徳永祐輔との話が長引いたので、中央区役所の斜向かいにある喫茶店に入ったときには時刻は午後三時半を少し過ぎていた。
バンディットはいつものように西通りのバイト先の裏に停めていた。そこから延々とやけくそのような日差しの下を歩いてきたせいで、ストーンスパで寝転がっているのとあまり変わらないくらいに汗をかいていた。
アタシは席につくなりアイスコーヒーを注文した。暑いときには熱いものを飲んだほうが身体には良いというし、確かに間違いではないのだけれど、それもやはり程度の問題だ。さすがのアタシもホットコーヒーを飲む気にはならなかった。
店内に流れているのはイージーリスニング風にアレンジされた「さよなら夏の日」だった。悪い冗談としか思えなかった。
ピアノの音色に耳を傾けながら、アタシは立て続けに二杯、お冷を飲み干した。
身体に染み渡っていくような感覚にようやく人心地がついたところで、昨日、トモミさんからもらったメモを引っ張り出した。濡れたジーンズに入っていたせいでクチャクチャになったそれを丁寧に広げた。
有限会社FBRが入居しているグランドハイツ大名は、四つの棟がカタカナのロ(漢字の口でもいいけど)のような形で並んで建っていて、明治通りに面した部分の一階と二階がテナントになっている。アタシがいる喫茶店はその中の一つだった。
店に入る前にアタシはマンションのロビーの様子を眺めてきていた。
ごく普通のマンションだろうな、というアタシの予想は大きく覆されていた。
福岡ではあまり見ない形態なのだけれど、グランドハイツ大名はオートロック等の防犯設備がない代わりにフロントマンが常駐しているという珍しいマンションだった。レンガを模したタイル張りのロビーは広々としていて、ちょっとした打ち合わせくらいはできそうなソファが置いてあった。ロビー内に睨みを効かせる位置や、併設されたパーキング・タワーの前にはちゃんとした警備会社のガードマンが立っている。多分、防犯カメラも設置されているのだろう。
ということは、由真が連れてこられたときにもフロントマンは見ていたわけだ。しかし、騒ぎになっているわけでもない。それは由真が特に抵抗することもなく大沢たちに着いていったことを示しているのだけれど、残念ながらこの際、何の手がかりにもならなかった。
もちろん、そのことについてフロントマンに訊いたところで何も教えてはくれないだろう。
目当ての部屋は通りから見れば奥側になる北棟の五階の端、N−五〇一号室だった。
場所柄か、マンションには一般の居住者だけじゃなくて、様々な目的の入居者――会社の事務所、ちょっとしたお店、生け花教室、古書店なんかもある――がいるようだった。下の階はむしろそっちのほうが多勢を占めているようだ。
人の出入りはとても多くて、おまけに別に入館の手続きをしている様子はなかったので中に入り込むのは簡単に思えた。ただし確実にフロントに顔を覚えられるし、警備員がいる以上は廊下での長時間の監視は難しい。
アタシは腕組みをして天井を見上げた。天井のエアコンの吹き出し口には霜がついている。そこまでしないと室内が冷えないのだ。
実際のところ十一日の未明に由真がここに連れてこられたとして、今もまだN−五〇一号室にいるかどうかはかなり怪しかった。
入居案内のパンフレットによれば上層階には2LDKや4LDKがあるけれど、八階まではすべて1DKの間取りになっている。
ここが倉庫代わりに使われているところなら由真を監禁しておくこともできるだろう。見た感じでは防音設備もしっかりしていそうだった。しかし日常的に事務所(実際に事務作業をしているかどうかは別として)として使われているのなら、そこに監禁しておくのはかなり難儀なことだとも言える。
いずれにしても中の様子を窺わないことには先には進めなかった。アタシはない知恵をしぼってその方策を考えた。
誰かを客に仕立てて訪問させるというのは良い方法のように思えた。しかし、アタシにはそんなことを頼めそうな知り合いはいないし、アポイントも取らずにいきなり訪問して調査を依頼するというのも(探偵モノの小説ではそういう場面は多いけど)かなり不自然な気がした。
