Left Alone

Prev / Index / Next

  第 51 章 

 数日しか経っていないのに、権藤康臣は親不孝通りで見たときとは別人だった。詰め込んであった中身が抜け落ちたように顔の肉が一層薄くなっていて、身体も枯れ木のように一回り細くなったように見える。トレードマークの不精髭はきれいに剃られていて、ボックスフレームの黒縁の伊達メガネをかけていた。人によってメガネで見た目が変わる場合とそうでない場合があるが権藤はかなり変わるほうだった。
 それよりも大きく印象を変えているのは頭髪だった。気苦労の多い中間管理職の割には黒々としていたのに、目の前の男は白髪の髪を柔らかく後ろに向かって撫で付けている。カツラには見えない。もともと白くなっていたのをずっと染めていたのだろう。そして今はそれを逆手にとって染料を落としたのだ。白髪が黒くなっても過去の姿に遡るだけだが逆は想像しにくいものだ。アタシは横顔のシルエットを捉えたから彼だと分かったけど、何の予備知識もなく街ですれ違ったならそのままやり過ごしたかもしれない。
 着ているものも今ひとつサイズのあっていないワイシャツとスラックスから、誂えたようにピッタリのダークスーツに変わっていた。暗がりでは生地が真っ黒に見えることもあって、ギョロリとした目で辺りを睥睨していた古手の刑事は葬儀屋のお仕着せを纏った死神のように見えた。
「その格好はどうしたんだ?」
 権藤はギョッとしたようにアタシの身なりを見た。
「自分でやっておいて、よくそんなことが言えたものね。権藤さんが撃った男の一人の血よ」
「双子の兄のほうか」
 倉田兄弟のどっちが兄でどっちが弟かなど知らない。しっかりしているのは康之のほうだったが、だから彼が兄というわけでもなかった。戸籍上はそういうことなのだろう。
「残念だけど、カズのほうは助かりそうになかったわ。ヤスは分かんないけど」
「一発は心臓に命中したはずだ。ブラックジャックでもいない限り、弟のほうも助からん」
「こんなときによく冗談が言えるわね」
 権藤は唇の端に皮肉めいた微笑を浮かべた。殺意を持って人を撃った男にとって標的の生死は単に結果でしかない。自分がやったことに心を慄かせるような心境とは無縁なのだ。
「どうしてこんなことを?」
「話しても理解してはもらえんさ。俺自身、こんなことをしてどうなると思ってるんだ」
「だったら、やめればいいじゃない」
「もう遅いよ。一昨日の朝、村上を撃ったときに石は転がり始めたんだ。坂を下り終えるまで止めることはできん」
「ライク・ア・ローリング・ストーンってわけ? ふん、バカバカしい。力づくでも止めさせてもらうわ」
「できるかい? 俺が何を持っているのか、知ってるだろう」
「アタシを撃てるの?」
「俺は村上を撃ったんだぞ。どうして、真奈ちゃんを撃つことを躊躇うんだ?」
 脅しというにはあまりにも静謐な声だった。
 何かあれば一気に間合いに入れるところまで歩み寄りたかった。しかし、権藤は目顔でそれをさせようとしない。脇の下か腰の後ろに差し込んである鋼鉄製の凶器に手を伸ばす様子は今のところない。
「どうして村上さんを撃ったりしたの?」
 単刀直入に訊いた。もはや、アタシと彼の間にはどんな無駄な言葉も必要ではなかった。
「……村上さん、か。いつからあいつのことをそんな他人行儀な呼び方をするようになった? 昔は下の名前で呼んでいただろう」
「そんなこと、どうでもいいでしょ。話をはぐらかさないで」
 権藤はオーバーに肩をすくめた。
 いつからかははっきり覚えている。父の判決公判の日の夜、平尾浄水の家を訪ねてきた村上の頬を引っぱたいたときの捨て台詞が最後だ。誤解が解けて以降もどうしても彼を「恭吾」と呼ぶことができなかった。だから、いつも「あいつ」か「あんた」だ。
「残念だが、話してやれることはそう多くない。話に費やしてやれる時間もない。真奈ちゃんがここにきたということは、警察へも通報されているということだろう」
「アタシがそんなことすると思う?」
「していないのか。無茶をするのは二年前で懲りたと思っていたが……。まあ、いずれにしても、事情はあんまり変わらない。コイツを――」
 権藤はスカイラインのボディをコンコンと叩いた。
「引き取りにくるんでね。そのときには俺はこの場所から消えてなきゃならないんだ」
「レンタカーなの?」
