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  第 52 章 

 二時間後、アタシは須崎埠頭から一番近い警察署である臨港署にいた。放り込まれたのは予想に反して取調室ではなかった。
 会議室は灰色のファイル・キャビネットと会議用の長机、パイプ椅子しかない殺風景な部屋で、壁にはとっくに終わった春の交通安全週間のポスターが貼ったままにされていた。クーラーが効いているのに蒸し暑い夜気が忍び込んできていて、不快指数はかなり高い。
 アタシはパイプ椅子の一つにもたれるように座って、駆けつけてくれた高坂菜穂子が戻ってくるのを待っていた。
 耳の奥底で、まだ銃声がリフレインしている。胸の奥で様々なモヤモヤした想いが渦巻いている。
 倉田和成の血の温もりを感じたときも、歩道に倒れ伏した倉田康之の姿を見たときにも、二人の命が失われようとしている実感はアタシの心に迫ってきていなかった。どこかに他人事のような遠い感触があった。だから、アタシはシュンのジープに飛び乗ることができたし、権藤を追って須崎埠頭のラブホテルに踏み込むことができた。
 でも、権藤が糸を断ち切られたマリオネットのように崩れ落ちる場面はアタシを手ひどく打ちのめした。ここが警察署じゃなかったら大声で喚き散らしていたに違いなかった。
 背後のドアが遠慮がちに開いた。菜穂子だった。
「――どう、少しは落ち着いた?」
 彼女は肘でドアを閉めて中に入ってきた。両手に自動販売機の紙コップを持っている。ノーメイクをごまかすために黒縁のセルフレームのメガネをかけていて、格好も男物のダンガリーシャツにチノパンツという無造作なものだった。
 菜穂子が置いた紙コップの中身はホットココアだった。真夏の夜にはまるでそぐわないけど、ココアには心を落ち着かせる効果があるという話を聞いたような気もする。
「ホントにすみません。こんな時間にお呼び立てしちゃって」
「なに改まってんのよ。気にすることないわ。被疑者が接見を希望してるからって呼び出されるの、しゅっちゅうなんだから」
「そうなんですか」
 姉を通じて連絡を受けていたらしく、臨港署に着いてケイタイを鳴らしたときには菜穂子はすでに家を出ていた。自分が行くまでは何も話すなと念を押されて、アタシはさっきまでため息の影に怒気を隠した刑事たちに囲まれていたのだ。
「弁護士なんて因果な商売よ。営業時間なんてあってないようなもんだし。お友だちの子にやめとけって教えてあげたほうがいいかしらね」
「由真のことですか?」
 一瞬、菜穂子は意味ありげな薄い微笑を浮かべた。でも、それは問い質す間もなく消え去ってしまった。
「名前は知らないけど。恭吾が言ってたの、あなたのお友だちがあたしたちの後輩なんだって」
「……そっか、菜穂子さんって村上さんと大学の同級生でしたよね」
「そういうこと。ま、そんなことはどうでもいいんだけど。それにしても大変だったわね」
 普段は少し辟易するほど張りのある菜穂子の声も、さすがに沈んだものになっていた。何と答えようもなくて、アタシはただコクリとうなずくしかなかった。
 
 誰かが通報したらしくて、警察はすぐに現場に駆けつけてきた。
 震えが収まらない身体をシュンに支えられて、アタシは現場に黄色いテープやブルーシートが張られるところや警官たちが慌しく事態の確認をしているところや、”鑑識”という文字が入った服を着た人たちが運び出されていった権藤康臣の身体の形に沿ってチョークで線を引いているところを呆然と見つめていた。
 その間、激しく混乱した頭の中で考えていたのは、権藤を射殺した男のことだった。
 権藤が銃弾に倒れた直後、現場ではちょっとした混乱があった。アタシが半狂乱になって権藤の身体を揺さぶっている間、男は銃を手に持ったままでその場に立ち尽くしていた。そこへ銃声を聞いて飛び込んできたシュンがこの男のことを加害者と思い込んで殴りかかってしまったのだ。
 アタシは二人の格闘を見ていないので詳しいことは分からない。確かなのは男がシュンを一発でのしてしまったことだけだ。
