「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 2 章  

 ボクが空手道場の練習生になってから、一週間が過ぎた。
 塾は週に三回だけど、道場にはどうしても外せない用事があった一日を除いて、毎日顔を出していた。ボクは一度始めたことはなかなかやめないほうだけど、さすがに今回は続かないと思っていたらしくて、家族はビックリしていた。
 もっとも、その間にやったことと言えば、全身の関節が悲鳴をあげるようなハードな柔軟体操と、基本的な立ち方と足の運びの練習くらいだった。
 格闘技には詳しいほう(ただし見る専門)なので、初心者がいきなり実践的な練習をさせてもらえないことくらいは分かっていた。それに立ち技系格闘技の基本のすべてが、土台になる立ち方にあることも分かっている。だから、それらの練習がつまらないとは思わない。
 ただ、ボクにはあまり時間がないのも事実だった。
「ねえ、ちょっといいかな?」
 道場に人がいない日曜日の午後、ボクは真奈に声をかけた。さっきまで三戦立ちの、素人にはちょっと不自然な足の置き方をしていたせいで足首が痛い。鍛えていないとそうなるらしい。
「なん?」
「いや、訊きたいことがあるんだけど……何やってんの?」
「柔軟」
 いや、それは見れば分かる。ボクが言っているのは、それが空手道場でお目にかかる類の柔軟体操じゃなかったことだ。
 前後に開いた両脚はペタンと床にくっついている。真奈はその体勢のまま、長い息を吐きながらゆっくりと上半身を前に倒していった。やがて頭から胸、腹のあたりまでが伸ばした脚の上にぴったりと折り畳まれていく。
 その動作にはまったく無理をしているところがなかった。伏せた状態のままで両手を前に出してつま先を軽くつまむと、彼女はまるでなだらかな曲線を描く細長いオブジェのように見えた。
 姉貴より軟らかいんじゃないか?
 ウチの姉貴は子供のころからクラシック・バレエをやっているけど、家での練習で同じことをやってもここまできれいなラインにはならない。ボクはしばらくその様子に見とれていた。
 真奈は時間をかけて身体を起こすと足の開きを一八〇度変えて、今度は反対の脚の上に同じように倒れ込んだ。
「真奈って身体、軟らかいんだなあ」
 ボクは言った。真奈はさっきと同じようにゆっくり身体を起こした。
「当然やん。っていうか、身体が硬か格闘家とかあり得んし」
「そうなんだ。いつもこんなに時間かけてやるの?」
「だいたい、いつもこんくらい。怪我したくなかけんね。――で、訊きたかことって何?」
 ボクは口を開こうとして、思い直して首を横に振った。
「ううん、なんでもない。それより、ボクも練習しなきゃ」
 真奈のような上級者が基礎を大切にしてるのに、素人のボクがそれをすっ飛ばすなんておこがましいにも程がある。彼女に背を向けて、教わったとおりに肩幅に開いた足をハの字に置くところから練習を再開した。
 背後で彼女が立ち上がる気配がした。
「ねえ、亮太。今日はこん後、何か予定あると?」
「いや、何もないよ。今日は塾は休みだし」
「じゃあ、一緒に帰らん?」
「一緒に?」
 思わず声が裏返りそうになった。
 狼狽するのにはそれなりに理由がある。香椎近辺ならともかく、電車の中では誰に一緒にいるところを見られるか分からないからだ。
 常々、心の底からバカバカしいと思うのだけど、男子と女子が一緒にいるとくだらない噂を流す奴が必ずいる。朝、教室に入って黒板に相合い傘が落書きされていたりすると、どれだけヒマなんだと呆れてしまう。
 とは言え、自分が書かれる立場になれば笑ってもいられない。
 事実と違うからと否定すればするほど泥沼になるのが、この手の噂話の特徴だ。囃し立てる側からすれば事実がどうかなんてどうでもいいので、唯一の対処法は「相手にしないこと」という消極的なものにならざるを得ない。
 ボクはこれまでそんな”事実”と無縁なので被害にあったことはないけど、実際に付き合っている二人がそれでギクシャクすることだってあるので、気の毒だなと思う。
「大丈夫かな?」
「アタシは見られたって構わんけどね。友だち同士で一緒に電車に乗るとって、別に悪かことやなかろ?」

