「あ〜あ、パンツまでビショビショっすよ」
梅野は自分の部屋に入るなり盛大にぼやいた。
徳永祐輔を見送った後、アタシは大急ぎで由真の部屋に戻った。
トートバッグの中のノートパソコンを濡らさないように体で庇う格好で立っていたらしく、またベランダが狭かったせいもあって、背中は雨ざらしの状態になっていたのだ。
アタシの部屋ならともかく、由真の部屋に梅野のサイズに合う着替えなどあるはずもなかった。やむを得ずタオルで拭けるところは全部拭いて、急いで梅野の自宅まで戻ってきたというわけだ。
「ホント、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
アタシはあまりの申し訳なさに慣れない上目づかいで梅野を見た。梅野はバスタオルで髪を拭きながらアタシのほうをジッと見つめていた。
「……すんません、着替えるんであっち向いててもらっていいっすか?」
アタシは慌てて後ろを向いた。この男の裸は合宿のときの宴会でも見ているけれど、二人っきりの今とはまるで状況が違う。
ゴソゴソと服を着替える音がした。しばらくして梅野は「いいっすよ」と言った。
胸に音符の意匠をあしらったブルーノートのTシャツと短パンという格好だった。梅野はすぐ戻りますと言って濡れた服を持って出て行こうとした。
「あの……先にお風呂、入ってきたほうがいいんじゃないですか? アタシだったらその間、待ってますから」
「いや、今はそっちのほうが先でしょ」
梅野は顎をしゃくった。その先には持ち帰ったノートパソコンが置いてあった。
「でも、風邪ひいちゃいますよ」
「大丈夫っすよ。オレも早いとこ、そのコンピュータをどうにかしたいし」
「……そうですか?」
「それにウチの風呂、溜めるのに時間がかかるんすよ。後でゆっくり入らせてもらいますから。何なら一緒に入りますか?」
「えっ……?」
アタシは思わず絶句した。梅野はそれを見てニヤリとからかうような笑みを見せた。
「いや、冗談すっよ。コーヒー、淹れてきますから、待っててください」
軽やかな足取りで部屋を出て行った。
梅野の恋愛経験がどの程度のものかは知らないけれど、アタシより二歳年上ということはその分だけは人生経験も長いわけだ。アタシは自分がからかわれたことに腹立たしいような、それでいてむず痒いような奇妙な思いを味わっていた。
廊下のほうを見ながら「調子に乗るな!!」とでも言ってやるべきなのだろうかと思った。でも、どんな顔でそう言えばいいのかなど経験不足のアタシには分かるはずもなかった。
コンピュータに設定されているアドミニストレータ用のパスワードを解析する作業(梅野がそう言ったのだ。アタシには意味がよく分からない)はものの二分程度で終わった。側面のドライブに梅野の想像以上に乱雑な字で”解析”と書いてあるCD‐ROMを挿入して電源を入れただけだ。
「……こんな簡単に外せるんだったら、パスワードなんて意味ないんじゃないですか?」
アタシはマグカップのコーヒーを啜りながら言った。
「パスワード次第っすけどね。十五文字以上になると解析率は相当に落ちるそうっすけど。ま、それでも人間の作ったものっすから、完璧はないんすよ」
「だったら、梅野さんにアタシのパソコン、触らせないようにしなきゃ」
「それはコンピュータを扱えるようになってからの話っすよねー。あ、開いた」
画面が切り替わって”Windows 2000 Professional”というロゴマークが表示された。梅野は短くヒュウと口笛を吹いた。
「由真さんって通なんですね。最近はみんなXPばっかりっすけど、ホントはコイツのほうが安定感があっていいんすよね」
「なるほど」
何のことだかサッパリ分からないけど適当に相槌を打った。そして気がついた。
「コレ、由真のパソコンじゃないですよ。あの子、リンゴのマークのしか持ってないし」
「じゃあ、コレは高橋のなんすかね」
梅野は画面のアイコンの中から”Outlook Express”をクリックした。
画面が切り替わって受信トレイという画面が表示された。
「中は空っぽっすね。削除済みも空か」
「……どういうことなんですか?」
「メールがないってことっす。このノートで受信してないか、またはその都度削除してあるか。どっちにしてもメールの手掛かりはないってことっす」