考え事をしている間にアイスコーヒーが届いていた。グラスは気持ち良さそうな汗をかいていて、それはグラスの下の紙のコースターにまで滴っていた。
アタシはストローを挿して一口啜った。味はともかく冷たくて気持ちよかった。アタシがあまりアイスを飲まないのは冷やしてしまうと香りが楽しめないのと、どんな豆で淹れても同じような味になってしまうからだ。
一気に飲み干したくなる誘惑に抗ってチビチビと啜りながら、何か手がないかと考えを巡らせた。なかなか良いアイデアは浮かばなかった。
隣のテーブルではちょっと年嵩のカップルが痴話喧嘩の真っ最中だった。
本当はおとなしそうに見える男のほうが一方的にまくし立てていて、ちょっと膨れっ面の女は項垂れたままでそれを黙って聞いていた。男は隣にいるアタシのことなどお構いなしで、彼女の不品行や裏切り行為(ま、要するに浮気だ)について理路整然と詰問している。あと十分も聴いていたら二人の間に起こったことについて詳細な調査報告書が書けそうだった。
アタシは好奇心を押し殺してFBRに電話をかけてみるために席を立った。とりあえず誰かいるかを確かめるためだ。他に出来そうなことはなかった。
呼び出し音が三回鳴って、電話は繋がった。取り澄ました声の女性が出た。
「せっかくお電話いただきましたが、本日の営業は終了いたしました。御用の方は発信音の後に――」
――留守かよ。
心の中でツッコミを入れながら受話器を置いた。そういえば今日は日曜日で一般的に普通の会社は休みだった。FBRが普通の会社だとは到底思えないけど。
席に戻って、手詰まり感一杯でアイスコーヒーを飲み干して、アタシは自分が何か、見落としをしていないか考えた。
すぐに思い当たるのは二つあった。
一つは、アタシと由真たちが警固公園で出くわしたあの日、二人が久留米で何をやっていたのか。
もう一つは、熊谷幹夫とFBR――大沢や古瀬の繋がりがどういうものなのか。
前者は今から調べに行くのは難しかった。父親の故郷とはいえ土地勘があるとは言えないし、話を訊けそうな当てもないのでは空振りに終わる公算のほうが高い。そういえば梅野に当日、久留米で何かなかったかについて新聞社のデータベースを調べてもらうはずだったけど、それも由真のブログを読んだショックですっかり忘れていた。
しかも、その梅野とは未だに連絡が取れなかった。
後者については――アタシの知り合いの中では――知っていそうな人間は限られている。
それは出来れば会いたくない男だった。でも、そんなことを言っていられる状況ではなかった。
隣の痴話喧嘩はいつの間にか攻守が入れ替わっていて、女のほうが男の甲斐性のなさについて容赦のない攻撃を加えていた。男は顔を真っ赤にしながら再び反撃するチャンスを窺っていた。しかし、アタシの見る限りではそんなチャンスは訪れそうになかった。
アタシは男に心の中でエールを送って席を立った。何にせよ人生というのは厳しいものなのだろう。
「どうしたんだ、そっちから電話をくれるなんて」
村上恭吾が待ち合わせに指定したのは自宅近くだという大濠公園だった。警察に入ってすぐに中古で買った六本松のマンションに住んでいたのは知っていたけれど、離婚後もそこに独りで住んでいたのにはちょっとだけ驚いた。
ノースリーブのシャツとハーフパンツ、サンダルというラフな出で立ちだった。一見、刑事らしからぬ優男だけれど学生時代にはボクシングをやっていたと聞いている。むき出しの肩周りや胸板は筋肉でゴツゴツしていて、こういう格好をすると今でも結構やりそうな雰囲気を持っている。
時刻はそろそろ五時になろうとしていた。
とは言っても日の入りの遅い今の時期は、まだ気が焦るようなことはない。薄暗くなるのはせいぜい七時を過ぎてからだ。この時間の全国ニュースを見ると、その空の色の違いにアタシはいつも驚かされる。
風があまりなくて、じっと座っていると汗が吹き出てくるような暑さになってきた。
どちらから言うともなく歩きながら話すことにした。
悠々と水を湛えた池に浮かぶ三つの島は、橋と遊歩道で池を縦断(横断かもしれないけど)するように連なっている。水面が傾き始めた陽光を反射して微かにオレンジ色に染まり始めていた。それを横目に見ながら池の周りをブラブラと歩いた。