 銃を収めると、男は縦開きするパスケース――警察手帳を控えめに掲げてみせた。
「なんで警察が――」
 シュンが飲み込んだ言葉の続きが何なのか、はっきりとは分からなかった。それよりも、アタシの視線は晴れがましく輝いている旭日章ではなく、男の顔に釘付けになっていた。
 男は驚くほど権藤に似ていた。一瞬、アタシは倒れているダークスーツの男は偽物で、目の前の男が本物の権藤じゃないかと思ったくらいだ。
 もちろん、それは最初の見た目だけで、よく見れば同じような背格好の同じようなくたびれた中年男というだけの話だ。顔立ちはよく似ているけれど権藤のような印象に残るアクの強さがあるわけではない。むしろ役所の窓口に一人くらいいそうな目立たないタイプだ。
 手帳を見せただけで充分と思ったのか、男は名前も所属も名乗らなかった。あんまり滑舌の良くないボソボソしたしゃべりを要約すると”別件でたまたま居合わせたら目の前でアタシが撃たれようとしていた。権藤を撃ったのは市民の生命を守るための緊急避難措置だった”ということだった。
 権藤にアタシを撃つ気なんかなかった。アタシは男の胸倉をつかんでそう反論した。しかし、何も事情を知らずにあの状況を見れば男の解釈のほうが正当なのは残念ながら事実だ。権藤がアタシを撃たなかったというのも希望的観測にすぎない。しかも、権藤は銃口を男に向けて反撃する素振りを見せている。言い訳のしようはまったくなかった。
 やがて、博多署の捜査本部で見た覚えのある刑事がやってきて、苦虫を噛み潰したような顔で「桑原警部から連絡はうけているが詳しい事情を聞かせてもらわなくてはならない。署まで同行してもらえないか」と言った。お願いのような物言いでも断ることはできないのだから一方的な通告と同じことだった。
 ノロノロと立ち上がったアタシは、敷地の外にゴチャゴチャに停まっているパトカーの群れまで連れて行かれた。乗り込む前に周囲を見渡してみた。権藤を撃った男は捜査関係者と少し話をしただけで、いつの間にか現場から姿を消していた。

 菜穂子には権藤康臣を追いかけてラブホテルの駐車場に踏み込むことになった経緯をざっと説明してあった。同じことを警察からも訊かれたが、自分が行くまでは余計なことは話すなと釘を刺されていたので、それには”留美さんが従妹の死に疑問を持って和津実の知己の倉田兄弟を訪ねたところ、権藤康臣による襲撃の現場に居合わせることになった。そこで、たまたま通り掛かった知人(シュンのことだ)の協力で須崎埠頭まで追跡したのだ”と説明していた。留美さんも倉田兄弟のことで警察から話を訊かれているはずだった。口裏合わせをする時間も余裕もなかったけど、おそらくホストクラブに乗り込む前の打ち合わせに沿って供述してくれているはずだ。そうでなかったときはそのときに考えるしかない。
「テレビのニュース、大変なことになってるわよ」
 菜穂子が盛大なため息をつく。
「もう、出てるんですか?」
「NHKの深夜のやつにね。他局も臨時ニュースってことで扱ってるわ。明日の朝のワイドショーはきっと大騒ぎね」
 それはそうだ。発砲事件というだけでも大ニュースなのに容疑者が射殺されている。おまけにその容疑者はかつての同僚を撃って重傷を負わせ、さらに二人の若者を銃撃しているのだ。
「説得を試みた知人の女性に銃を向けたため発砲した。被疑者は二日前にかつての部下を銃撃しており、直前にも二人を射殺している。被疑者が死亡したのは残念だが、やむを得ない判断だった。発砲そのものは適正な手順に基づいて行われた。――紋切り型だけどそういう発表になってるわ。知人の女性ってのは真奈ちゃんのことね」
「そう、ですか」
 二つの意味でそう言った。倉田兄弟は助からなかったのだ。
 ドアが開いて桑原警部が入ってきた。上着は着ずにネクタイを緩めて、よれよれになったシャツとスラックスはシワだらけだ。ごわごわした短い髪に隠しようのない寝癖がついている。アタシの電話で起きたのだとすればシャワーを浴びて着替える時間くらいはあったはずだが、そんな考えなんて浮かびもしないのだ。
