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「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 3 章  

 取り留めのない話をしているうちに、外はすっかり暗くなっていた。留守番電話に遅くなると吹き込んではあったけど、それでも女の子の家にあんまり居座るわけにもいかない。ボクはベッドから腰を上げた。
「もう帰ると?」
「うん。ずいぶん遅くなっちゃったから」
「そのセリフ、普通は逆よね」
 可笑しそうに言って、真奈も椅子から立ち上がった。灯りを消そうとして、彼女は急に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、そうそう。アタシ、こんなことできるとよ。ちょっと行儀悪いっちゃけど」
「えっ?」
 ボクの返事を待たずに彼女は右構えの形をとると、そのまま一歩踏み出しながら身体を半回転させて、スゥッと右脚を持ち上げた。
 まるで爪先に糸がついていて、それを巻き上げているようなスムーズさだった。上半身を傾けてバランスを取っているので、勢いをつけずにやっているにも関わらず、身体はまったく揺れていない。
 何をする気だろうと注視してると、真奈は上げた足の指で蛍光灯の紐をつまんで器用に灯りを消した。ちゃんと三回引っ張って。
「すごかろ?」
「……あ、ああ、すごいね」
 言いながら、ボクの心はその場にはなかった。いくら膝丈のハーフパンツと言っても、これだけ高く脚を上げれば裾がずり上がって太腿が剥き出しになる。それもボクの目と鼻の先で。
「な、なんで、そんなことしようと思ったんだよ?」
 ボクはようやくそれだけ口にした。
「うーん、今、ちょっと上段回し蹴りの練習しよるとやけど、その最中になんとなくできそうやったけん」
「へえ……って、君、この前、ボクの目の前でハイキック、蹴ってなかった?」

 最初に道場で会った日、彼女はデモンストレーションと称して、サンドバッグに見事な上段回し蹴りを叩き込んでいた。
「あれとは違うやつばね。縦蹴りって言うて分かる?」
「分かるけど……。ひょっとして、真奈がやろうとしてるのって、いわゆるブラジリアン・キック?」
 真奈はコクリとうなづいた。
 ブラジリアン・キック――ブラジリアン・ハイ・キックと呼ぶ人もいる――は極真空手出身のK−1ファイター、グラウベ・フェイトーザの代名詞と言ってもいい変則的な上段縦蹴りのことだ。この技の本場ブラジルでは”クビゲリ”とも呼ばれていて、その名の通り、ハイキックから腰を返すことで縦方向の蹴り下ろしに変化させて、相手の首筋や肩口、鎖骨なんかを狙う。単純に蹴り込む回し蹴りに比べると威力は落ちるけど、予想外の方向から襲ってくるのでノーガードの状態で喰らうことになる。決まれば一撃必殺の技だ。

「できそうなの?」
「脚を上げるとこまでは、なんとか。でも、その先の腰の返し方のコツが掴めんとよね」
 もう一度、真奈は脚を上げた。さっきよりも身体を開いて、テレビで見るフェイトーザと同じ構えになっている。脚が最大到達点にきたところで彼女は腰を返そうとした。その途端にへっぴり腰のような感じでバランスが崩れた。
「危ないッ!!」
 慌てて手を伸ばした。真奈はとっさにボクの手と肩を掴んで何とか持ち応えた。体格に勝る彼女に引き倒されないように、ボクは必死に踏ん張っていた。
「ふー、ビックリしたあ」
 真奈は少しおどけて、額を拭う仕草をしてみせた。
「いや、そんな呑気な話じゃないから。まったく、倒れて腰でも打ったらどうするのさ」
「心配してくれようと?」
「なに、バカなこと言ってんだよ」
 からかうような口調に反応して、ボクもぶっきらぼうな言い方になる。まだ手を握ったままなことに気づいて、自分の身体が熱くなるのを感じた。
「亮太ってば、怒っとうと?」
「怒ってねーよ」
 クスクスと笑う真奈をジロリと睨みながら、乱暴な手つきにならないようにそっと身体を離した。転倒しそうになった彼女より、ボクの心拍数のほうがはるかに跳ね上がっているに違いなかった。

 一〇月が目の前とは思えないほど厳しい残暑が続いていても、日が沈めばそれなりに涼しくなってくる。昼間仕様の半袖のポロシャツなんかだと、風が吹くと肌寒いくらいだ。
 隣を真奈が歩いている。近くのコンビ二に行くというので、そこまで一緒に行くことになった。と言うか、半ば強制的にそういうことになっていた。
「ボクんち、方向違うんだけど」
「女の子一人で夜道歩かせるつもりとね?」
 都合が良いときだけオンナノコかよ。
「……どう考えても、真奈のほうが強いじゃないか」
「なんか言うた?」
「いいえ、なにも。行くんならさっさと行こうよ」
「ちょっと、なんでそがんせかせか歩くと!?」
 それはこの辺りはもう校区内で、思い浮かべるだけでも数人のクラスメイトの家があるからだ。