梅野は次に”マイドキュメントへのショートカット”というのを開いた。由真と高橋が二人で映っている写真が何枚かあるくらいで、こっちも中はほぼ空っぽだった。日記やら手紙のようなもの、そして何よりあの脅迫の動画メールの原本があることを期待していたアタシは大きく落胆した。
画面には他に”ごみ箱”と”Internet Explorer”、そして”テレビ”というアイコンがあるだけだった。
「これで由真は何やってたんだろ。テレビ見てただけなんですかね」
「いえ、あの部屋にはLANケーブル用のモジュールが来てましたから、ネットしてたんだと思いますよ。人のことは言えませんけど、ネット中毒患者っていうのは一日たりともネットに繋がらずにはいられないんすよ」
梅野は”Internet Explorer”をクリックした。
開いた画面は真っ白で、インターネットに繋がっていないことを示すエラー・メッセージが表示されただけだった。
画面上部の”履歴”を押すと画面の左側に小さな別の画面が出てきた。
その小窓にはずらりとホームページのアドレスが並んでいた。
「これで由真さんが何を見てたか分かりますよ」
「でも、そんなものが分かってもどうにもならないんじゃないですか? 由真のホームページでもあれば別ですけど」
「ま、見ててください」
梅野はマウスを操作して次々にページを切り替えていった。画面はずっとエラーメッセージのままだったけれど、梅野が見ているのは上の方にある”アドレス”のところだった。
「――やっぱりね。見つけましたよ。由真さんのブログ」
「ブログ?」
インターネット上に日記を書く、簡易版のホームページのようなものだと梅野は説明した。
そういうものがあることくらいはアタシだって知っていた。わざわざ他人様に見えるところで日記を書くことが理解出来なかっただけだ。というより生まれてこの方、三日以上の日記を続けられた試しのないアタシには、日記を書けること自体が理解できないのだけれど。
「由真はその――ブログに日記を書いてたんですか?」
「そうみたいっすね。履歴にブログ・サービスの会社のアドレスが残ってますから。まぁ、日記とは限らないんすけど」
「だって、アタシにはそんなこと話したこともないですよ」
「そりゃそうでしょ。真奈さん、知り合いが見てるって分かってて本音書けます?」
知り合いはダメでも赤の他人ならオーケー、という基準もアタシの理解の範疇を越えていたけれど、そんなことを言っても始まらなかった。
梅野はレポートパッドを持ってきて画面のアドレスを書き写し始めた。
電子カルテのときにはファイルの大きさを示す数字だけだったので気づかなかったけど、梅野は相当な悪筆だった。
特に”e”と”a”はまるで判別出来なかったけれど、本人には何と書いてあるのかちゃんと分かっているらしい。悪筆の人間というのはそういうもので、実はアタシの亡き母親がそうだった。ただし彼らは他人の悪筆は口を極めて糾弾するという悪癖を兼ね備えていることが多い。
そんな馬鹿なことを考えているうちに梅野は目ぼしいアドレスを写し終えた。周辺機器で要塞のようなデスクトップの前に座ってコンピュータを立ち上げた。アタシは昨日の梅野のように、立ったままで横からその画面を覗き込んだ。
アドレスを打ち込むと画面が変わった。
一番上にブーケを持ったウェディングドレス姿の女性のシルエットが淡いピンクのバックに映える絵が表示されていて、その下に文章が書き並べられている形式のようだった。
「――ビンゴ」
梅野が言った。アタシは身を乗り出した。
「これが?」
「ええ。ブログタイトル、見てくださいよ。”お気に入り”にも入ってましたけど、コレってB’zのシングルのタイトルっすよね?」
梅野は画面の左上を指差した。そこには絵に重なるように白抜きの文字で”love me,I love you”と書いてあった。
由真のお気に入りのノリのいいポップナンバーだ。
「これってどうやって見るんですか!?」
アタシは思わず身を乗り出していた。梅野はニヤリと意味深な笑みを浮かべると、おもむろに椅子を引いて立ち上がった。
「じゃ、真奈さんが見てる間に俺は風呂に入ってきますから。あとヨロシク」