「……まあ、そうだけど」
 真奈は「それがどうした?」と言わんばかりだった。

 確かに彼女を相手にそんな噂を流す命知らずがいるとは思えなかったし、流されたとしても彼女の場合、本当に「ふ〜ん、そう」の一言で流してしまいそうな雰囲気はある。
 彼女がそうなのに、ボクが気にするのもおかしな話だった。もし”スクープ”されたら、そのときに考えるしかなさそうだ。


 そんなわけで帰り道、ボクと真奈は二両編成の宮地岳線の電車に揺られていた。
 もともとそんなに乗客が多くない上に通勤客がいないので、車内はガランとしている。同じ学校の生徒らしき人影はない。
 車両はおそろしくレトロで、窓は下半分だけがスライドするという、田舎のバスでもなければ見ないような開き方をするし、冷房の弱さを補うように天井には扇風機が取り付けてある。詳しいことは知らないけど、利用客が少ない宮地岳線は同じ西鉄の別の路線の使い回しで、新しい車両は入ってこないらしい。
「――やけん、親指を中に握り込んだらダメって言いよるやん。殴った拍子に折れるけん」
 真奈はボクの手を見て言った。
 知り合いの目がないというのもあってか、真奈の表情にも学校で見せるような素っ気なさはなかった。お互いにそんなに話し上手でもないのに、会話はやけにはずんでいる。
 問題はその内容がまるっきり道場での会話の延長線上にあることだ。ボクがふざけ半分でやってみせた正拳突きの拳の握りがお気に召さなかったらしい。
「えーっと、こう?」
「うーん、さっきよりよかけど。指ばしっかり巻き込んで、親指と小指で締め上げるイメージで握るとよ。そうせんと拳が緩うなるし、拳頭が目標に当たらんけんね」
「拳頭?」
「拳を作ったときにできる指の付け根の骨の出っ張りのこと。空手の突きに限らんっちゃけど、パンチっていうとはここ――」
 真奈はボクの手をとって、その拳頭を押さえた。前触れもなく手に触れられてビックリしたのを、ボクはなんとか押し隠した。
「こん部分ば意識して殴るとよ。指の背の面全体ば当てるとやなくて」
 真奈はボクの顔の前で自分の拳を握ってみせてくれた。
 女の子の手が見るからに硬そうな武器に早変わりするのを、ボクは感嘆混じりに見ていた。手のひらを合わせれば多分ボクの手のほうが大きいはずだけれど、彼女に比べたらボクの拳は出来損ないのいびつなゴムボールだ。
 真奈の「正しい拳の握りかた」講座は、列車が三苫駅に着くまで延々と続いた。
 分かりやすいように丁寧に教えてくれるのは、彼女が他人に教え慣れているというのとは別に、彼女の世話好きな一面を表しているような気がした。それは確かにありがたい話だと思う。
 でも、せっかくだから空手以外の話――例えば趣味の話とか――をしようと思っていたのだ。デートなんてつもりはなかったけど、二人でゆっくり話ができる機会なんて他に見当たらない。
 ボクは心の中で魂を吐き出すような深いため息をついた。


 三苫駅を出ると、真奈は買い物をして帰ると言った。
「亮太はどうする? まっすぐ帰ると?」
「別にそんなに急ぐこともないけど。どうして?」
「やったら、買い物付き合うてよ。一人でテクテク歩くと好かんし」
 特に断る理由もないので、駅から少し歩いて大通りにあるサンリブに入った。
 割とあちこちにある地元のスーパーで、デイト・オブ・バースの曲をBGMにしたイメージCMをよくテレビで見かける。そのわりには見てくれはごく普通のスーパーだ。
 お菓子とかジュースでも買うのかと思っていたら、真奈は手押しのワゴンにカゴを載せて、迷うことなく食料品売り場に向かった。
「おつかい?」
「まあ、そがん感じ」
 彼女はメモを見るわけでもなく、目にとまった商品を次々にカゴに放り込んでいった。大量に買い込むわけじゃないけどパンや乾物、調味料、肉、野菜、豆腐やこんにゃく、そのほか、いろんなものをまんべんなく入れるとカゴはすぐに満杯になった。
 驚いたのは「何をどれだけ買うか」を真奈が自分で決めていることだった。お使いと言うよりまるで主婦の買い物のようだ。