 そんなはずはない。”わ”ナンバーでもないし、第一、犯罪者相手にクルマを貸すなんて商売が成り立つはずがない。
「こいつは盗難車なんだ。カネさえ払えばどこかからクルマを盗んできて、用が済んだらどこかに乗り捨ててきてくれる連中ってのがいるのさ」
「そして、権藤さんは次の盗難車に乗り換えるってわけ?」
「そんなところだ。そういうわけで時間がない」
「何もかも話せだなんて言ってないわ。答えて欲しいことは二つ。村上さんを撃った理由。そして、南福岡で和津実を殺したのが権藤さんなのかどうか」
「あの子と友だちだったのか」
 声のトーンが低くなった。アタシは首を横に振った。
「友だちじゃないわ。でも、あの日の彼女の行動の後押しをしたのはアタシなの。アタシが夜逃げの荷物なんか運んでやらなきゃ、和津実は殺されずに済んだのかもしれない」
「そういうことか」
 権藤はストラップをずらしてボストンバッグを地面に落とした。顔をわずかにしかめながら首を傾げて肩を動かしている。重さが堪えるような大きさには見えなかったが、二年前に比べてかなり痩せ細った身体にあまり力はないようにも見えた。
「あの子をホームから突き飛ばしたのは俺じゃない。だが、あの場所に呼び出したのは俺だ。そういう意味じゃ俺が殺したようなものかもしれないな。”福岡を離れる前に話を訊かせて欲しい”なんて頼まなければ、あの子は殺されずに済んだんだから」
 やはり、そういうことだったのか。
「話って何を?」
「確認しておきたいことがあったんだ。彼女と、その周りの数人しか知らないことだった。話を聞かせてもらえそうなのはあの子しかいなかった」
「渡利純也の仲間たちね」
「……君は何をどこまで知っているんだ?」
「洗いざらい話すには一晩かかるわ。何もしないって約束してくれるんなら、一緒に部屋に入ってもいいわよ」
「やめとこう。シンさんに何を言われるか分かったもんじゃない」
 権藤の苦笑いにはまだ一時間も経っていない凶行の痕跡は見られなかった。そのことがかえってアタシの神経に障った。
「何を確認しようとしたの?」
「大したことじゃない。それに、結局は確認はできなかったんだ。俺がホームに着いたときにはあの子は殺された後だったからな」
「犯人の姿は見なかったの?」
 権藤は首を横に振った。
「俺が下りた階段の反対から連絡橋に登って、他のホームへ移動したようだ。後から来た村上はすれ違ったかもしれないが」
「あのとき、権藤さんと村上さんは一緒に駅に来たの?」
「ああ。俺と村上はずっと一緒に捜査していた。いや、仕事じゃないから捜査とは言えないな。ずっと腹の中に抱え込んだままの鉛の塊を何とか片付けようとしていたのさ」
「三年前のあの夜のことね」
 あの夜で権藤には通じた。アタシと彼の間に他の夜は存在しない。
「やれやれ、結局は話すことになりそうだな。タバコを喫ってもいいかい?」
 訊いておきながら返事を待たずに権藤はセブンスターのパッケージを引っ張り出した。一瞬だけはだけた前身ごろからショルダーホルスターの革のベルトが見えた。
 権藤は慎重にタバコに火をつけた。初めてタバコに手を出した中学生のようにこわごわとした手つきだった。ゆっくりと煙を肺に入れると、権藤は少しの我慢の後、思いっきり咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「――あ、いや、久しぶりなんでな。みっともないところ見せちゃったな」
「身体、そんなに悪いんですか?」
「ちょいと肺をね。医学的にはタバコと肺がんの因果関係は立証されてないけど、俺の場合は間違いないな」
 権藤はまだ咳の名残りを持て余していた。アタシが知っている頃の権藤は極めつけのヘビースモーカーだった。ウチにきて父と呑みながら猛烈な勢いでタバコをふかす権藤に”トーマス”という仇名をつけていたくらいだ。
「がん、なんですか?」
 自分の声が細くなっていくのを感じた。
「末期ってやつだ。見つかったときには手がつけられない大きさになっていた。本当ならベッドで寝てなきゃならんらしい」
 当然だ。特に肺がんなら場合によっては呼吸もままならないはずだ。権藤は何とか続きを喫おうとしたが、結局は諦めてタバコを足元に落とした。
「ずいぶん時間をロスした。調子もあんまり良くないんでね。そろそろ失礼させてもらうことにするよ」
「待ってよ。まだ、最初の質問に答えてないわ」