「アンタ、仕事じゃなかったの?」
「警官にだって休みは必要だよ。今日から三日間は非番」
「連休なの?」
「公休が貯まりまくっててね。何か問題でも?」
「だって、捜査の最中なんでしょ? 高橋拓哉は見つかってないんだし」
「あれは保護願い。積極的に捜してるわけじゃないよ」
アタシは思わず馬鹿みたいにポカンと口を開いた。すぐには言葉が出てこなかった。
「昨日、ウチに来たときには捜査継続中みたいなこと、言ってたじゃない」
「ポーズに過ぎないよ。警察はちゃんとやってますっていうね」
村上はほんの少しだけバツが悪そうに顔をしかめた。
「こっちとしても何とかしたいけど、何せ高橋自身が暴行事件について供述拒否、挙句の果ては事件性を否定してるんだ。どうしようもないじゃないか」
確かに村上の言うとおりだった。殺人事件のような重犯罪ならともかく、フクロにされた(これも立派な殺人未遂だと思うけど)というだけで専従捜査員を置くほど福岡県警は暇でも人員が余っているわけでもない。ましてや被害者本人が非協力的な態度であれば警察だって本腰など入れないだろう。
それでもアタシは呆れてモノが言えなかった。
「……冷たいのね、警察って」
「何とでも言ってくれ。で、用件は? まさか捜査の進捗状況の査察に来たわけじゃないだろう?」
「うん……ちょっとアンタに教えてほしいことがあってね」
「高橋のことで?」
「ううん、別の話だけど」
本当のことを言うなら、アタシは何か捨て台詞を残して帰りたい気分だった。警察の捜査が由真に迫るのを望んでいるわけじゃないけど、アタシの中の何処かには、警察は正義の味方で、困った人を助けてくれるのだ、という子供じみた想いがあった。
それでも訊くことは訊かなくてはならない。警察が高橋拓哉の暴行事件に興味を失くしているのを好都合――こっちのことは話さなくて良いだろうから――とムリヤリ考えることにした。
公園の中央の大きな池を周回する歩道をしばらく歩いて、美術館に近い池のほとりのベンチに腰を下ろした。
村上と並んで歩くのは久しぶりだった。昔はもっと背が高かったような気がしたけれどそんなはずはなかった。アタシの背丈が伸びているのだ。
「県警に大沢って男がいたの、知らない?」
「大沢?」
「そう。空手の国体選手だったっていう――」
「ああ、大沢先輩のことか」
村上は事も無げに言った。
「先輩?」
「ああ。同じ部署に配属になったことはないけど、一度、格技場で手合わせしたことはあるよ」
「空手とボクシングで?」
「逮捕術で。ま、ベースになってるのはそれぞれの得意な分野なんだが」
「どうだったの?」
「引き分け」
「へぇ、相手は国体の強化選手でしょ。あんた、結構やるのね」
村上は苦笑した。
「時間切れだよ。あっちは俺のフットワークについてこれなくて、俺はあっちのリーチが長くて、とても間合いに入れなかったんだ。なんだ、あの人と知り合いなのか――って、お前さん、まさかあの人と?」
村上は驚いたようにアタシの顔を覗き込んだ。どう答えるか迷って、正直に答えることにした。
「……ちょっと行きがかり上、ね」
「行きがかり上って……。お前の道場、対外試合なんかやってたんだ」
――そんなわけないだろ。
アタシは思わずコケそうになった。でもここは村上の絶妙な勘違いに乗っかることにした。
「ま、そんなとこ」
「止めとけっていって聞くお前さんじゃないだろうけど……。なんだ、事前に癖でも知っておくつもりか?」
「まあ、ね」
実際はそんなことには興味は(まったくとは言わないけど)なかった。しかし、自分が知りたいことをこの男からどうやって聞き出せばいいのか、アタシにはさっぱり分からなかった。
村上は格闘技理論に詳しい人間特有の持って回った言い方で、大沢のことを話してくれた。アタシはそれを聞くとはなしに聞いていた。実はアタシは事前情報を頭に入れて闘うのは苦手だった。どのみちそのとおりには事は進まないし、路上のケンカにはもともと事前情報そのものが存在しないからだ。
「でも、大沢先輩は警察を辞めてから、やばいトコに行っちゃってるからなぁ」
村上は池の真ん中で蛇行しているボートを眺めながら言った。遠目なので詳しいことは分からないけど乗っているのはカップルのようで、漕いでいる男の要領が良くないらしかった。