 いや、我が家の女性陣よりよほどマシかもしれない。ウチの母親なんか、いつも両手に持ちきれないほど買った挙句、冷蔵庫にどうやって入れるか悩んでばかりいる。その娘である姉貴も似たようなもんだ。
 ボクがそう言うと、真奈は事も無げに「ウチ、母親おらんけんね」と答えた。
「そうなんだ?」
「小学校の六年んときにね。ずうっと病気やったっちゃけど、一時帰宅で帰ってきたときに容態が悪うなって、そのまんま」
「悪いこと、訊いちゃったかな」
「そがんことなかよ。もう三年以上も前の話やし」
「じゃあ、それからはお父さんと?」
 彼女に兄弟がいないことは前に聞いていた。
「そう。ずっと二人暮らし。この歳ですでに主婦とよ、アタシ」
 真奈はそう言って笑った。テキパキとした買い物の様子を見ていなかったら、彼女が家事をこなしているところなんて想像もできなかっただろう。
「……ところでさ」
 鮮魚売り場でサバを三枚おろしにしてもらっていると、唐突に真奈が言った。
「なに?」
「やっぱり基礎ばっかりは面白うない?」
 一瞬、質問の意味が分からなかった。それが道場でのボクの質問と繋がっていることに気づいて、ボクはひどく気まずい――と言うか、申し訳ない気持ちになった。
「そんなことないよ。それに三戦の構えができたら、次はいよいよ突きの練習だって師範代も言ってたしさ」
「ウソつかんでもよかよ」
 彼女の声に咎めるようなニュアンスはなかった。ボクは彼女から目を背けたまま、大きなため息を洩らした。
「つまんなくはない。でも、もどかしい」
「やっぱりね。そがんやなかかな、とは思っとったとやけど」
「……君、テレパシーでも使えんの?」
「そがん怪しか能力もっとらんけど。だいたい入門してきて一、二週間すると、みんな似たごたること言い出すもんったいね。やれ、技の練習させろとか、組手やらせろとか。理由はいろいろやけど。最初から空手舐めとうやつもいるし、ただ単に堪え性がなかやつもいるし――」
「耳が痛いね」
 ボクは話を終わらせようと真奈を遮った。これ以上話せば、理由を言わなきゃならなくなる。
 ところが彼女はめげずに言葉を続けた。
「あと、そこまで悠長なこと言うとられんとかさ。一刻も早く強うならないけん理由があったりとかして」
「えっ!?」
「図星やろ?」
 否定の言葉を探したけど見つからなかった。彼女が言うとおりだったからだ。
 真奈は少しだけ得意そうな笑みを浮かべていた。理由を根掘り葉掘り訊かれるのかと思うと、内心ウンザリした。

 しかし、彼女は静かな声で「――よかよ、アタシが教えてやろっか?」と言っただけだった。
 長く鍛錬を続けている彼女からすれば、ボクのように”手っ取り早く強くなりたい”なんて人間は軽蔑されてもおかしくなかった。なのに、そんなボクの焦りを気遣ってくれる彼女の優しさが嬉しかった。
「遠慮するよ。まだ命が惜しいから」
 ボクはおどけた口調で言った。そこまで厚かましいことを言うつもりはなかった。第一、真奈と組手なんかやったら、生きて道場を出られる保証はない。
「うっわ、亮太ってアタシのこと、何と思っとうと!?」
「友だちだよ。君がそう言ったろ?」
「……何、それ」
 真奈はプウッと頬を膨らませた。その表情はそれまで見た中で一番かわいかった。笑顔がかわいい子はいくらでもいるけど、怒った顔が魅力的な子にはそれまで会ったことがなかった。
 ボクは買い物の間中、チラチラと真奈の横顔を窺っていた。シチュエーションはちょっと戴けなかったけど、初めての経験にボクはドキドキしていた。
 誰だよ、彼女を”ザ・ビースト”なんて呼んだのは。