「ええっ? 梅野さん、動かしてくれんじゃないんですか?」
「こんなの自分でやれますって。というか、それくらい出来るようになりましょうよ」
梅野はアタシを椅子に座らせると、異議などお構いなしにブログの機能の操作法の説明を始めた。アタシはそれを何とか頭に叩き込んだ。
「ホントに自分でやるんですか? パソコン壊しても知りませんよ」
「そんなので壊せる人がいたら見てみたいっすよ。あ、オレ意外と長風呂なんでゆっくり見てていいっすよ。でも、あんまりヘンなフォルダを開かないでくださいね」
「どうしてですか?」
「ウブな女子高生には刺激が強いものが入ってるからですよ。――いてえっ!!」
アタシは梅野の脇腹を小突いていた。
「……さっさと入ってきてください」
「ハイハイ」
梅野は脇を押さえて、ごゆっくりどうぞと言い残して出て行った。
おどけていても、自分が傍にいては読みにくいと気を使ってのことだろう。梅野が席を外してくれたのは確かにありがたかった。アタシは心の中で礼を言って画面に向き直った。
梅野の説明ではブログは最新の記事が一番先頭に来るようになっている。逆に辿っていくよりは、書かれた順に読んだほうが意味が通るだろう。
画面の横の”アーカイブ”という欄には二〇〇五年六月までしか表示がなかった。アタシはそこまで遡った。
割と筆まめな由真でも毎日書いていたわけではないようで、六月のカレンダーは虫食いのように下線のある日とない日が混在していた。
一番古い記事は誰かに語りかけるような文面から始まっていた。二〇〇五年六月十四日。
はじめまして。って、誰に言ってるのかわかんないけど。
とにかくはじめまして。
誰にも言えないことが多いけど、誰かに聞いて(読んで?)ほしくって。
それでブログを始めてみることにしました。
コメ欄もトラバもないけど、誰かが来て、読んでくれてればそれでいいから。
じゃ、また。
耳の奥で由真の声が甦るような奇妙な感覚に囚われていた。コメ欄だとかトラバの意味はまるで分からなかったけど、おそらくブログの用語なのだろう。
次の記事に進んだ。二〇〇五年六月十七日。
今日はあたしの誕生日。十七歳。またひとつ歳をとった、なんてね。
マナ(あたしの親友)が、プレゼントをくれた。
なんと、薩摩切子のタンブラー。わざわざ取り寄せてくれたらしい。
手の込んだ細工で、光が当たるとすっごくキレイ。
けど……けどね?
そりゃ確かに、あたしはお酒が好きだと言ったよ?
だからって、こんなあからさまなのは、ねぇ。一応、未成年なんだし。
だいたい、どこに置いとけっちゅうねん……。
でも、ホントはうれしいんだよ、マナ。って見てないか(笑)。
七月二十二日は楽しみにしててね〜!!
「……二十三日だっつーの。アタシが間違えると怒るくせに」
アタシは呟いた。
プレゼントは相当悩んだ挙句、最終的には勢いで選んでしまったものだった。
友達が少ないせいでプレゼントをあげたり貰ったりした経験の少ないアタシは、何をあげればいいものかまるで見当がつかなかったのだ。アクセサリや服は今更という感じだったし、アタシの趣味で選んだものは由真には似合いそうになかった。
花瓶や小鉢にせずに酒器を選んだのは……まあ、多少の皮肉を込めてのことだけれど。
次の記事はその翌日、高橋からもらったプレゼント(ガムランボールとかいうバリ島のお守り)のことが、それはご大層に――ほとんどノロケに近い言葉で綴られていた。
高橋の周囲の人たちから、由真と高橋が付き合っている(らしい)ことは聞かされていた。
二人が付き合っていようがいまいが、アタシがとやかくいうことではないのは分かっている。
それでも改めて由真自身の言葉でそれを知らされると、アタシは「良かったね」と言ってあげたくなるような想いと「話してくれれば良かったのに」という一人取り残されたような寂しさで何ともいえない気分だった。
気を取り直してブログを読み進めた。内容はどれも由真の日常を扱ったもので、学校での話、好きな音楽の話、その日に感じたことなどだった。
知っている話もあればそうでないものもあった。知らないのはほとんどは高橋絡みの話で、二人でどこそこへ行っただとか、何を食べただとか、そういう内容だった。