 そもそも質問に答える義務などないのだが、権藤は律儀に「そうだったな」と言った。
「村上を撃ったのは、俺の邪魔をさせないためだ」
「何の邪魔?」
 権藤はわずかに躊躇った。でも、これだけ話しておいて伏せる意味がないと思ったのか、小さなため息をついた。
「復讐だよ」
「誰のための?」
「……真奈ちゃんが知る必要はない」
 いつの間にか、権藤は再びジャケットの懐に手を入れていた。ゆっくりと出された手には禍々しい鈍い輝きを放つ鋼鉄の塊――桑原が言うとおりなら中国製コピーの”Cz75”が握られていた。
 銃の動きに注意を払いながら、権藤が口にした言葉の意味を読み取ろうとした。
 復讐だ、と権藤は言った。
 間違いないのは、権藤は自身の恨みを晴らすために倉田兄弟を狙ったのではないということだ。こう言っては気の毒だが、あの二人に権藤をここまでの復讐に駆り立てるだけの打撃を与える力はない。権藤にとってかけがえのない存在であり、同時に倉田兄弟によって辱められた人物がいるのだ。
 その瞬間、一つの記憶がアタシの脳裏に甦った。

 ――そういうことだったのか。

 心の中で呟いた。”復讐”という単語が音を立ててパズルに嵌まる。それもバラバラだったピースのど真ん中に。
「権藤さん、訊いてもいい?」
「なんだい?」
「郁美お姉ちゃんの容態はどうなの?」
 権藤の薄い唇の端にわだかまっていた微笑が消えかけて、切れかけの電球が持ち直すように再び浮かんだ。
「……覚えていてくれたのか」
「ごめんなさい。つい、この瞬間まで忘れていたわ。一緒に遊んでもらったのはずいぶん昔のことだから。アタシはまだ保育園に通ってたんじゃなかったかな」
「郁美が小学校に上がったばかりだった。糸島海岸に海水浴に行ったときだな」
「アタシのアルバムに、ウチと権藤さんの一家の全員で写ったスナップが残ってるわ」
「全員じゃないさ。あれは俺が撮ったんだから。郁美を連れて遊びに出かけたのなんて、あれが最初で最後だったんじゃないか」
 いくら何でもそれは言い過ぎだ。その後も何度かアタシと郁美は顔を会わせているからだ。しかし、それくらい権藤康臣は家庭というものを振り返らない男だった。その断片は父と呑んでいるときの会話からも窺い知ることができた。
 若松郁美――元の名前は権藤郁美。どうして、こんなことに気づかなかったのだろう。権藤と親不孝通りで会ったとき、彼にアタシとそれほど違わない娘がいることは思い出したのに。
 郁美が権藤康臣の娘であるならばすべてに説明がつく。
 彼女に仕事一筋で家庭を振り返らない父親がいたこと。それが元で夫婦生活が行き詰まり、母親が郁美を連れて家を出たこと。母親の死に際して叔母が権藤の関与を手厳しくはねつけたこと。叔母の目的は財産だったのだが、彼が郁美たち母娘をないがしろにしてきたことは都合のいい口実だったはずだ。
 渡利純也が口にした”保険”という単語の意味も通ってくる。実際の話として、もし、あのとき父が渡利を殺さなかったとすれば逮捕されていたのは郁美一人だけだ。時間をかけた内偵捜査の結果が県警薬物対策課長という麻薬取締の責任者の娘だけだとするなら、これは警察にとって大きな痛手だ。渡利が言う”穴”が何なのかはともかく、彼の取引相手に対する強烈な示威になったことは間違いない。
 そして、アタシの父親――佐伯真司のしたことにも筋が通ってくる。父は捜査報告書に郁美の名前を記さなかった。報告書は所轄署の署長宛に提出されているが、どういう経緯で権藤の目に触れるか分からないからだ。裁判で動機について頑なに口をつぐんだのも同じ理由だ。公判の席で事情を話しながら郁美の名前だけを伏せることなど不可能だ。
 村上はかつて、被害者の少女は警察ではなく佐伯真司個人を頼ってきたのだと教えてくれたことがあった。それも郁美が権藤康臣の娘であれば筋が通る。遠い昔、海の家から出ようとしない父親に代わって実の娘をほったらかしにして遊んでくれた怖い顔のおじちゃんは、彼女にとってたった一人の頼れる警察官だったはずだ。
 だから、そんな少女を救うために父は拳を振り上げたのだ。佐伯真司が救おうとしたのはただの被害者の少女ではない。親友のかけがえのない一人娘だったのだ。
「……郁美はもう駄目なんだ」
 権藤は魂の抜け出る音のような細くて力のない息を吐いた。
「駄目ってどういうこと?」
「あの子の身体はボロボロなんだ。医者も手のつけようがないと言った。心のほうもそうだ。もう、俺を見ても誰だか分からない状態だ。完全に壊れてしまっているんだ」
