徳永祐輔の話は自分の医療事故のことから始まった。
ミスの内容については熊谷の話と特に食い違うようなところはなかった。
違いといえば熊谷が(病院経営に関わっているとはいっても)門外漢なのに対して、祐輔の説明は専門用語を駆使した本格的なものだったというだけだ。ただ、それは同じくアタシにもチンプンカンプンではあったのだけれど。
その後の隠蔽工作については実際に指揮したのは母親の徳永麻子で、蚊帳の外に置かれていた祐輔は細かいやり取りは聞かされていないようだった。さすがに母親の殺人についてはその偶然とはいい難いタイミングのせいで、何があったのかを説明するように両親に迫ったらしいけど。
そして彼はその席で逆上した母親から事の経緯を聞かされる羽目になったのだった。
「目の前が真っ暗になるというのはああいうことを言うんだね。まさか、お袋が人を殺すなんて……」
祐輔は力なく項垂れていた。
「熊谷さんの話では、カッとなってというか、衝動的にやっちゃったという感じだったそうですけど」
「親父もそう言っていたよ。二人がタバコを吸いに外に出た、ほんの少しの間の出来事だって」
「そう言えば、お父様と熊谷さんはお友達なんだそうですね」
「学生時代からの友人だって聞いてるよ。僕にとっても実の叔父みたいな感じのひとだ。お袋とは今でもどこかよそよそしい部分があるけどね」
「どうしてですか?」
「どうしてって言われても……。まあ、一言で言えば権力争いってことになるんだと思うけど」
「そんな争いがあるんですか?」
「ウチの病院っていうのは僕の曽祖父が戦前からやってた病院が始まりなんだけど、祖父には跡取りの息子ができなかった。そこでお袋が親父と結婚して婿養子に迎え入れたんだけど、お袋には今でも敬聖会は徳永家のものだって意識が強くってね。親父はともかく、その友人に過ぎない熊谷さんが今やお袋にも意見できるほど力を持ってるのが気に入らないんじゃないかな。まあ、これは僕にはそんな風に見えるってだけなんだけど」
「熊谷さんってそんなに力があるんですか」
「あの人は経営コンサルタントとしては一流だよ。とても元警察官とは思えないくらいにね。傾いてたわけじゃないけど利益構造の良くなかった敬聖会を立て直して、ここまで大きくしたのは間違いなく熊谷さんの功績だ。まあ、その一方で悪い噂も耳にするけどね」
「悪い噂って?」
「やくざと付き合いがあるとか、そういう噂だよ。でも、そういう方面に明るいあの人だからこそ、様々なトラブルを解決することが出来るんだ」
「ずいぶん、熊谷さんのことを信用してるんですね」
「そう言われればそうだね。僕や由真にとっては、本当の叔父さん以上の存在かもしれない。特に由真は本当に可愛がってもらってたから」
その裏側にあったと思われる熊谷の感情を想像すると、かわいそうに思えなくもない。
「熊谷さんと由真のお母さんがお付き合いされてたっていうのは本当なんですか?」
「あの人、君にそんなことまでしゃべったのか」
祐輔は少し呆れたような口調で言った。
「でも、これは内緒の話なんだけど、実は香織叔母さんには別に恋人がいたらしいんだよな」
「ヘッ!?」
アタシは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「そんな男性が――ひょっとして、それが由真の父親?」
「か、どうかは分からないんだけどね。でも計算は合うんだ。香織叔母さんが東京から帰ってきたのは出奔から三年半後のことだ。由真はそのとき三歳になってた。よほどの早産で生まれたんじゃない限り、福岡を離れたときにはお腹に由真がいたことになる」
「それは熊谷さんじゃないんですか?」
