アタシはそこまでで一旦、休憩することにした。
画面を眺め続けるのに慣れていないので目が痛かったし、この先を読み進める前に気持ちを落ち着かせたかったのだ。
すっかりぬるくなってしまったコーヒーを啜った。
マグカップを持ったまま、アタシはベランダに出た。
トタン屋根が大きく張り出しているので足元はほとんど濡れていない。錆びついた手すりの上にカップを置いて大きく伸びをした。
雨はすっかり上がっていて雲は薄くなり始めていた。
月明かりと言うには少し弱い光がバイクショップのバックヤードに降り注いでいる。梅野の家は一階がショップと作業場、二階が住居になっている。街中にしては広い庭の隅に手作りっぽい不恰好な犬小屋があって、真夏だというのに羊のように毛むくじゃらの大型犬が寝そべっている。
階下のドアが開く音がして、トランクスを履いただけの梅野が姿を現した。
手にはエサの入ったドンブリの様な皿を持っていた。口笛を吹くと犬がムクリと体を起こした。それでもエサを持った飼い主に向かっていくような素振りは見せない。定位置まで持ってこいと言わんばかりに小屋の前にどっかりと座り込んだ。
梅野はエサの皿を犬の前に置くとタバコを咥えて火をつけた。暗がりの中で火口の赤い光が浮かび上がっているように見える。
アタシの気配を感じたのか、梅野は顔を上げた。
「ああ、お疲れさまっす。どうっすか?」
「まだ途中までです。なんだか字ばっかりで読むのに疲れちゃって」
「慣れないと、ずーっと画面見てるのってキツイっすもんね。一服したら、上がりますから」
梅野はタバコを掲げて見せた。アタシはごゆっくりと答えた。
部屋に戻ってデスクトップの前に腰を下ろした。マウスを操作して、七月二十九日――警固公園で二人に出くわした日の記事を表示した。
どうしよう。
なんで、マナがあんなところにいるの?
バイトって言ってたけど……。ウカツだった。西通りってことは知ってたのに。
タクのことも見られたし、どうやってごまかそう。
まったく、一番大事なときにこんなことになるなんて。
あたしのバカ!!!!!
タク――高橋拓哉とはケンカしていて彼とはもうサヨナラだと言っていたのに、どうしてあの場に一緒にいたのかは謎だった。
日記に書かれていないところで関係修復があったのだろうか。事実、この日に二人は久留米にドライブに行っている。仲直りのためか、じっくり話し合うためのものかは分からないけど。
あの時、由真はMOディスクを手にしていた。久留米から帰ってきて熊谷の事務所から盗んできたものだろうか。その辺りのことや、素っ気ない態度で夜の街に消えていった後のことは書かれていなかった。
アタシは翌日、二〇〇五年七月三十日のところをクリックした。
自己嫌悪って言葉は、今のあたしの為にあるんだろうな。
ひどいことしちゃった。
マナ、ほんとにゴメンね。
でも今は、何も事情を話すことができないの。
ゴメン。本当にゴメン。
今となってはどうでもいいことだけれど、あの時に感じた痛みのようなものが甦った気がした。でも同じように由真も傷ついていたのだと思うと、それはすぐに薄らいで消えていった。
毎日、記事を書いているのはここまでだった。次の記事の日付は二〇〇五年八月四日になっていた。
あと一つ、どうしても分からないことがある。
オリジナルの隠し場所だ。
これをどうにかしない限り、あたしの計画はうまくいかない。
可能性は三つ。
事務所――これはないと思う。スタッフの誰かが持ち出したらアウトだから。
自宅――これは可能性はじゅうぶんにあると思う。
ただ、今のマンションへの引越しのとき、片付けを手伝ったのはあたしとママ。
夜遊びの口裏合わせのお返しに、部屋の掃除をしてあげたこともある。
そこに隠しているのなら、誰よりも見られちゃいけない相手を部屋に入れるかな?
だとすると、誰かに預けていることになるけど――ひょっとして、愛人?
でも、あたしの知る限り、あの人にそんな女の人はいない。
いったい、どこに隠しているんだろう?