「そんな……」
「やつらの仲間だったころから、郁美はずっと薬物中毒だった。何度となくオーバードーズを繰り返してね。その度に病院に担ぎ込まれるんだが、あの子の叔母は何もしてやろうとしなかった。保護者がそんな具合だったから、病院もとりあえずの応急処置とある程度の回復が見られた時点で郁美を退院させざるを得なかった」
「権藤さんには連絡は?」
「なかった。あの子は俺に繋がるようなものは一切持っていなかった。自分が助けを求めれ、警察官の父親に迷惑がかかると思っていたらしい。そんなことはなかったのに――」
 権藤は苦々しそうに口許を歪めた。初めて見せる父親の苦悩の表情だった。
「大阪へは、郁美を捜しに?」
「……そんなことまで知っているのか」
 驚いたように権藤は目を見開いた。
「渡利が死んだ後、郁美は誰にも言わずに大阪に行った。後で知ったことだが、中学の同級生が大阪から来ていた子でね。その子もまあ、家庭的にはいろいろと問題のある子なんだが、だからだろうな。気が合うところがあったらしい。その子の紹介で歳をごまかして働くところを見つけて、寮にも入った。だが――」
「だが?」
「薬物は本人が思っていた以上にあの子の心と身体を蝕んでいた。やめることができなかったんだ。働いたのが道頓堀に近い盛り場だったことも災いした。郁美は再びクスリにおぼれた」
 何となく想像していた筋書きではある。おそらく、郁美はそうやって福岡にいたときと同じように薬物の過剰摂取を繰り返し、やがて高槻市にある更生施設に収容されたのだ。
「誰も頼れる人間がいなかった郁美は、渡利純也のグループで一緒だった子を頼った」
「白石葉子のことね」
「そうだ。ただの友達だというのに本当に良くしてくれた。郁美の治療費を捻出するために昼の仕事を辞めて、中洲で働いていたというんだからな」
「飯塚の病院を捜して郁美を連れ戻したのも彼女だそうね」
「そうらしいな。あんなことになるんだったら、会って礼を言っておきたかった」
「会わなかったの?」
「父親の俺に会わせる顔がないと言うんだ。郁美を渡利のグループに引き込んだのは自分だからと言ってね」
「じゃあ、郁美の経緯はどうやって知ったの?」
「村上が聞いてきてくれたのさ。詳しいことは知らんが、あの二人、付き合ってたらしいからな」
「……そういうことになってるみたいだけど」
 気にしても仕方ないことは分かっているが、あらためて聞かされると少し腹が立った。誰に腹を立てているのかは自分でもよく分からなかった。
「真奈ちゃん、一つだけ頼まれてくれるか」
 権藤はポケットから取り出した小さなスチールのカードケースをアタシに放った。利き手ではないのでちょっと目測がずれて、ケースはアタシに届く前に地面に落ちた。衝撃で開いた蓋の隙間から名刺のようなカードがこぼれ出てきた。
 どちらが拾うか、目顔でのやり取りがあった。権藤は銃を構えたままでその場から動こうとしなかった。アタシはゆっくりと踏み出して名刺とカードケースを拾った。権藤は小さな声で済まないねと言った。
「これは?」
「そいつの中に八尋という女性の司法書士の名刺が入っている。テレビなんかに出てるから、ひょっとしたら見たことがあるかもしれないが」
 記憶にはなかった。権藤は構わず先を続けた。
「俺が死んだ後のために彼女にはいろいろと頼んであるんだ。郁美の成年後見の手続きもやってくれた人だ。俺の生命保険とか、たいしたことはないが郁美に残してやれるものの管理もすべて任せてある」
「それで、アタシに何を?」
「彼女に連絡をとって、俺が死んだら郁美をよろしく頼むと伝えて欲しいんだ。保険金の請求もやってもらわなきゃならない。本当はあの子の叔母がやらなきゃならんことだが、とても期待はできないからな。下手するとネコババされかねない」
 権藤の口調に苦いものが混じった。確かにそうだろう。会ったことはないが叔母にとって郁美は邪魔者以外の何者でもない。
 アタシは引き受けると言った。権藤は小さな声でありがとうと答えた。
 話はそこで途切れた。それなりに時間が経っているのに駐車場にクルマが入ってくる気配はなかった。平日とは言え、この時間ならもっと出入りがあってもいいはずだった。ひょっとしたらシュンが本当に入口を塞いでいるのかもしれない。