「実は叔母さんが出て行った後、お袋が熊谷さんに同じことを言って詰め寄るのを見たことがあるんだ。そのときはキッパリ否定してた。ついでに言うと血液型も合わない。佳織叔母さんはお袋と同じB型で熊谷さんはO型なんだけど、由真はAB型だからね。父親はAかABじゃなきゃならない。まあ、ABO式は絶対じゃないけど」
「……そうですか」
それからアタシは、由真の実の母親が福岡に戻ってからのことを訊いた。
立場の違いと当時はまだ小学生だった祐輔には窺い知れなかったこともあってか、徳永香織が受けた扱いは熊谷が言うほどひどいものではなかったようにも聞こえた。それでも由真の母親が精神的に病んでいて、敬聖会系の病院に事実上隔離されていたのは本当のことだった。
アタシは熊谷が徳永香織のことについて語ったことを思い起こした。とりあえず、そのことでウソをつかれていなかったことに、何故かアタシはホッとしていた。
話に一段落がつくのを待っていたかのように、祐輔のデスクの電話が鳴った。
「ちょっと失礼。――ああ、僕だ」
祐輔の声に緊張の色が混じった。どうやら救急患者が運ばれてきたようだった。そろそろ辞去するタイミングが来たということだ。
村松俊二が殺されて以降のシステムエンジニア――確か、小宮とかいった――によるデータの持ち出しと熊谷によるその奪還に関しては、祐輔が何か知っているようには思えなかった。知っているとしてもせいぜいそういうことがあったという事実くらいのことだろう。
出来ればそこまでは確かめておきたかったけど、祐輔はアタシのほうには目もくれず受話器の向こうに矢継ぎ早に指示を出していた。受話器をあごと肩で挟んで広げていたノートパソコンを片付け始めた。とても話が出来るような状況じゃなかった。
「申し訳ない、交通事故の患者が運ばれてきたんだ。話はまた今度に――」
「お気遣いなく。早く行ってください」
途中で遮って、そう言った。祐輔は白衣の裾を翻すように部屋の外へ走り去った。
アタシはポツンと一人、祐輔のオフィスに残された。
医師としての技量はともかく、徳永祐輔はアタシが思っていたほど甘ったれたお坊ちゃんでもいけ好かないゲス野郎でもなかった。もちろん彼が由真にしたことを許せはしないけど、肝心の由真がそれを恨んでいない以上、アタシがどうこう言うのも変な話だった。
ぬるくなったコーヒーを飲み干して部屋を出て行こうとしたとき、さっきのメガネ美人が入ってきた。ブラウスとタイトスカートとヴェストという組み合わせが、ちょっとツンツンした感じの彼女にはピッタリだった。
「あら、徳永先生は?」
「救急車で患者さんが運ばれてきたそうです。慌てて出て行かれましたよ」
「あら、そうなの。あなたは?」
「そろそろお暇します。コーヒー、ごちそうさまでした」
「意外と礼儀正しいのね。いまどきの女子高生みたいにもっと横着な子かと思ってたんだけど。さすがは名門女子高の生徒ってことかしら」
「アタシ、あなたにそんなこと言いましたっけ?」
「徳永先生から伺ったわ。由真さんのお友達なんでしょ?」
自分の恋人を「先生」と呼び、その妹をよどみなく「さん」付けで呼ぶ。彼女の”隠蔽工作”はかなり徹底しているようだった。
彼女はアタシの向かいに立つと、真正面からアタシの顔を覗き込んできた。その整った顔には疑念と苛立ちの色がありありと浮かんでいた。
「一体、何がどうなってるというの?」
「……何がですか?」
「とぼけないで」
彼女はピシャリと叩きつけるような口調で言った。
「先生の周りで、何か良くないことが起こってるのはわかってるの。でも、先生は大丈夫だって言うばっかりで、何もあたしには教えてくれないわ。あなたのことだって、妹がご両親に反抗して家に帰らないからお友達に相談しているんだって。そんなバカな話ないでしょ?」
確かにそれは苦しい言い訳だなと思った。
「お願い、この病院で――あの人に何が起こったのか、教えてちょうだい」
正直、アタシは迷った。