文中で由真は人名は大半が実名を略した形で書いていた。高橋のことは”タク”と記していた。アタシの名前がそのままなのは、単に二文字で略しようがなかったからだろう。
登場人物は大勢いて、誰か見当がつく人もいれば誰のことだか分からない人もいた。
タクとマナ(アタシ)以外に頻繁に登場するのはメグ、アキ、ケイの三人で、これは由真の中学からの友人たち(恵、千明、慶子)のことのようだった。ユキというのが三村美幸のことかどうかははっきりしなかった。
家族は名前じゃなくてパパ、ママで何故か徳永祐輔だけがアニキだった。熊谷と思しき人物は出てきていなかった。実名で登場するのはただ一人、B’zのヴォーカリスト、稲葉浩志だけだった。
アタシはタクとのノロケのところだけ斜めに読み飛ばしながら記事を進めた。ほぼ一日おきくらいで記事は書き連ねられていた。
そして突然、それまでとは雰囲気の違う記事が出てきた。二〇〇五年六月三十日。
記事はたった一行だった。
――ママが、人を殺した。信じたくない。でも、事実だ。
アタシが由真のブログを読んでいるのは決して覗き趣味ではなくて――そういう側面も否定は出来ないけど――彼女を見つける手掛かりを捜してのことだった。
それでも、来るべきものが来たことにアタシは思わず息を呑んだ。
翌日、二〇〇五年七月一日。
なぜ、こんなことになっちゃったんだろう。
アニキは苦しんでる。
そりゃそうだろう。もとはといえば、悪いのはアニキ。
でも、それだけじゃない。
アニキがしたことを、隠そうとしたママ。
それに反対しなかったパパ。
それを手伝った人たち。
自分のやったことから顔をそむけて、なかったコトだと思い込もうとしてる。
そして、このことを聞かなかったことにすれば。忘れることにすれば。
あたしもその一人。
それがイヤってわけじゃない。
バカなアニキを。愚かなママを。警察に突き出したりしたくない。
死んじゃった人ちには悪いけど、このまま、このまま消えてってくれれば。
でも、それでいいのかな……?
二日後、二〇〇五年七月三日。
朝、起きたらアニキが玄関で寝てた。
すごいニオイがした。汗とアルコールの混じったニオイ。
こんなのは初めて。もともと、そんなに飲めないのに。
眠ってるのに、眉間に深いシワが寄ってる。
そんなに、苦しいの……?
なんとか寝かしつけて、タクと約束してたマリンワールドへ行った。
楽しみにしてたのに、ぜんぜん楽しくなかった。
イライラして、ついついケンカ。
タクには悪いことしちゃったな……。ゴメン。
二〇〇五年七月四日の記事には、久しぶりにアタシが登場していた。期末テストの直前で、アタシがいつものように由真を拝み倒してノートを借りた話だった。
この日はその後、二人で天神地下街に買い物に行っている。記事の後半では欲しい物はないかと訊かれて普通に「現金」と答えたアタシの十七歳の乙女とは思えない夢のなさがネタにされていた。
誕生日のプレゼントの探りとはまったく気づいていなかったのだけれど、由真が憤慨していた様子が垣間見えた。
苦笑しかけて、前の記事とのギャップの痛々しさに思わず黙り込んだ。
二日おいて、二〇〇五年七月七日。
サイアク。
この何日か、アニキはボロボロだ。
ママは相変わらず、何もなかったことにするつもりのようだ。
アタシがアニキの部屋の電話を盗み聞きしているのは、バレてない。
だから、二人は平気ですごいことを言う。
アニキは(多分、アタシを気にして)押し殺した声で。
ママはヒステリー丸出しの声で。
最後はいつも同じ結論になる。今さら、どうすることも出来ない。
だから、電話が終わるとアニキは泣いてる。
これ以上、見ていられないよ。
そして、それからしばらくの間、記事は書かれていなかった。
話の流れからすればこの後、由真は母親にすべてを明らかにするように迫って激しく言い争いをしている。そして、徳永祐輔に殴られて家を飛び出し、三村美幸の家に身をよせたのだ。
このブログがいくら由真の心の内を綴ったものだとしても、そんな精神状態で文章など書けるはずもなかった。
ブログが再開されたのは七月十六日だった。陰鬱な書き出しだろうなという予想を裏切って、文章はずいぶんと軽い調子で始まっていた。
今日から新居での生活で〜す!!