 チリチリとした焦りに似た感覚がアタシの首筋を這い登ってきていた。さっきから時間だけは稼げている。しかし、それがまったく事態を打開する役に立っていない。
 静かに、しかし確実に殺人者の貌を取り戻しながら、権藤はアタシに帰れと言った。
「……帰れるわけないじゃない。復讐だなんて、そんなこと、させられるわけないでしょ?」
「もう始めてしまったんだ。途中でやめることはできないよ」
「警察を呼ぶわ」
「好きにすればいい。――さあ、行くんだ」
 権藤は銃の先端を振ってアタシを促した。
「郁美さんがそんなこと望んでいるとでも思ってるの?」
 陳腐な台詞だということは分かっている。でも、他にかけるべき言葉は見つからなかった。権藤は小さく首を横に振っただけだ。
「望んではいないだろう。だが、俺があの子にしてやれることはこれくらいしかない」
「もし駄目でも、最後まで着いていてあげればいいじゃない。こんなことして権藤さん、いったいどうするつもりなの? 刑務所の中からじゃ、郁美さんに何もしてあげられないのよ?」
「……真奈ちゃん、忘れてないか?」
 権藤は薄い笑みを浮かべて、銃を持っていない左手を胸に当てた。
 息を呑むと、口の中に苦いものが広がるような思いがした。この男にはもう時間が残されていない。傷つきボロボロになった娘を残してこの世を去らなくてはならないのだ。彼が焦燥感と無念さを募らせて凶行に及んだとしても無理はないのかもしれない。
 しかし、それを認めるわけにはいかない。
「さあ、早く。まさか、俺が撃てないと高をくくっているんじゃないだろうな」
「そんなことないわ」
 アタシは言った。そして、意を決して彼のほうへ一歩踏み出した。
「でも、やっぱり行かせるわけにはいかない。父さんは権藤さんにこんなことをさせるために郁美さんを守ったんじゃないもの」
「シンさんには申し訳ないと思っているよ。郁美が助けなんか求めなけりゃ――」
「やめて。父さんは後悔なんかしていない。だから、村上さんに自分を告発させた。村上さんも詳しいことは知らなくても、父がそういう覚悟だって感じ取ったから父の求めに応じたんだわ。自分のキャリアと家庭を台無しにしてまで」
 権藤はアタシの顔をジッと見やった。その眼差しはどんな感情を投げ込んでも二度と浮かんでこない深い井戸のようだった。
「……あの子がどん底で苦しんでのた打ち回っているときに、俺は何もしてやれなかった。一番悪いのが自分だってことは分かっているよ。それでも、他にどうしろというんだ。奴らに法の下で裁きを受けさせようにも、俺にはそんな時間は残されていない」
「でも――」
「悪いが、話はこれで終わりだ。大人しく向こうを向いてくれ」
 Cz75の銃口がゆっくりとアタシの胸に向いた。もし、権藤が本当に引鉄を引いたら、アタシも倉田兄弟の仲間入りだ。目を閉じたいのを懸命にこらえた。
 その瞬間、コンクリートの壁に囲まれた空間に銃声が鳴り響いた。
 権藤の銃からではなかった。あまりの轟音にとっさに耳を塞いだアタシの前で、権藤康臣の身体がスロー・モーションのようにゆっくりと傾ぐ。
「――グッ!」
 歯を食い縛りながら銃声がしたほうにCzの銃口を向けたのは、もはや反射的なものだっただろう。しかし、それが彼の命取りになった。立て続けに胸元が弾けて、権藤の身体は見えない拳の連打を浴びたように小刻みに後ずさった。そして、そのまま崩れ落ちるようにその場に仰向けに倒れた。
 一瞬の出来事でアタシは何もすることができなかった。目の前で権藤の命の灯火が掻き消されるのを、ただ呆然と見つめていることしかできなかった。
「怪我はないか?」
 低い男の声がした。しかし、それは何枚も重ねたガラスの向こうからかけられた声のようにまるっきり現実のものに思えなかった。
 権藤がわずかに身を捩った。アタシは彼のところへ歩み寄り、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
「権藤……さん?」
 声をかけた。そうすれば、もう一度、彼がさっきのように身体を動かしてくれると思ったからだ。
 権藤康臣は二度と動かなかった。
「――いやあああああッ!!」
 自分のものとは思えない悲鳴が、アタシの喉からほとばしった。

Prev / Index / Next
Copyright (c) All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-