ここまで知りえたことは誰からも口止めされてはいない。熊谷からは警察に知れれば由真の立場も危ういという警告を受けてはいるけれど。彼女に教えてやってはいけない理由はどこにもなかった。
ましてや、徳永祐輔に気を使う必要などどこにもなかった。
「お断りしておきますけど、良くない、とかいうような生易しいレベルじゃないですよ?」
「そんなに重大なことなの?」
「ええ。まだ、どう転ぶか分かんないですけど、徳永先生は医師を続けられない公算が高い――そういう話ですよ。まあ、そうなったらなったで自業自得なんですけどね」
「そんな……」
彼女は言葉を失った。
「あなたも早いとこ、次の乗り換え先を探したほうがいいんじゃないですか」
「……何ですって?」
「このまま徳永先生にくっついてても苦労するだけだって言ってるんです。あなたくらい綺麗な人なら、すぐに次の相手は見つかるでしょ」
「バカ言わないで!!」
彼女は弾けるように怒鳴った。
「あたしは彼が――祐輔がこの病院の跡取りだから付き合ってるわけじゃないわ。彼がここを出て行くなら着いていくし、医者を辞めるんならあたしが食べさせてあげるわ。自慢じゃないけどSEの経験もあるし、シスアドの資格だって持ってるんだから」
どこか色っぽいセルフレームのメガネの奥から火の出るような視線がアタシに向けられていた。アタシはその視線を真っ正面から受け止めた。
アタシは自分の心配が――彼女が祐輔を見限ろうとして事情を訊いているんじゃないかという心配が杞憂だったことが、少しだけ嬉しかった。
「徳永先生は、あなたに何も教えてくれないんですか?」
「そうよ。今はまだ話せない、でも必ず話すからって。でも、そんなの男の勝手よ。待たされる女の気持ちなんて少しも考えてないわ」
「確かにそう――男って勝手ですよね」
アタシは自分の父親のことを思った。自分の都合で物事をやらかしておいて、平気でアタシをを待たせることが出来る。男ってホントに勝手な生き物だ。
でも、今回はその味方に立ってやることにした。理由は自分でも分からないけど。
「何が起こってるのか、アタシの知ってることを話すのは構いませんよ。でも、あなたの大事な人が今はまだ話せないと言ってるんです。もう少しだけ待ってあげてもいいんじゃないですか。それともそんな大事なことを、あなたは見知らぬ他人から聞きたいですか?」
呆然と立ち尽くす彼女を残して、アタシは祐輔の部屋を出た。
「――ちょっと、待ちなさいよ!!」
病院を出て行こうとしていたアタシを、徳永祐輔の恋人のメガネ美人が呼び止めた。
そんなに早足ではないと思うのだけれど、彼女が履いているのはアタシだったら一発で足を挫きそうなハイヒールだったので、追いつくのに必死そうだった。
アタシは三階まで吹き抜けになったエントランスホールのど真ん中で足を止めた。普段なら診察や会計待ちの患者でごった返すのだろうけど、日曜日の今日は人っ子一人いない。
「どうかしたんですか?」
「どうかした、じゃ、ないわよ」
彼女は肩で呼吸を整えていた。膝に手を置いて見上げるようにアタシの顔を睨んでいる。
「あなたみたいな小娘に、あんな偉そうなこと言われて、黙ってられる、わけ、ないじゃないの」
「別に偉そうなことを言ったつもりはありませんけど?」
「いや、だから……」
彼女は切れ切れの息で何とかしゃべろうとしたけれど、上手くいかないようだった。
アタシはどうしたものか思案しながら、その様子を眺めていた。
息が整うと、彼女はようやく身体を起こした。ハイヒールのおかげで身長はアタシとあんまり変わらなかった。
「だからその、歳に似合わない達観したところが偉そうだって言ってるのよ」
「……悪かったですね。どうせアタシは婆くさいですよ」
「ホント、どうしてそんなに憎まれ口が叩けるのかしらね、あなたって」