「残念だが、今の説明に一つ訂正がある」
「すいません、弁護士の接見中なんですけど」
 菜穂子の口調がいきなりつっけんどんなものになった。桑原はフンと鼻を鳴らした。
「堅いこと言うなよ。だいたい、彼女を容疑者扱いしてるわけじゃないんだ。ちょっと話を訊かせてくれって言ってるだけなのに、弁護士が出しゃばってくるほうがおかしいだろうよ」
「容疑者じゃないんなら、どうして榊原さんはこんな部屋に閉じ込められてるんですか? 任意出頭なら、明日になってからでもいいはずですよ」
「そこのお嬢ちゃんは聞き分けが悪い上に素直じゃなくてね。家に帰すと変な知恵を回しかねない。あんたみたいな優秀なブレーンもいることだしな」
「警部、それはどういう――」
「菜穂子さん、待って」
 警察に対して一種の敵愾心を燃やすのは菜穂子の職業柄、普通のことだ。でも、今は警察のやることに難癖をつけている場合ではない。
「桑原さん、訂正って何?」
「被害者の数だ。お前さんの供述どおり、権藤の動機が娘を弄んだ連中への復讐だとしたら、他にも狙われてたはずの男たちがいる。そうだな?」
「守屋卓と篠原勇人。もったいぶらないで説明して」
 二人のことは供述済みだった。守屋の住所はリストの内容を覚えていた。リストそのものは自分の服と一緒に留美さんのアパートに置いてきている。
「所轄の連中が守屋のヤサに任意出頭を求めに行った。残念だが出頭は無理だった。鑑識の結果が出るまでははっきりとしたことは言えねえが、権藤の訪問を受けたんだろうな。――二人とも頭に風穴を開けられてやがった」
「二人?」
「守屋と篠原だ。篠原のやつ、二週間前に”仮釈”で出てきたばっかりだったんだ」
 ……そういうことか。
「そのこと、権藤さんは知ってたの?」
「出所するときにいちいち所轄の警察に連絡があるわけじゃねえが、調べようと思えばいくらでも手はある。そのときにはヤツはまだ警官だった」
 桑原は忌々しそうに舌打ちした。権藤は一週間ほど前に健康上の理由で辞表を提出している。実際に彼にはそうせざるを得ない理由があった。しかし、それはもっと以前からの話だ。
 偶然の一致ではあり得ない。篠原の出所も権藤の復讐劇の幕が上がるきっかけの一つだったはずだ。
「これで全員か……」
 思わず呟いた。渡利純也。白石葉子。吉塚和津実。倉田和成。倉田康之。守屋卓。篠原勇人。郁美を除いたドラッグ密売グループの面々は、理由はそれぞれ違っても全員が鬼籍に入ったことになる。そして権藤康臣も。
 渡利と葉子以外の死は避けられなかったのだろうか。
「なんだ、一人前に責任を感じてるのか?」
 桑原はアタシをいたぶるような残忍な微笑を浮かべていた。
「責任? 誰に対して?」
「さあな。お前の可愛らしいツラにそう書いてあっただけだ。自分の力が及ばなかったんじゃないだろうかってな」
 アタシは彼を射殺すくらいのつもりで睨んだ。図星だったからだ。菜穂子の「変なこと言っちゃダメよ」という小声の忠告もアタシの激情を押しとどめる役には立たなかった。
「悪い!? あいつらは全員、誰に路地裏で刺し殺されても仕方ないことをしてたわ。自業自得かもしれない。でも、権藤さんは――」
 その後は言葉にならなかった。いろんな考えが頭の中をよぎった。最初から意地を張らずに警察に知っていることをすべて話していれば、もっと早く事実が明らかになっていたかもしれない。権藤康臣と若松郁美の接点が分かっていれば倉田兄弟に対する凶行を防ぐことができたかもしれない。あるいは、アタシが追跡したりしなければ権藤は別のもっと穏便な形で捕まっていたかもしれない。
 言っても無駄なことはわかっている。権藤の行動の背後に三年前のあの事件が横たわっていたとしても、動機にたどり着くには時間がかかったはずだ。大阪行きの事実をつかんでいても、郁美の名前が捜査資料に残っていない以上、繋がりはすぐには見つけられなかっただろう。仮に県警の誰かがシャーロック・ホームズ並みの推理力で権藤の狙いに思い至ったとしても、倉田兄弟が素直に警察の保護下に入ったとは思えなかった。