「……やばいトコって?」
「会社名を言っても知らないだろうけど、興信所みたいなとこで用心棒みたいなことをしてるんだ」
村上は顔をしかめた。
「しかもその興信所っていうのが、警察を辞めさせられた奴が所長をやってるようなところでね。――まったく、あの人も何を考えてるんだか」
その話は知っているけど知らない振りをした。
「……そう、なんだ」
「って、関係ないかな、こんな話は」
「あ、いや……。出来れば聞いておきたいな」
村上はきょとんとした表情だった。
「空手の試合するのに?」
「ホラ、そういう仕事に移ったんなら、国体選手時代とは闘い方だって変わってるかも知れないし。一つでも知らないよりは知っておいたほうがいいと思うの。なんだってそうじゃない?」
我ながらものすごく苦しい言い訳だったけど、村上は疑う様子もなく「そうだな」と言った。
村上は歩きながら、大沢と一度だけ一緒に仕事をした話をしてくれた。麻薬の取引現場から警官を薙ぎ倒して逃走した犯人を追いかけていたところに偶然出くわした大沢が、プロレスラーみたいな体格の外国人を有無を言わさず叩きのめした話だった。
美術館の反対側にあるボートハウスの売店までたどり着くと、村上はアタシにはウーロン茶、自分にはコーラを買ってきた。
「強いよ、あの人は。あんなのとホントにやる気なのかい?」
「……まあね」
「こりゃ見ものだな。そのときは呼んでくれ」
村上は面白がるような口調で言うとコーラを美味しそうに飲んだ。喉仏が上下するのをアタシは隣でボーっと眺めていた。
一応、どんな風に話を訊き出すのか、自分の中でシミュレーションはしていたけれど、実際に村上と会ってみて自分の知っていることや、やろうとしていることに触れないように必要な情報を訊き出すのはほとんど無理だということに気がついていた。
しかし、今さらすべてをぶちまけたからといって話が進展するとも思えないし、この期に及んでも由真を警察に突き出す後押しは出来るだけ避けたかった。
不幸中の幸いは警察が事件への関心を失っていて、疑うのが仕事であり習性であるようなこの男がアタシの質問に疑問も抱かずにペラペラと喋ってくれていることだった。
「そういえば、大沢――さんが働いてる会社って、どんなとこなの?」
アタシは訊いた。いかにも雑談風に”別にいいんだけど、ちょっと興味があるなぁ”というニュアンスを含ませるのにはなかなかの高等技術を必要とした。
「何ていうのか、強いて言えば探偵事務所だね」
「探偵事務所?」
アタシは思わず大きな声を出した。
「なんだか胡散臭いなぁ」
「確かにね」
村上は苦笑した。
「企業信用調査が主力業務ってことになってるけど、実際にこの会社に信用情報の照会に対応したりする機能はない。それよりも依頼のあった調査をやったり、もっと言えば自分たちでカネになりそうなネタを探りだしたり」
「それでどうすんの?」
「失礼ですが、って言って、その相手に持ち込むんだよ。買い取ってくれないかって」
「強請りじゃない」
「そうとも言うね。他にも倒産しそうな会社に入り込んで食い荒らす、いわゆる整理屋の手先みたいな仕事もやってるはずだけど。とにかくそんな会社だよ」
それは用心棒が必要なはずだった。そんな仕事をしていては命がいくつあっても足りそうにない。
「そういえば、そこの所長も警官上がりって言ったっけ?」
「元博多署生活安全課の古瀬っていう男だよ。コイツとは面識がないんでどんな男かは知らないんだけどね。スタッフはそいつと大沢さんの他にあと三人いるんだ。永浦という男と宮田っていう女。この二人も元警官だ。永浦は専属のドライバーみたいな仕事をしてて、宮田のほうは古瀬の秘書兼工作員みたいな感じなのかな」
「元警官の吹き溜まりってわけ?」
「そういうこと。警官の再就職は難しいからね。――特に不祥事で辞めてる場合は」
村上の口調に一瞬、暗い翳のようなものがよぎった。
それが何なのかは分かっていた。アタシの父親にも刑務所を出てくれば、同じように世間に白眼視される生活が待っているからだ。