 スーパーからの帰り道、ようやく話題は格闘技のことを離れて、学校での出来事やボクが知らない先生たちの逸話に及んでいた。
「――でさ、あいつ、シュートのフォームがどうとか言うて、女子の身体に触ろうてするとよ」
 真奈が言う”あいつ”とは、去年赴任してきた体育教師のことだった。彼女がたまに助っ人に駆り出されるバスケットボール部の顧問なんだけど、どうも指導に問題があるらしい。
「それってセクハラじゃないの?」
「じゃないの、やなくて正真正銘のセクハラって。ホント、いつかローリング・ソバットで蹴飛ばしてやろうて思っとうとやけど」
「そのときは呼んでほしいな。ちゃんとリングサイドS席の料金払うから」
「場外乱闘に巻き込まれても知らんよ」
 二人で爆笑していると、真奈の携帯電話が鳴った。
「もしもし、どうしたと?」
 彼女の父親だろうか。向こう側の声なんか聞こえないけど、礼儀正しくボクは彼女のそばを離れた。
 なのに、真奈はそれを台無しにするような大きな声をあげた。
「ちょっと待ってって、来られんってどがんこと!?」
 眉根を寄せたキツイ眼差しは、今にも誰かに殴りかかりそうな凶悪さだった。
「何考えとうとって。あんたが食べたかって言うたけんが準備してあるとよ!?」
 それからしばらく無言。たぶん、相手が何か言い訳をしているのだろう。徐々に憤怒の表情は和らいでいるけど、それでも怒りと失望のオーラが彼女のまわりに漂っていた。
「……分かった。うん、じゃあね」
 ディスプレイを一睨みして、彼女は電話を切った。
「どうしたの?」
 訊かないほうがいいような気がしたけど、何事もなかったように話せる雰囲気じゃなかった。しばらく憮然とした顔だった真奈は、やがて照れたように苦笑いした。
「父さんの同僚で、ウチにご飯たかりに来る半居候がおるとやけどね。そいつが仕事で急に来られんごとなったって」
「準備してたの、その人の分?」
「そうよ。まったく、イワシの生姜煮が食べたかとか言うけん、ちゃんと霜降りまで済ませてあったとに」
「霜降り?」
 それって肉の用語じゃないのか、というボクの質問に真奈はちょっと得意げな表情を浮かべた。それは魚介類の下ごしらえを指す用語でもあって、熱湯をサッと通した後に冷水で洗うことで臭みやぬめりをとることを言うのだそうだ。
 なんで中学生がそんなこと知ってるんだろ?
「料理、得意なの?」
「あ、亮太、アタシのことバカにしとうやろ。これでも家庭科と体育だけはずーっと五なんやけんね」
 体育は納得だけど、家庭科の五はちょっと意外だった。でも、彼女が言うように”この歳ですでに主婦”なら、中学校の家庭科の課題くらい朝飯前なのかもしれない。

「自分は食べるだけやけんて勝手なもんよね。フン、奥さんにご飯も作ってもらえんダメ亭主のくせにさ」
 真奈はまだ憤懣やるかたないといった感じだった。でも、えらい言われようだな。
「イワシの生姜煮かぁ。美味しそうだね」
 とりなすつもりでボクは言った。
「亮太って魚、好きと?」
「どっちかって言うと、肉より魚派。脂っぽいのが苦手でさ。だから痩せっぽちなんだって言われるけど」

「へえ、やったら家でも食べるったいね」
「ところがそうでもないんだ。父さんが魚嫌いでね。我が家では煮魚は滅多に食卓に上らない」
「ふうん……代わりに食べてく?」
 そう言って、真奈はすぐに「……あ、もう家で用意しとう時間やね」と付け足した。みっちり練習したせいで時計はすでに六時を過ぎていた。
 どうしようかな、と少しだけ迷ってボクは口を開いた。
「んー、まあ、家に帰ってもなんにもないんだけどね」
 真奈は驚いたようだった。
「なんで? どっかに食べに行くと?」
「そうじゃないよ。爺ちゃんが入院したんで、母さんが実家に帰っちゃってるんだ。なのに父さんは接待ゴルフでいないし。姉貴は料理はまったくだしね。だから、ちゃんと晩御飯代はもらってあるんだ」
「やったら、食べに来ればいいやん。ウチも父さん遅いし、アタシも一人で食べるのつまらんし」
「いいの?」
「もちろん。よし、決まりっ!!」
 ひょんなことから女の子の家に行くことになり、しかも手料理をご馳走になるという僥倖に、ボクの頬は自分で分かるほどゆるんでいた。
 しかし、ふと、半年ほど前に我が家で起きた悲劇が脳裏をよぎった。姉貴が同級生のボーイフレンドを家に呼んで手料理を振る舞ったときのことだ。
 料理の見た目はそれほど悪くはなかった。ただ、最初の一口を食べたボーイフレンドの眉間に刻まれた皺が味の酷さを物語っていた。
 それでも彼には「こんなの食えるかッ!!」と怒鳴って卓袱台をひっくり返す、という選択肢は用意されていなかった。彼は悲痛な笑顔を浮かべながら、黙々とテーブルの上の料理を口に運んだ。ボクは生まれて初めて、男に生まれることの辛さを目の当たりにすることになった。
 最初のうちは彼も善戦した。姉貴の目を盗んで水で流し込む(ああ、なんと美味しそうに飲んでいたことか!!)という高等テクニックも見せてくれた。
 しかし、ごまかしは所詮、ごまかしでしかなかった。徐々に食べるペースは遅くなっていき、最後にはまったく箸が進まなくなっていった。ダイニングをチラチラと覗いていたボクには、そのボーイフレンドが何発もボディブローを喰らって、残酷なほど確実に力を奪われていくボクサーにしか見えなかった。
 料理が好きなことと料理が上手なことの間には、残念ながら天と地ほどの隔たりがある。主婦の誰もが料理が上手だというわけでもない。
 安易に喜んでいるけど、真奈は大丈夫なんだろうか?