 それでも、権藤の最後がアタシのまぶたから消える気配はなかった。
「……いいか、オイ。思い上がるんじゃねえぞ」
 桑原はパイプ椅子を引っ張り出して、アタシの隣に座った。長机を蹴り上げそうな勢いで短い脚を組んだ。
「誰が思い上がってんのよ!?」
「お前以外、誰がいるっていうんだ。まったく、いい加減にしろよ。村上といい、お前といい、自分だけで何でもできるなんて思ってるんじゃねえのか。人間一人の力なんてそんな大したもんじゃねえよ。だから、俺たちは組織で捜査するんだぞ」
 目の前の貧相な顔立ちの刑事が何を言おうとしているのか、アタシには計りかねた。
「だから何だっていうのよ?」
「いいから最後まで聞け。俺たち、本職の刑事だってそうなんだ。ド素人が一人で駆けずり回ったところで今回のことを防げたはずはねえ。お前には何の責任もないんだ。悪いのはすべて、二日もあったのにヤツの身柄を押さえられなかった俺たちだ。いいか、責任をとるのは俺たちだ。お前みたいな小娘に勝手に背負われてたまるかってんだ」
 言いたいことを言い終えると、桑原は胸ポケットからタバコのパッケージを引っ張り出した。中身は空っぽだった。
 パッケージを捻り潰すと、桑原は無言でアタシに手を差し出した。当然、持っているはずなどない。アタシが首を振ると、途中から黙ってアタシたちのやり取りを聞いていた菜穂子がパッケージを差し出した。
 何かがストンと音を立てて胸の奥に滑り落ちていくのを感じた。忌々しそうな口調で誤魔化しながら、桑原警部がアタシを気遣ってくれているのが感じられたからだ。てっきり責任を押し付けられると思っていたのに、彼は面子や保身よりも先にアタシの重荷を取り払うことを考えてくれていた。
 その場に気まずさと温かさが入り混じった奇妙な沈黙が満ちた。菜穂子がアタシの肩にそっと手のひらを乗せた。
「その……ごめんなさい」
「分かりゃいいんだよ、分かりゃ」
 無遠慮な視線をアタシの頭から爪先まで何往復かさせて、桑原は「……小娘ってほど小さくもねえか」と付け足した。

 それから時間をかけて、自分がこの件に関わるようになった経緯や知っていることをできるだけ詳しく話した。桑原はシニカルに口許を歪めて指先でコツコツとテーブルを叩いていた。出だしの入り組み具合だけでメモをとるのは無理だと悟ったのか、菜穂子から借りたICレコーダーで話を録音している。でも、あれでは聞き返したときに雑音だらけでイライラするに違いない。
 話が終わると、桑原はわざとらしいため息をついた。
「たいした名探偵だな、まったく。俺たちよりよっぽど事情をつかんでるじゃねえか」
「褒めてんの?」
「イヤミに決まってるだろうが。……しかしなんだ、ヴァージニア・スリムってのは吸いごたえがねえな。スースーするし」
「メンソールだもの、当然でしょ。文句があるなら吸わなきゃいいじゃない」
 菜穂子がやりかえした。最初に見せたつっけんどんな態度が嘘のように声には親しさが混じっている。彼女は人の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いな人間にはとことん冷淡だけど気に入ると知り合ったばかりでも十数年来の友人のように振舞うことがある。
 桑原はアタシが飲み干したココアの紙コップを引き寄せて、その中にタバコの灰を落とした。
「ひとつだけ確認しておく。権藤は吉塚和津実を殺ってない――そう言ったんだな?」
「言ったわ」
 アタシは権藤が話したことをもう一度繰り返した。
「しかし、本人がそう言ったってだけじゃ、ハイそうですかってわけにはいかんぜ」
「それは分かってるわ」
 確かに権藤の話には裏付けはない。でも、四人も殺しておいて、今さら和津実の殺害だけを言い逃れる理由はなかった。
 桑原はうっすらと目を細めてアタシを見ていた。それから、小さく抑えた声で「……分かった」と言った。それがアタシの言葉を信じるという意味か、可能性の一つとして頭に入れておくという意味かは分からなかった。
「でも、恭吾が見てるかもしれないのよね?」