「……オリジナル?」
アタシは思わず口に出した。
由真が持ち出したMOディスクに入っていたのは、主治医が徳永祐輔名義のものと村松俊二名義のものの二つの電子カルテ、そして村松俊二の遺体を撮影した画像ファイルだ。カルテのオリジナルは病院にあると考えるのが普通だろう。由真が言っているのは画像ファイルのことなのだろうか。
しかし、それにしては言っていることが辻褄が合わなかった。
まず、ここでいう”あの人”は、熊谷幹夫を指していると考えるのが妥当のように思える。
文面から考えるとそのオリジナルとやらを熊谷が隠し持っていて、由真はMOディスクだけじゃなくてそれも手に入れようとしていたように読める。
ここが意味が分からないところだ。
何故、両親と兄を脅迫するのにそんなことをする必要があるのだろうか。目的を果たすには――熊谷の言うところの怨恨を晴らすには、盗み出したファイルで十分なはずだ。
その答えは先の記事にあるかもしれない。アタシは鼓動が高鳴るのを感じながら次の記事、二〇〇五年八月六日へ進んだ。
タクのおかげで、オリジナルの場所の見当はついた。
ホント、ありがとうね。
これで全ての準備が整った。
オリジナルは誰の目にも触れないように処分する。
アイツの事務所のコンピュータは、タクが全部潰してくれる。
あとはこのMOのデータと、告発文書を新聞社に送るだけ。
それで全てが終わる。
もうすぐ苦しみから解放してあげるからね、アニキ。
頭を殴られたような衝撃。それと同時に安堵のようなものが胸のうちに広がっていく。
前の記事とあわせて読むとむしろ脅迫者は熊谷のほうで、由真はそれを阻止するために脅迫のネタを奪い返そうとしていたように見える。
あまりにも仮説的な部分が多くて事件の構図は見えない。熊谷の事務所で見た由真の動画メールもあるので軽率に断定するのはまだ早いのかもしれない。熊谷の話と食い違うところは多いけどそれが示す意味もよく分からない。
それでもアタシは腹の底に鉛の塊を飲み込んでいるような重苦しい気持ちが、少しずつでも晴れていくのを感じた。
やはり由真は脅迫者なんかじゃない。少なくとも熊谷が言ったような理由で家族に復讐しようとしているのではない。
ただ、それは同時に由真の計画が上手くいかなかったことの表れでもあった。この記事が書かれてから一週間、まだ事件が明るみに出る気配もない。由真の行方は依然として分からないし、高橋は重傷を負わされている。
まだ、何も解決などしてはいないのだ。
翌日、二〇〇五年八月七日。
今日、初めてタクとキスをした。
何故か、タクはそういうことをしたがらない。
あたしのことが嫌いなわけじゃないと思うんだけど。
いつも決まって「ボクにはキミみたいな子はもったいない」とか言う。
そんなことないのに。
あたしが自分の目的のために、タクを利用していると思われてたのかな。
ホントのことを言うと、最初はそういう部分もないわけじゃなかった。
あたしの周りで、タクくらいコンピュータに詳しい人はいないし。
でも、だからこそ、この計画にいつまでも付き合わせるわけにはいかなかった。
だから、別れる決心をした。
でも、あなたは戻ってきてくれた。最後まで付き合ってくれるって。
ゴメンね、こんなあたしに付き合わせちゃって。
タクこそあたしにはもったいないよ。
アタシは自分の口許が綻んでいるのを感じた。このまま二人のノロケ話が続けばいいのに、と柄にもないことを思っている自分に思わず苦笑した。
記事を進めた。二〇〇五年八月九日。由真が最後に書いた記事だ。
昨日、マナの家に初めてお泊まりに行った。
どうしても仲直りをしておきたくって。
マナはあんなヒドイことをしたあたしを許してくれた。
ありがとね。大好きだよ、マナ。
……あたしってやっぱりヘンタイかな?(笑)
夜、二人でいろんなことを話した。
あたしの生まれのことも。
今まで、ヘンな気を使わせるのがイヤで話してなかったけど。
一つでも多く、あたしのことを知っておいて欲しくって。
”月光”のお返しに選んでくれた、エリック・クラプトンの曲。
”チェンジ・ザ・ワールド”
あとで歌詞の意味を読んでみたけど、ステキな歌なんだね。
”I wouid be a sunlight in your universe”
間違いなく、マナはあたしの太陽だったよ。
ありがと。ホントにありがと。
もう一度、アタシは魂を吐き出すような大きなため息をついた。
何故、過去形なの?
アタシは声に出さずにそう続けた。
大声を出したくなる衝動を堪えて、椅子の背もたれに倒れこむように体を預けた。どうして彼女はこうも人の気持ちを揺さぶりたがるのだろう?