知りたいことを訊き出すのが目的とはいえ、何となく昔に帰ったような雰囲気に和みかけていた心が強張るのを感じた。しかし、アタシはそれを自分でも意外なほどあっさり押し殺した。この男と会えば砂を噛むような想いをさせられることは初めから分かっていたことだった。
「三人って言ったけど、あと一人は?」
「……コンピュータを扱う男がいるね。小宮っていったかな」
アタシはペットボトルを取り落としそうになった。
「どこぞの病院のシステムエンジニアだったらしいんだけど、コイツがギャンブル狂の借金ダルマでね。借りてたのがFBRと繋がりのある街金融だったとかで、肩代わりしてもらった代わりに働かされてるって言ってたな」
「言ってたって、誰が?」
「ウチの捜査課長。何でも古瀬の元上司だったりするらしいけどね」
アタシは感心した振りをしながら頭の中を整理した。
小宮はMOディスクを取り上げられた上でボコボコにされて、故郷に送り返されたはずだった。
熊谷のウソはもはや驚くに値しなくなってはいたけれど、これでまた一つ前提としていたことが崩れたわけだ。それどころか、そもそも小宮が徳永夫妻を脅すために村松俊二の死体の写真を撮ったという話も疑わしくなってくる。最初から熊谷の指示だった可能性もある。
「でも、大人五人が食べていけるような仕事なの、探偵事務所って?」
「裏稼業の収入がどれくらいか分からないから、そこは何とも言えないな。表稼業のほうは親会社がガッチリ稼いでるらしいから、そこに食わせてもらってるような状態らしいけど」
「親会社?」
「まあ、資本関係があるわけじゃないから、正確な言い方じゃないけど。ここによく仕事を回してる会社があるんだ。熊谷総合企画っていうんだけど」
「……ヘェ」
企業活動に繋がりはないが、人的な関連が推測される――トモミさんから見せてもらった資料にはそう書いてあった。
「実はここの社長も元警官でね。面識はまったくないけど、今でも警察内部の人間と親しくしてるって話だ。まあ、警察くらい現職と辞めた人間が仲良くしてる組織はないからね。確か、社長の熊谷幹夫って男は佐伯さんの同期じゃなかったかな。聞いたことはないか?」
「あー、なんか聞いたことあるかもしんない」
父から聞いたことなどないけれど、そう答えておいた。
「福岡ビジネスリサーチとは、元警官同士ってこともあって付き合いがあるということになってるけど、実際には社長の熊谷が両方のオーナーだって説もある。”企画”のほうでは扱えない汚れ仕事を回すためのね」
やはり、そういうことか。
これで事件の裏側で動いているのが、熊谷幹夫とその部下(と呼んで差し支えはないだろう)だというのはハッキリした。
由真の身柄もコイツらが押さえているのに間違いない。そして今、由真が持ち出したMOディスクを奪還するためにその行方を追っている。
意外な形ではあったけれど、確かめておきたかったことは確かめることが出来た。アタシはポケットの中でケイタイが鳴ったような小芝居をして話を中断した。
「ゴメン、ちょっと」
アタシはテーブルを離れた。マナーモードにしていたのは本当で、そのせいで気付いてなかったけれど不在着信と簡易留守録が入っていた。
<――あ、梅野っす。また連絡します>
留守録の梅野の声は何処となく硬かった。履歴には番号ではなく”公衆電話”と表示されていた。こちらからかけ直すことは出来ないので待つしかない。
アタシはそろそろ帰ると言った。村上は「そうか」と言っただけだった。
バンディットは北側出口の近くのコンビニに停めてあった。村上の自宅のある六本松はちょうど反対側になるので、ここで別れることにした。
「――そういえばさ」
アタシは言った。村上は振り返って「ん?」と言った。
「具体的に何か問題を起こしたことはあるの、その探偵事務所?」
「問題って?」
「だから、警察に捕まるようなことよ。強請りとか」
「検挙されたことはないはずだよ」
「はず?」
「暴力事件でも起こさない限り、こういう手合いは二課かマル暴の担当だから」
ちゃんと聞いたわけじゃないけど、高橋拓哉への傷害事件を担当している(していた)ということは、村上は捜査一課所属だ。
「へぇ。その割にはずいぶん細かいことまで知ってるのね」