「権藤さんはそう言ってたわ。ホームの連絡橋ですれ違ってるかもしれないって。――ねえ、まだ、村上さんとは話せないの?」
 桑原は面倒くさそうに首を横に振った。
「監察官室の阿呆どもがべったり張り付いてる。おまけにサッチョウの連中まで首を突っ込んできてやがるしな」
「サッチョウ?」
「警察庁。九州管区警察局の監察課だ」
「ちょっと待って。どうしてそんな話になってるの?」
 菜穂子が口を挟む。
「俺が知るもんか。確かに奴さんたちが一警官の行状に口を出すってのは、かなり不自然なことではあるんだけどな」
「そうよね……」
 意味が分からない。
 桑原が説明してくれたことを要約すると”警察庁(その出先機関である九州管区警察局)というのは地方警察の監督官庁で、その監察も県警の業務全体に関わるような規模で行われている。マスコミに叩かれるような重大な不祥事でもあれば別だが、基本的に個々の事案に対して彼らが乗り出してくることはない”というものだった。
「権限がないわけじゃないから、越権行為ってことにはならねえがな」
 桑原は忌々しそうに舌打ちした。管区警察局に対してなのかと思ったら、短くなりすぎてカップの中に落としたタバコに対してのようだった。さんざん文句を言ってたくせに桑原は菜穂子にお替りを要求した。
「どういうことなのかしら」
 菜穂子は自分も一本振り出して火をつけた。
「村上が手を出したのが例のファイルなら、まったく可能性がないこともないだろう」
「例のファイルって、熊谷とかいう男の?」
「そうだ。ここまで一般人に存在を知られてて、今さら極秘ファイルもねえもんだが」
「そうよね……。やっぱり恭吾がクラッキングまでやったのは、そのファイルのためなのかしら」
「奴さんたちが出張ってきてるってことは、そういうことなんだろうよ。少なくともそう疑ってるってことだ。いずれにしても、村上と接触できないって点では何も変わらん」
 桑原は腹立たしそうに鼻息を吹き出した。
 村上の不正アクセス禁止法違反についてはアタシには異論がある。上社龍二が指摘したように監察官室(あるいは彼らを動かした上層部の誰か)が村上の身柄を拘束するためにでっち上げた事件だという可能性だって低くはないからだ。ただし、それはあくまでも村上の側に立つアタシの見方でしかない。
 熊谷幹夫のファイルには彼に捜査情報を売った、警察組織にとって重大な痛手になる面々の名前が記されている。あるいは、そこに名前を記された情報の買い手にとって。外部に洩れれば”マスコミに叩かれるような重大な不祥事”なのは確かだ。誰のためであるかは別としても、管区警察局が直々に調査しようとしてもおかしくはないのかもしれない。
「菜穂子さんのほうはどうなんですか?」
「残念だけど、こっちにも打つ手がないわ」
 菜穂子は少しだけ済まなそうに顔をしかめた。
「ま、それを言ったら相手も同じことなんだけどね」
「どういう意味ですか?」
「恭吾が聴取に応じられる状態じゃないから、監察事案の捜査そのものが進まないのよ。どうやらその間に外堀を埋めとこうとしてるみたいだけど、そっちも捗ってないみたいだし」
「なんでお前さんがそんなこと知ってるんだ?」
「野暮なこと訊かないでよ」
 菜穂子は大きなアーモンド型の目で派手なウインクをしてみせた。桑原は露骨に嫌な顔をしてみせた。目の前の女弁護士の出自に思い至ったのだろう。そう言えば、この男は高坂警部補にあまり良い印象を抱いていないようなことを言っていた。
「いずれにしても、村上の件じゃ俺たちは動けない。権藤の件は残念ながら幕引きだし、こっちでやれるのは吉塚和津実の殺しだけだからな。何がどう関わってるのかは知らんが、ヤツのパソコンは引き続きお前が持ってたほうがいいだろう」
 てっきりパソコンを寄越せと言われると思っていたので、少し意外だった。
 桑原の携帯電話が鳴った。メールのようで音はすぐに切れた。それが合図だったように桑原は立ち上がった。
「訊きたいことがあるときは電話する。いつでも出られるようにしておけよ」
「帰っていいの?」