……って、賃貸なんだけどね。ウィークリー・マンションってやつ。
一人暮らしに憧れはずっとあったんだけど、いざやるとホント大変。
さっきから「あー、あれがない!!」とか、そんなのばっかり。
実はちょっとキレ気味(笑)
今まで、いかに家のことを何にもやってなかったか。
こうなってみて初めて分かるんだよねー(涙)。後悔しても遅いんだけど。
明日からガンバロウっと。
徳永祐輔が見せてくれた管理会社の請求書ではこの日がマンションの入居日になっていた。翌日、二〇〇五年七月十七日。
学校まで時間がかかるから、今日は早起き。
って言うか、あんまり眠れなかったので、すっごく眠たかった。
デリケートなのだよ、あたしは。
マナの授業中に居眠りをよく注意するけど、今はその気持ちがわかる。
ごめんね、マナ(笑)
一日置いて、二〇〇五年七月十九日。
一学期、やっと終わったー!!
明日から夏休み。これでゆっくり寝られる(笑)
今日はマンションに帰って、晩ごはんの買い出しに行った。
いろいろとやってくれたタクへのお礼に、手料理を作ったのだ。
もちろん、初めてのこと。家庭科実習はマナに任せっぱなしだし。
作るのはハンバーグとポテトサラダ。
レシピどおりに材料を切って、混ぜ合わせて、焼いて……。
出来たのは黒焦げの肉団子と、ベチャベチャのお芋のカタマリ。
泣きそうになった。
タクが見たら、大丈夫だよと言いながら、食べてくれたに違いない。
そして、目を白黒させながら、オイシイって言ってくれただろう。
でも、おなか壊させたら悪いんで、急いで片付けた。
マナへの弟子入り、本気で考えたほうがいいのかも……。
「まったく、何やってんだか……」
アタシは呟いた。由真がキッチンで奮闘しているところを想像すると吹き出しそうになった。
文面だけ見ると一連の出来事のショックはかなりやわらいでいるようだった。長期滞在用の部屋を借りて念願の一人暮らし気分を味わってる受験生のようにも見える。
でも本当はこの頃、由真はこれから自分がやろうとしていることや自分が置いてきたもの、捨ててきたものへの想いで一杯だったはずだ。お気楽な文章の裏側にそういう葛藤があったのだと思うと、頬が緩むのと同時に胸が潰れるようだった。
画面をスクロールさせると、その記事の枠の下に同じ日に書かれた別の記事が表示されていた。
タクへ。
多分、このブログを見てると思うんで、この場を借りて。
ありがとう。
最初に会ってから、今日でちょうど三年になるんだね。
男友だちのその友だちっていう、ホントに微妙なポジション(笑)
最初はお互いにクチもきかなかったね。
初めて二人で話したのは、大濠公園の花火大会でみんなとはぐれた時。
アタシはベロンベロンに酔ってたっけ。
家のことで自棄になってたあたしに、コンコンとお説教をしたあなた。
ホントのこと言うと「うるさいな、このヤロウ」って思ってた。
どうせ口だけのくせに。いざとなったらあたしを置いて逃げ出すくせにって。
でも、あのとき、あなたは逃げなかったね。
あなたの体には、あたしをかばって殴られたキズが残ってる。
そのことを思うたびに、あたしは心苦しさと申し訳なさでいっぱいになる。
ゴメンね。そして、ありがとう。
これからもよろしくね。
大好きだよ。
三年前といえば由真は(もちろんアタシも)中学二年生だった。そのころ彼女は自分の出生の問題から両親に反発してグレていたはずだ。
由真の言う”あのとき”がいつなのかは抽象的な書き方のせいでよく分からなかったけど、高橋は由真を守るために体を張ったことがあるようだった。
アタシは高橋と話したときのことを思い起こした。
相手の顔色を伺うような気弱さと自分の考えを曲げようとしない傲慢さがせめぎあっているような、率直に言ってあまり好きにはなれないタイプの男だった。ただ、由真に対する気持ちにだけは一切のウソや打算、駆け引きはないように見えた。おそらくはそれがアタシがこの皮肉屋のオタク男を心のどこかで認めている部分だった。
痕が残るような傷を負ってまで高橋は由真を庇った。
そして今、彼は重傷を負わされて死線を彷徨ったにも関わらず、動かないはずの身体に鞭打って病院を抜け出している。
何かをするために――おそらく由真を守るために。彼女の想いを遂げる手助けをするために。
陳腐な言い回しを承知で言えば、叩きのめされても立ち上がることをやめないハードボイルド小説のヒーローのように。
アタシは先を読み進めた。
二日挟んだ二〇〇五年七月二十二日の記事はまだ明るい感じの文章だった。
マナの誕生日のプレゼントを買いに行った。
正直、なにを送っていいのか見当がつかない。趣味が違いすぎるし。
気持ちがこもってればそれでいいんだろうけど、それにしても……。
結局、自分の趣味で選んだのは【ピエヌ】をセットで一式。
だってマナはいつもノーメイク。化粧映えする顔立ちなんだけどなぁ。
喜ぶかどうか分かんないけど、それはタンブラーのお返しってことで(笑)
とりあえず、この夏、一回は絶対にメイクさせてやる〜!!