梅野が戻ってきたとき、アタシはベッドに腰を下ろして黙り込んでいた。
「……どうしたんすか?」
アタシは力なく首を振った。
アタシの表情とデスクトップの画面を交互に見渡して、どうしていいのか分からないように立ち尽くしていた梅野は、やがて意を決したように「……飲みますか?」と言った。
アタシは彼の顔を見上げて頷いた。
梅野は缶ビールとツマミになりそうなスナック菓子を持って戻ってきた。
二人とも最初は押し黙ったままで、途中からは他愛もない話をしながら、かなりのピッチで缶をカラにしていった。
アタシの話の内容はほとんど由真のことだった。
彼女が学校でやらかしたとんでもない聞き間違いのことや、授業中にアタシが居眠りをしているのをあの手この手で起こそうとする話。アタシのことを”オクテの耳年増”だと馬鹿にする割には自分だってクラスメイトの体験談に顔を赤らめていたこと。自転車にも乗れないほどドンくさいくせに何故か泳ぐのだけはアタシよりも速いこと。
梅野は時折、この男にこんな顔が出来たのかと思わせるほど優しい微笑を浮かべながらアタシの話を聞いていた。
ビールはあっという間になくなって、梅野は父親の戸棚からザ・マッカランというシングルモルト・ウィスキー(だとラベルに書いてあった)を持ち出してきた。
最初は水割りでゆっくり飲み始めたけれど、途中から面倒くさくなってロックで飲んだ。華やかな香りのするお酒で口当たりも悪くなかった。
頭の中の何処かにある凍りついたように冷たくなった部分が酔いが回るのと一緒に溶けてなくなっていくようだった。
ボトルの半分ほどを空けた頃には視界に映る梅野は輪郭も怪しくなっていた。
アタシはもつれる舌で彼の名前を呼んだけれど答えはなく、やがてそのまま闇の中へと消えていった。
気がつくと部屋の灯りは消えていた。
アタシは梅野のベッドに横たわっていた。
エアコンがつけられていて、室内はそれほど暑くはなかった。腹を冷やさないようにタオルケットをかけてくれていた。
梅野の姿はなかった。目を閉じて耳を澄ましてみた。物音はしない。
意識を失うほど酔ったのは飲み始めたばかりの頃に一度あったきりだ。
アタシは顔に手を当ててこめかみの辺りを揉み解した。まだ酔いが醒めたわけじゃないので頭痛はしない。どちらかというと、初めて男の人の家に上がったのに醜態を晒した自分への自己嫌悪だった。
全身の筋肉が弛緩しきったように体に力が入らなかった。
アタシは注意してゆっくりと体を起こした。
テーブルの上はキレイに片付けられていた。
胃薬の小袋が水の入ったグラスと一緒においてあった。起きてから飲むように梅野が用意してくれているのだろう。
アタシは胃のあたりを押さえたままでしばらくそれを眺めていた。まだ、それを手に取る気にはならなかった。
ヘッドボードに手を掛けてベッドから立ち上がった。
時計の針は午前二時を指し示していた。
窓の外からは蒼い月光が差し込んでいた。アタシはそれに誘われるようにベランダに踏み出した。
降り続いた雨で洗い流されたように空は遠くまで澄み切っていた。月が何者も寄せ付けない冷たい光を放っている。
アタシは由真のことを思った。
由真が選んでアタシのipodにダウンロードしてくれたあの曲――鬼束ちひろの「月光」を、アタシは口ずさんでいた。
”I am God's Child、この腐敗した世界に落とされた、How do I live on
such a field? こんなもののために生まれたんじゃない”
二人で遊び歩いたあの日、由真はいつものように――ひょっとしたら、いつも以上に――屈託のない笑みを浮かべていた。
――せっかく海に行くんだからステキなのにしないと。
――だいたい真奈は贅沢だよ。そんなにスタイルいいのに。
――真奈はもっとこういう格好をした方がいいよ。女の子なんだから、ね。
今日はやけにアタシを褒めるなという程度にしか思っていなかった。あるいは何か魂胆でもあるんじゃないかと。
そうではなかった。
それはなかなか他人に心を開かないアタシへの彼女からのメッセージだったのだ。もっと女の子らしくなって、もっと自分を好きになってというメッセージ。
今なら分かる。彼女はあの日、アタシに別れを告げに来たのだ。
アタシは空を見上げた。自然と涙が溢れた。
グチャグチャに歪んだ視界の中で、月がコナゴナに砕けた――。