「本当なら勝手にウロチョロしないように留置場にぶち込んでおきたいところだがな。一応、人権ってモンがあるからそうもいかねえ」
「人権なんて言葉が聞けるとは思わなかったわ」
「言ってみただけだ。俺にとっちゃハードルにすぎんよ。飛び越えられないときは蹴倒せば済む程度のモンだ」
 桑原は菜穂子に向かって「供述調書は昼まで作成しておくから、午後にこの跳ねっかえりを博多署に出頭させてくれ」と言った。菜穂子は苦笑いしながら、アタシに向かって「だ、そうよ」と言った。
「まだ、取調べがあるの?」
「内容を確認して署名するだけだ。大して時間はかからん」
 アタシは昼一番で顔を出すと答えた。
 廊下に出ると真夜中で人も少なく、灯りもところどころ落とされていた。会議室よりもかえって空調は効いていた。それでも、何もしていなくても後ろめたくなるような居心地の悪い空気は警察署の他では味わえない独特なものだ。熱帯夜の外のほうが何倍も心地良いことは賭けてもよかった。
「そう言えば、あの刑事さんだけど」
 先を歩いていた桑原が振り返った。
「あの?」
「その……アタシを助けてくれた刑事さんよ」
 本当はそんな言い方をしたくなかった。でも、まさか”権藤を殺した刑事”とは言えない。あの場面を第三者の目で見るならば、やはりあの刑事はアタシに迫った危険を排除したということになるからだ。
「それがどうした?」
「名前もどこの所属なのかも聞いてないのよ。納得はできないけど、やっぱりお礼くらい言ったほうがいいんじゃないかって思って」
「迷惑になるからやめとけ」
 桑原はにべもなく言い放った。
「名前くらい教えてくれてもいいでしょ?」
「犯人を射殺した警官の名前は公表されない。慣例でな。それに職務上のこととは言え人を殺したんだ。何でもないような顔をしてはいたが、それなりにショックなはずだ」
「……そうよね」
 駐車場で権藤によく似た刑事はそんな素振りは見せなかった。でも、それはあの場所ではそうだったというだけで、桑原の言うことのほうが正しいのかもしれない。
「いろいろあったが、今日はもう帰って風呂に入って寝ちまえ。酒でもひっかけてな」
「刑事がそんなこと言っていいの? アタシ、未成年なんだけど」
「お前のためじゃねえよ。権藤の代わりに飲んでやれって言ってるのさ。知ってるか? あのオッサン、顔に似合わずワインなんか飲んでやがったんだぜ」
「……そうするわ」
 桑原はじゃあな、と言って踵を返した。その後姿を見送りながら、何かがアタシの胸の奥でわだかまっていた。でも、それが何なのかはよく分からなかった。

 日付が変わる時刻もとっくに過ぎて、臨港署の周辺はしんと静まり返っていた。菜穂子の話ではニュースは大変なことになっているはずだけど、それにしてはマスコミの姿がない。
 おそらく、捜査本部がある博多署に集まっているのだろう。アタシの事情聴取がここで行われたのは、そんなところに血だらけのワンピースを着た目つきの悪い女を連れて行くわけにいかなかったからかもしれない。警察署に着いて手足は洗うことができたが、ワンピースは濡らしたタオルで落とせる汚れを落としただけだった。
 それというのもシュンから着替えを借りるタイミングがなかったからだ。解放されるのが何時になるか分からなかったので、シュンには先に帰ってもらっていた。
「どうすんの、送っていこうか?」
「すいません、お願いします」
「オッケー。――あ、ちょっと待っててくれる?」
 菜穂子はマナーモードにしていたケイタイを引っ張り出して、慌てて耳にあてがった。聴き取りづらいのか、反対の耳に指を突っ込んでいる。話を聞かれるのを避けるような声の潜め方だったので背を向けてその場を離れた。他人の電話の内容になんか興味はない。
 アタシは留美さんのケイタイを鳴らした。
「……もしもし、真奈ちゃん?」
 暗く沈んだ声が応えた。
「すいません、寝てました?」
「ううん、とても眠れないよ。あんなの、目の前で見ちゃったんじゃね」
「そうですよね」