「うっわ、やばいよ、コレ」
 頭が悪そうなので普段は使わないようにしている感嘆詞が、思わず口を衝いて出た。
 心配はまったくの杞憂だった。それどころかボクは男に生まれることの喜びを感じていた。気になり始めてる女の子の手料理が美味しいこと以上の幸せがこの世にあるだろうか。
 料亭とか割烹で出てきそうな茶色の器に盛られたイワシは、美味しそうな煮汁の色に染まっている。上には針生姜が天盛りにしてある。市販のものじゃなくて、真奈が小さな包丁で刻んでいたものだ。一緒に煮たダイコンにもしっかり味がついている。ちゃんと下ごしらえがしてあるからか、臭みはまったく感じられない。
 付け合せはだし巻玉子と冷奴、ナスと油揚げの味噌汁。ご飯はしっかりコメが立っていてツヤツヤだった。他にも彼女のお祖父さんの実家から送ってきた高菜漬けと、筑前煮を温めて出してくれた。最後の一つは「昨日の残りなんだけど……」と申し訳なさそうだったけど、実はそれが一番美味しかった。
「ご飯、お替りなしじゃ足りんくなかった?」
 真奈が言った。
「そんなことないけど。どうして?」
「男の子やけん食べるかなって。父さんもあいつも米粒あんまり食べんし、それで普段からそんなに炊かんとよね。炊いて冷凍したやつでよかならあるけど?」
「大丈夫だよ、おかずでお腹いっぱいになりそうだから」
 あいつというのは、こんなに美味しい生姜煮を食べ損ねた半居候のことだろう。
 彼女が台所で料理をしている間、待たされていた居間の写真で”あいつ”の顔は見ていた。
 バックはどこかの遊園地の入場口だった。今よりもちょっとだけぽっちゃりした真奈のとなりに、彼女が普通の背丈に見えるほど背が高いハンサムな男が写っていた。茶色がかった長髪とメタルフレームのメガネのせいでとても警察官には見えない。真奈を挟んだ反対側には東南アジアっぽい濃い顔立ちの女の人が写っている。たぶん、そっちがご飯を作ってくれない奥さんなんだろう。
 特別に意識する対象じゃない。したってしょうがない。でも、真奈が口にする”あいつ”という言葉に見え隠れする親しげな響きはボクの胸を重くした。
 二人できれいに食べ物を平らげて、彼女の部屋に移動した。彼女は自分の机の椅子に、ボクは他に椅子がないのでベッドの縁に腰を下ろした。
「あー、美味しかった」
「ありがと。そがん言うてもらえるのが一番ったいね」
 真奈は二人分のお茶を運んできてくれていた。彼女は大のコーヒー党だけど、さすがに和食の後で飲む気はしないようだ。
 アパートの七階の部屋は窓を開けておくと、いい感じに風が抜けて涼しかった。外のいろんな音が流れ込んできていて、二人で押し黙っていても静かというわけじゃない。もともとお互いにおしゃべりというわけでもないので、そうしていてもあまり気詰まりな感じはしない。
 しかし、ずっとそのままというわけにもいかない。
 生まれて始めて一人で女の子の家に遊びに来たという事実に、ボクは今さらながらドギマギしていた。しかも家族は誰もいない――文字通りの二人っきりだ。何か話さなきゃと思えば思うほど、何を話題にすればいいのか分からなくなる。
 宮地岳線に乗り込む前にあれほどやったシミュレーションは、まったく役に立たなかった。
「ねえ、亮太」
 真奈が口を開いた。ボクは声が裏返りそうになるのを懸命にこらえた。
「な、なに?」
「アタシとおったらつまらん?」
「……どうして?」
「さっきからずうっと黙っとうけん。――ま、しょうがなかよね。共通の話題って言うても空手しかなかし」
「……いや、そんなことないけど」
 けど、なんだ。自分で自分に思いっきりツッコミを入れてみる。ボクは助けを求めるように部屋を見回した。何もなければこの際、さっきの写真の夫婦でもいいからネタにするつもりだった。