「何だ、そんなことか。自分の縄張り――いや、所轄の悪党のことは把握しているものなんだよ、警察は。特に”元警官”って肩書きが付く連中のことはね」
「ひょっとして先輩だから?」
「そういうこと。たとえ警察を辞めても」
「そう。――わざわざ来てくれてありがとね」
「どういたしまして。試合をするんなら、お手柔らかに頼むよ」
アタシの返事を待たずに村上は踵を返した。それはあっちに言って欲しいことだった。
コンビニで駐車料金代わりにオニギリを買ってその場で軽く小腹を満たしてから、アタシはバンディットで走り出した。
大濠公園のそばの小道を抜けて別府橋通りに出た。
九州大学六本松キャンパスの前の雑然とした通りを流すと、やがて護国神社の前で国道二〇二号線(通称、国体道路)と合流する。その中でもここから今泉から警固の辺りまでのおよそ一キロほどはけやき通りとも呼ばれていて、その名の由来であるけやき並木の枝が、まるで緑色のアーケードのように道路を覆っている。市内中心部に向かって微かに下っていくこの道沿いにはアタシにはあんまり縁がない洒落た構えの店が多い。
車列は渋滞していていて、アタシは家族連れの乗ったホンダのセダンの後ろに停まった。
リアウィンドウを突き破らんばかりにガラスに顔を押し付けた三兄弟が、アタシに向かって何か話しかけてきた。声はもちろん聞こえないけど、どうやらバイクに乗った女が珍しいようだった。
アタシが手を振ると長男と次男は嬉しそうに手を振り替えしてくれた。末っ子だけが恥ずかしそうに下を向いていた。
しばらくそんなやり取りをしていると、母親に何か言われたのか、三兄弟は小さくバイバイをしてから前に向き直った。
アタシはバイクを路肩に寄せて一気に車列を抜きにかかった。バイク乗りにとって渋滞の熱気の中にいるのはなかなかつらいものだからだ。
そのまま今泉と警固を通過して、福岡三越のところの西鉄のガードを潜った。真っ直ぐ行くと中洲へ行ってしまうので天神から離れるほうへ右折して、渡辺通りの四車線道路で思いっきりアクセルを開けた。
何処に行くわけでもなくブラリとバイクをぶっ飛ばすのは気持ちのいいものだけれど、アタシの胸の中には釈然としない思いが重く圧し掛かっていた。
それは、熊谷の狙いがMOディスクの奪還だという、その前提条件だった。
村上の話によれば小宮は熊谷の部下ということだった。
と言うことは、あの夜の話のうちの小宮が撮影に使用したデジタルカメラを破壊したという話はまるっきり信用できないことになる。つまりアタシが預かったMOディスクのデータのうち、電子カルテの原本は敬聖会のコンピュータの中に、そして村松俊二の遺体写真の原本は熊谷の手元にあると考えていい。
つまり熊谷にとっては、いくらでも由真に持ち出されたMOディスクの補充は可能だということだ。
だとすると、熊谷がディスクを追う理由は”盗まれたものの奪還”ではなく”流出の阻止”ということになる。それはそれで筋は通っている。
分からないのは、持ち出されたそれがいくらでも複製可能なデジタルデータだということだ。
仮にディスクを取り返したとしてもそれがすでに複製されていて、そこから流出する可能性は否定できない。現に梅野の自宅のデスクトップにはコピーが残っているし、専用ソフトを入手することでそのデータからカルテそのものを再現することすら出来てしまっている。
ディスクを奪還すればそれで済むという問題ではないのだった。
――それで恐喝が終わるという保証もない。重要なのはカネを払わずに済むかどうかじゃない。二度目を防げるかどうかなんだ。
そう言ったのは他ならぬ熊谷幹夫、本人だ。
由真と高橋の身柄を押さえて二人に警告を(高橋にはそれ以上のものを)与えた以上、あとは二人から何処の誰にディスクを預けたのか、どのパソコンでデータを取り扱ったのかを聞き出した上で後始末をするのが真っ当で、しかも効率的なやり方だ。
家族への恐喝を装っていたとしても、由真の真の目的が告発であった以上、時間がなかったとは言えるかもしれない。しかしそれでもアタシに対してあんな作り話をしたり、大沢たちに襲わせる必要などなかったはずだ。
それを敢えてやったのは、どういうわけだろう。
あのディスクには、まだアタシの気付いていない何かが隠されているのだろうか。