 留美さんはアタシが現場を離れた後のことを話してくれた。駆けつけた警察は倉田兄弟と同じ病院に留美さんを運んでいた。ケガをしていたわけではなくて、かなりの精神的なダメージを受けていると判断されたからだ。実際、人が撃ち殺される現場を目の当たりにすればどんなトラウマになってもおかしくない。アタシが権藤や倉田兄弟の死に対して何とか心の平衡を保っていられるのは、単に同じように銃撃で瀕死に陥った人間を見た経験があるからにすぎない。どんな痛手でも一度目よりは二度目のほうがしのぎやすい。
 その後、いくらか落ち着いたものの話をするのは無理ということで、留美さんはそのまま一晩入院する運びになっていた。事情聴取は回復を待ってということになっているらしい。
「大丈夫ですか?」
 間の抜けた質問だが他に訊けることはなかった。
「あたしはね。真奈ちゃんのほうこそ大丈夫なの? ニュースじゃ、すっごいことになってるみたいだけど」
「ええ、まあ……」
 そこに人の死が介在しているからか、どの言葉にも重石が圧し掛かっているように会話はぎこちないものになった。実際に起こったことを説明しようかとも思ったが、今の彼女にこれ以上の悪い話を聞かせても何にもならないのでやめた。留美さんも訊こうとはしなかった。
「朝イチでお見舞いに行きますね。アタシも博多署に呼び出し喰らってるんで」
「うん、ありがと」
 最後だけとってつけたような明るい声で言って留美さんは電話を切った。
 菜穂子はまだ電話中だった。仕事の電話にしては表情は明るかった。友人か、あるいは離婚後のボーイフレンドだろうか。
 待っている間に駐車場を見渡していて、アタシは思わず目を疑った。見覚えのあるダークブルーのステーション・ワゴンが停まっていたからだ。由真のBMW328iだ。
 まるでアタシが気づくのを待っていたようなタイミングでBMWのドアが開いた。降りてきたのはもちろん由真だった。
 アタシは再び自分の目を疑った。ご自慢のふんわりとした栗色のボブは感電でもしたようにボサボサでまとまりがなく、淑女の身嗜みだと言って欠かしたことのないメイクもしていない。目の周りは一晩泣き明かしてもそうはならないくらいに腫れぼったくて、おまけに洟をかみすぎたように鼻の頭は真っ赤だった。いかにも少女趣味なサックス・ブルーのワンピースだけがいつもの由真だけど、それもコントの衣装のように似合っていなかった。
 ちょっと青ざめた唇を真一文字に結んで三白眼でアタシを睨んでいる様は、知り合ってからの三年間で最悪と言ってもいいブサイクさだった。
「どうしたの?」
 由真は膨れっ面でこっちを見ていた。足元に小石があったら蹴飛ばしそうな感じだ。
「……迎えにきたんだよ。真奈がここにいるって聞いたから」
「そう、ありがと」
 誰からとは訊かなかった。どうせ高坂警部補あたりだろう。
「ケガは?」
「何にも。ピンピンしてる。――あ、これは撃たれた人を介抱したときのものだから、心配しなくてもいいよ」
 アタシはワンピースの汚れを指差した。由真はしばらくアタシの表情をジッと見つめていた。そして、何かを思い切ったようにつかつかと歩み寄ると、前触れもなく右手を一閃させた。
 あまりの意外なタイミングに避けることもできなかった。
 非力な由真の手で引っぱたかれたってたいして痛くはない。でも、音だけは電話中だった菜穂子がびっくりしてこっちを向くほど派手に響き渡った。痛みというより由真の手のひらが残していった熱さにアタシは顔をしかめた。
「ちょ、ちょっといきなり何――」
「真奈のばかあッ!!」
 由真は畳み掛けるようにアタシを遮った。十五センチほど下から見上げられているのに、まるで上から見下ろされているような迫力だった。由真はアタシのワンピースの胸倉をしがみつくように両手でギュッと握った。目には今にもこぼれそうなほど涙が溜まっている。
「何が”別に心配しなくてもいいよ”だよ!! 真奈が銃撃戦に巻き込まれたっていうから、気が気じゃなかったのにッ!!」
「……銃撃戦って、そんなオーバーな」