そんなことを言われてもどうしようもない。
何を言いたいのか、よく分からなかった。ケンカを売っているように聞こえなくもないけれど、そんな感じではないような気もした。
「分かりましたよ。どうしろって言うんですか――えーっと」
「河村。河村靖子よ」
彼女の左胸のプレートには確かに”河村”と記されている。部署はシステム管理課となっていた。
「あれっ? 事務の人じゃないんですか?」
「今日はお盆で事務はみんなお休みなの。ウチの部署は今度、レセプト用のコンピュータの入れ替えがあるから、交代で休日出勤してるんだけど」
「だから河村さんが外線に出たんですね」
「そういうこと。出なきゃ良かったって思ったけど。でも、あなたに会えて良かったのかも知れないわ」
「どういう意味ですか?」
河村靖子は初めて、アタシに笑顔を見せてくれた。それは艶やかな大人の女の微笑だった。
「あなたに祐輔のことは訊かないわ。時が来れば彼が話してくれるだろうし、どうしても訊きたくなったら自分で彼に訊くから」
「だったら……」
「だから、そんなことを教えてくれた生意気な女子高生に、お礼をしなきゃいけないっていうこと。あなた、由真ちゃんのこと、捜しているんでしょ?」
「ええ。――何か知ってるんですか?」
彼女は力強く頷いた。いつの間にか”徳永先生”は”祐輔”に、”由真さん”はちゃん付けに変わっていた。
「見たのよ、あたし。由真ちゃんが親不孝通りを男の人と一緒に歩いてるとこ」
「それ、いつの話ですか?」
「あれは水曜日の夜中――っていうか、木曜日の三時過ぎくらいね。角刈りの大きな男の人と、ちょっと若作りした女の人と三人で。最初は人違いだと思ったんだけど、あれは由真ちゃんに間違いないわ」
由真はその一時間ほど前に、南区のロイヤルホストの駐車場でワンボックスに乗せられている。角刈りの大男が大沢だったとすれば、あの近辺にワンボックスを停めて、そこから由真を連れていったということになる。
親不孝通りから、FBRの事務所あるマンション――赤坂の中央区役所の近く――まではそれほど遠くはない。
「そのことは徳永先生には?」
「……言ってないわ。だって、そんな時間にあたし、あんなところにいたなんて言えないもの」
何となく言わんとするところが理解できた。親不孝通りには中洲や天神とはちょっと毛色の違う、若者向けのパブやスナックが多いので、明け方にはアルバイトでホステスをしている女性の帰宅姿を見ることがある。
「学生時代の友達に手伝ってくれって言われて軽い気持ちで始めたんだけど、なかなか辞めるタイミングが見つからなくってね。結構、肌に合ってるような気もするし」
「あなたならモテるんじゃないですか?」
「ありがと。でも、バレないうちに辞めないとね」
「徳永先生はともかくお母様には、でしょ」
「だよねぇ……」
河村靖子は思いっきり顔をしかめた。アタシは苦笑をもらした。
彼女は仕事に戻ると言った。
アタシは礼を言って出て行こうとした。そして、あることを思い出した。
「河村さんって、この病院のコンピュータを扱ってるんですか?」
「そうだけど。それがどうかした?」
「詳しいことは話せないんですけど――この病院のシステムエンジニアに、小宮さんって男の人がいませんでした?」
「いたけど? 彼を知ってるの?」
「知ってるってほどのことじゃないんですけど。今、何してらっしゃるかご存知ですか?」
「さぁ? 突然、何も言わずに辞めちゃったしね。借金取りに追われてたって噂だったけど。それがどうかしたの?」
「いえ、だったらいいです」
河村靖子はケイタイの番号を訊いてきた。特に断る理由はなかった。番号を教えると彼女はワンコール鳴らして「メモリに入れといて」と言った。
彼女はもう一度、ありがと、と言った。アタシは小さく頭を下げてから踵を返した。