。
他にもドラッグ・ストアのものや本屋のものなどがあったけれど、特に何かが分かるようなものはなかった。
それらを屑籠に戻そうとした。中に一枚、拾いそこなっていたものがあった。
駐車場の精算機から出される幅の広い紙テープのような代物だった。アタシはそれを手に取って内容を読んだ。
「――あれっ?」
思わず大きな声を出した。梅野が画面から視線を上げた。
「どうしました?」
「いえ……ちょっと見てくださいよ」
アタシは梅野に手にしていたレシートを見せた。
「えー、何すか、コレ。駐車場のっすね。久留米中央パーキング――って、久留米?」
梅野が驚くのも無理はなかった。
久留米市は福岡市からだとクルマで一時間ちょっとかかる県南の市だ。
福岡県は大きく分けると福岡地方、北九州地方、筑豊地方、筑後地方に分けることが出来るのだけれど(天気予報もそういう分け方だ)久留米は筑後地方の中心都市になる。県外の人に説明するときには松田聖子や藤井フミヤの出身地と言ったほうが通りが良い。実はアタシの父親の出身地だったりもする。
「何で由真がこんなものを持ってたんですかね」
「お金は由真さんが、クルマは高橋が出してたんでしょ。二人で久留米に行ったんじゃないっすか」
「何をしに?」
「さぁ……。豚骨ラーメンを食べに、じゃないっすよね」
確かに久留米市は豚骨ラーメン発祥の地と言われていて、国道沿いにはトラックの運転手が立ち寄る全国的に有名な店もある。アタシもずいぶん前に父親に連れて行かれたことがある。
ただし由真はあまりラーメンが好きではない。
「日付はいつになってます?」
「七月二十九日っすね。午後六時二十七分に出庫。入庫時間は書いてないっすね」
アタシはケイタイのディスプレイのカレンダーを七月に切り替えた。二十九日は――給料日明けの金曜日。
警固公園でコスプレ中の二人と出くわした日だった。二人が熊谷幹夫の事務所からMOディスクを盗み出した日でもある。
「その日、久留米で何かやってたんですかね。二人が――て言うか、どっちかが行きたがるような」
「または久留米で何かやらかしたのかも知れないっすね」
「やらかした? 何を?」
「それは分かんないっすけどね。あとで新聞社のデータベースにアクセスしてみますよ。何か分かるかも知れないっすからね」
「そのパソコンじゃダメなんですか?」
「残念ながら、パスワードが設定されてるんで起動できないんすよ。ウチに帰ればパスワード解析ソフトがあるんすけど」
梅野はアタシの顔を見ていた。このノートパソコンを持ち出すことに同意を求めているのだった。
アタシは持ち主ではないので同意する権利も由真のプライバシーを覗く権利もないのだけれど、それを言ったらこうやって部屋に侵入していること自体がすでに彼女のプライバシーを侵害しているのだった。心の中で謝ってからアタシは梅野に頷いて見せた。
梅野はパソコンの電源を切って繋がっていたコード類を取り外し始めた。
アタシはその間にも部屋の中を物色した。トートバッグはそのまま持っていくことにした。通学カバンのほうは教科書や参考書ばかりなので置いていくことにした。
何か目的があっての家捜しではないので、手掛かりになりそうなものの見当もつかなかった。それ以上はここを漁っても無駄だと諦めて、アタシは部屋の中をぐるりと見渡した。
仮の住まいとは言え、由真の部屋に上がったのが初めてだったことに、アタシは今ごろになって気づいていた。その初めての来訪がこんな形なのが、少しだけ残念に思えた。
「真奈さん、何かこれ入れていけそうな袋、ないっすかね?」
梅野はパソコンの本体と周辺機器を抱えていた。晴れていればともかく、雨の中を精密機械をむき出しにして歩くのはあまりよくないだろう。
しかし入れていけそうな袋は見当たらなかった。やむを得ずトートバッグの隙間に押し込んだ。あとで型崩れしたといって由真に責められるだろうか。
「行きましょうか」
「オーケー、長居は無用っすね」
アタシはトートバッグを抱えて立ち上がった。灯りを消して廊下に出た。
その時、ピンポーンという軽やかな音が鳴った。
何が起こったのかすぐには分からなかった。次の瞬間、それがこの部屋の呼び鈴のチャイムの音だということが頭に染み込んできた。