「だって、テレビで言ってたんだもん!! あの倉田って兄弟が拳銃で撃たれて、その場から逃げた男が知人の女の人から説得されてるのに、その人に銃を向けたから警察が犯人を撃っちゃったって。あたし、真奈がホストクラブに行ってるって知ってたから、すぐに知人っていうのが真奈だってわかったの。だから、だから……」
 その後は言葉にならなかった。代わりにほとんど体当たりのような勢いでぶつかってくると、由真はそのままアタシに抱きついて泣き始めてしまった。
 いくら乾いたといってもワンピースの前身ごろは血で汚れている。何とか引き剥がそうとしてみたけれど、由真はアタシの力でもびくともしないほどガッチリとしがみついてきていた。

 ――参ったな、こりゃ。

 心の中で呟いた。菜穂子から聞かされた警察発表をどう膨らませれば”銃撃戦に巻き込まれた”になるのかはさっぱりわからない。それでも、アタシが現場に居合わせたのは事実だし、銃を持った犯人に向かって警察が発砲すればそこが修羅場と化すのはあり得ることだ。事実関係を知る者には妄想や考えすぎとしか思えなくても、断片的な情報でストーリーを組み立てれば由真のような反応になってもおかしくないのかもしれない。
 いずれにしても、あの由真が身なりに気を使うのを忘れるほどアタシを心配してくれたのは事実だった。
 アタシはしばらく迷ってから、華奢な肩に手を回して由真を抱きしめた。今は村上をめぐって冷戦中だということもとりあえず忘れることにした。
「……あー、そのー」
 嗚咽が小さくなるのを待ってアタシは口を開いた。由真はアタシの胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で「……何よ?」と言った。
「心配かけてゴメン。その……ありがとね」
 由真は小さくうなづいて、もう一度アタシの胸に頬をすり寄せてきた。そして、そこが汚れていることに気づいて慌てて顔を離した。
「ちょっと真奈!! どうしたの、コレ!?」
「どうしたって……さっき説明したじゃない。わかってて抱きついてきたんじゃないの?」
「知らないよ! あ〜あ、もうヤダぁ」
 由真の頬にはかすれた刷毛を何度も刷りつけたようにうっすらと赤い筋がついていた。それが被害者の血だということを考えると笑えるような話ではないのだが、必死に顔をこすっている由真の仕草が何とも場違いで思わず吹き出してしまっていた。
「中のトイレで洗ってきなさいよ」
「そうする。でも、ニオイがついてそうだなぁ。ウチに帰ったらお風呂に入らなきゃ」
「そうね。準備してあげるから、先に入んなさいよ」
「何言ってんの。真奈も一緒に入るんだよ」
 有無を言わさない口調でそう宣言すると、由真はBMWのキーをアタシにトスして警察署の建物に駆け込んでいった。
「へえ、真奈ちゃんとあの子、そういう関係なんだ?」
 いつの間にか、背後に菜穂子が立っていた。口調に明らかな冷やかしのニュアンスが混じっている。
「……そういう関係ってなんですか?」
「いやあ、今のやり取りはどう見ても恋人同士にしか見えなかったんだけど?」
「バカなこと言わないでください。そんな趣味ないです」
「レズだなんて言ってないでしょ。それくらい、お互いに大切な存在だってことよ」
 アタシはそっぽを向いた。何だかんだ言っても、あんな場面を他人に見られたのが恥ずかしかったからだ。警察がアタシを博多署に連行しなかったことを密かに感謝した。さっきの由真ならマスコミのカメラの目の前でも同じように迫ってきたに違いない。
 チラリと視線を送ると、菜穂子は微笑ましい子供を見るような優しい表情をしていた。彼女は朝九時に自分の事務所に顔を出してくれと言った。アタシは彼女のほうを向かずに「……了解」と答えた。
 立ち去る後姿を見つめながら、唐突に菜穂子が由真の話をしながら見せた意味深な微笑を思い出した。
 なるほど、そういうことか。由真にこの場所を教えたのは彼女だったのだ。でも、それを問い質すには痩せぎすな背中は遠くに行き過ぎていた。

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