 ふと、机の上のフォトスタンドに目が止まった。写っているのは面長のきれいな女の人だった。
「あれ、お母さん?」
「ん? ――うん、そう。なかなか美人やろ?」
 真奈は言った。得意げな笑みと誇らしさと寂しさが入り混じったような不思議な声音。
 目許は真奈より柔らかくて、くっきりした切れ長の二重瞼が印象的だ。緩やかなウェーブがかかったセミロングの髪がとても似合っている。自分の母親が比較対象だからか、他人の母親は実際以上にきれいに見えることが多いけど、それでも写真の女性は別格だった。真奈ももう少し大人になって髪を伸ばしたら、こんな感じになるんだろうか。
 小野リサに似てるような気がしたのでそう言うと、真奈は誰かに言われたことがあると答えた。
「でもさ、言うたら悪かけど、ファンでもなかなら小野リサの顔とか知らんよ。まさか、そん歳でボサ・ノヴァとか聴くと?」
「……悪いかよ」
 ボクは流行りのJ−POPやラップ、ヒップホップにはまるで興味がない。アイドルなんて論外だ。姉貴のせいでヒット曲くらいは耳に入ってくるけど、そうでなければまず聴こうとも思わない。さすがにまだジャズに手を出そうとは思わないけど、そうは言いつつこの前、天神のタワーレコードでジョシュア・レッドマンのアルバムを買ってしまった。
「ジジくさぁ……」
 真奈は呆れたように言い放った。言い返そうにも自覚があるので言葉が出てこない。
「そういう真奈はどんな曲を聴くのさ?」
「アタシ? アタシはねえ……」
 彼女はそこで言いよどんだ。
「デレク・アンド・ザ・ドミノスとか、ダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツとか。あと、ジプシー・キングス」
「誰だよ、それ」
 いや、ボクだってホール・アンド・オーツくらい知ってる。デレク・アンド・ザ・ドミノスもエリック・クラプトンが在籍したバンドだということは知ってるし、曲も三菱のクルマのCMで使われてるからそれだけは知ってる。ただ、どっちもボクらの世代が聴いてるバンドじゃない。第一、デレク・アンド・ザ・ドミノスはもう存在しない。ジプシー・キングスは本当に知らなかった。
 ボクはわざとらしく大きなため息をついてみせた。
「なんだよ、自分だってババくさいじゃん。普通、女の子っていえばB’zとかケミストリーとか、そうじゃなきゃジャニーズ系にキャーキャー言ってるもんじゃないの?」
「冗談言わんでよ。アタシにそがんと似合うと思う?」
「まあ、確かにね」
 思わず苦笑いしてしまった。アイドルの顔が印刷された団扇をもって飛び跳ねる真奈なんて、確かに想像もつかない。
 ボクはテレビの横にあるコンポのラックを見た。そこに並べてあるCDはほとんどが洋楽のものだ。中には知ってるバンドのものもあるけど、大半はそうじゃないものだった。
「洋楽、好きなんだね」
「父さんがそがんとばっかり聴くし、それで育ったけんね。でも、最近の曲も聴くとよ」
 何か聴いてみたいと言うと、真奈は少し考えて、シェリル・クロウの〈If It Makes You happy〉という曲を選んだ。そんなに最近の曲でもないような気がするけど、確かに「愛しのレイラ」よりは新しい。
 真奈はメロディに合わせて小声で歌を口ずさんでいた。
 意味を理解してるのかどうかは分からないけど、適当な怪しい英語じゃなくて、ちゃんと歌詞を覚えているようだった。ハード・ロックっぽい歪んだギターが奏でるゆったりしたメロディと、真奈の低くてちょっとハスキーな声は意外に合っていた。
「へえ。歌、上手いんだね」
「そう?」
 曲が終わってボクがそう言うと、真奈は照れ臭そうにはにかんだ。

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