追記。マナはすっごく(笑)よろこんでくれました!!
アタシはそのときのことを思い出して、思わず苦笑いを浮かべた。
誕生日前の数日、やたら由真がアタシの顔に触るのでおかしいなとは思っていたのだ。案の定「はい、プレゼント!!」という笑い混じりの声と完全に笑いに崩れたニヤニヤ顔で手渡されたのは、資生堂の紙袋に入ったその一式だった。
その日の午後、補講のあとに由真の手で、アタシは生まれて初めてと言っていい本格的なメイクを施された。
鏡に映った自分の顔はまるで別人のようだった。
写真を撮りたがる由真から何とか逃れようとしたのだけれど、結局は妙に硬い表情でカメラに収まる羽目になってしまった。アタシにも一枚あげると言われたけれど、それは断固として断った。
二日飛ばして、二〇〇五年七月二十四日。記事のトーンはまた暗いものになっていた。
今日、タクと二人でこれからのことを話した。
あたしがやろうとしていることに、賛成はしてくれないだろうな、と思ってた。
でも、まさか、引っ叩かれるとは思わなかった。
……タクなんか、大っ嫌い。
翌日、二〇〇五年七月二十六日。この日からしばらくは毎日、更新されているようだった。
タクとケンカして三日目。
このまま、仲直りできないほうがいいんじゃないかなって思う。
アタシがやろうとしてることは、間違いなく犯罪だから。
それにタクを巻き込むわけにはいかない。
これまでにやってもらったことは、あたしがやらせたってことにすればいい。
これからは、あたし一人でやる。
二〇〇五年七月二十七日。
タクがマンションに来ていた。頼んでたソフトを手に入れてくれたのだ。
受け取るだけ受け取って、具合が悪いからって帰ってもらった。
ホント、あたしってひどい女だ。
このソフトは、あたしの計画にはどうしても必要なもの。
これなしには、あれが狙っているものなのかどうか、分からない。
これで準備は整った。
あとは実行のタイミングを図るだけ。
ありがと、タク。でも、これでサヨナラ。
ホントに大好きだったよ。
二〇〇五年七月二十八日。
「さよならを言うのは、少しの間、死ぬことだ」
昔、アニキの部屋にあった小説にそう書いてあった。
ホントにそうなんだなって思う。
ウサ晴らしって言ったら悪いけど、今日はマナと天神でデート。
久しぶりに彼女を引っ張り回して大騒ぎ。
あー、何でマナといるとこんなに楽しいんだろ。
彼女も、自分のお父さんのこととか、いろんな問題を抱えてる。
だからかな、マナは人を寄せ付けないし、自分からも人に近づかない。
本当は優しいし、強いし、でも、ものすごい寂しがり屋。
多分、マナちはあたしの保護者気取りなんだろうけど、あたしだって同じ。
二人でいると、自然な感じがする。
割れたお皿の断面がピッタリ合うような、っていったら言い過ぎかな。
あ〜あ、マナが男の子だったらよかったのに。
って、あたしってヘンタイ?(笑)
いくら親友といっても、自分のことを語られるのはひどく気恥ずかしいものだった。
ただ、アタシのことを書くときだけ由真の文章が明るくなるのは、嬉しくもあるけどつらかった。彼女がそれだけアタシに隠し事をしていた証拠だからだ。
アタシは思わずため息を洩らした。