 晩ご飯までご馳走になっておいて今さらオタオタしたって始まらないと覚悟していても、誰かに見られることへの一抹の不安は拭えない。昼間ならたまたまで通るかもしれないけど、夜、暗くなって一緒にいれば何を言われるか――。
 恥ずかしいとか、バツが悪いとかいうことじゃなかった。悪いことをしてるわけじゃないんだから、周囲に囃し立てられたって堂々としていればいいことも分かってる。まったくその気がない子となら面倒なだけだろうけど、相手が真奈ならボクは心の中でガッツポーズをするかもしれない。
 恐れているのは真奈のほうから距離を置かれることだった。何だかんだ言っても女の子だ。その気がないのに――まあ、それはそれでへこむけど――騒がれるのは鬱陶しいだろう。そうでなくても彼女のことだ、ボクに妙な気を使ってくれかねない。
 そのせいか、どうしてもボクは早足になる。残念ながら彼女のほうがストライドが長いので、簡単に追いつかれてしまうけれど。
 コンビニでの買い物(格闘技系の雑誌と日用品をいくつか)を終えると、真奈は「じゃ、また明日ね」と言い残して自分の家のほうに歩き始めた。途中、一度だけ半身で振り返ると、屈託のない笑みで小さくバイバイをする。
 ボクは小さくため息をついて、小走りで彼女の隣に並んだ。真奈は驚いたように目を瞬かせた。
「どうしたと?」
「女の子一人、夜道を歩かせちゃいけないんだろ?」
 真奈はニンマリと意地悪そうに笑った。
「……へえ、意外と男の子やね」
「意外と、は余計だよ」
 道すがら、真奈は今夜のK−1ジャパンGPの話をしていた。内容を要約すると「武蔵は勝ったとしても判定でギリギリ」というものだけれど、それは日本中の総意に違いなかった。
「なんで相手の出方ばっかり窺うとるとかな。あれじゃ相手にペース握られると当たり前って。やられとうないとは分かるけど、自分から仕掛けてこん相手は怖くなかとよね」
「そんなに言うなら、真奈が出て行けばいいのに」
 ボクは混ぜっ返す。
「ホント、男やったらK−1ファイターになりたかったな」
 真奈は軽くロー・キックを放つ真似をした。他の女の子がやれば思わず引いてしまいそうな光景だけど、彼女がやると不思議と違和感はなかった。
「あーあ、何で上手くいかんとかなあ」
 さっきの転倒未遂のことだと気づくのに少し時間がかかった。
「たぶん、軸足が充分に返せてないからだと思うよ」
「軸足?」
 普通、正面から入って回し蹴りを放つ場合、軸足はおよそ九〇度回転する。蹴りというのは脚を振るんじゃなく、体軸の回転を脚に伝えて蹴るものだからだ。同じキックでも、軸足をしっかり置いて足を振るサッカーとはここが決定的に異なる。
 ボクもそんなに注意して見ているわけじゃないけど、覚えている限りではフェイトーザは上半身を倒しながら身体を開いて、脚を振り上げている。そこまでは普通の上段回し蹴りだ。しかし、そこからさらに腰を返す、つまり体軸を回すには、さらに軸足が回らなくちゃならないはずだ。グラウベの場合、股関節の柔らかさも加味されてはいるだろうけど、人体の構造上、曲がらない方向へはどうしようもない。

「亮太って理論だけは黒帯やね」
「どうせ格闘技オタクだよ。いいからやってみなよ」
「こう?」
 真奈はさっそくその場で軸足をすらしてみた。相手のほうを向くほど踵を返すと、イメージとしては高く上げた脚で何かを跨ぎ越すような格好になる。さっきのへっぴり腰が嘘のように、真奈の脚が空中できれいな弧を描いた。
「うまく蹴れるみたいだね」
 平然を装いつつも、ボクは内心、とても誇らしい気持ちだった。

 ところが真奈は納得していないようだった。
「グラウベって蹴った後、こがん後ろ向きになっとったっけ?」

 ……意外と細かいこと、気にするんだな。
「実際には相手に当たるから、そんなふうに振りぬくことってないような気がするけど。なんならビデオで確認してみたら?」
 真奈は腹立たしそうに首を横に振った。
「……それがさ、まとめとったテープにバカ親父が上から違うの録画してっさ。アタシ、グラウベの映像持っとらんとよね。今年はK−1自体に出とらんし」
「ボク、持ってるよ」
「えっ?」
「いろいろ録り溜めしたやつがあるんだ。試合もだけど、ニュースの映像なんかもね。道場でサンドバッグ蹴ってるやつとか。全部PCのハードディスクに放り込んであるからDVDに焼いてあげるよ」
「ホント!?」
 真奈はこれまでで一番表情を輝かせた。そんなに喜ぶほどのことなんだろうか?
「帰ってさっそく焼いとくよ。明日、学校で渡そうか。それとも道場でがいいかな」
「……それ、時間かかると?」
「焼くの自体は、そうだな、一時間もかかんないけど。板はあるし」
「今から貰いにいったらダメ?」
 意外と気が短い――というか、堪え性がないんだな。
 この時間でも家に誰もいないことには確信があった。たぶん、父親はゴルフのあとはそのまま中洲だし、両親がいないのに姉貴が家で大人しくしているはずはなかった。ボクはオーケーと答えた。
「でもさ、なんでブラジリアン・キックなんだい?」
 長身で手足が長い真奈がやれば、かなり見栄えがする技なのは間違いない。ただ、わざわざそんな難しい技を覚えなくても、彼女には左右どちらでも蹴れるミドルキックがあったし、派手な技ならサンドバッグ相手にローリング・サンダー(胴回し回転蹴り)だってやってのけていた。そのあと、師範代に怒られてたけど。
 真奈の返事は「だって、カッコいいやん」だった。
「それにさ、好きとよね、グラウベ」
「フィリョじゃなくて?」
「うーん、フィリョも嫌いやなかけど。極真の世界大会んときも数見肇やなくてフィリョを応援しとったし。でもアタシ、脚光浴びるスターより、なかなか勝てない二番手ば応援しとうなるタイプなんよね。自分がそうやけんかもしれんけどさ」
「誰か、勝てない相手でもいるの?」
 この一週間、道場で真奈を見ていて、少なくとも同世代には彼女を負かせる相手などいないように思えた。スタミナさえもてば男子とだって渡り合えるだろう。
「おるよ、もちろん」
「へえ……。そんなに強いの、そいつ?」
 唖然とした表情で振り返った真奈は、少し時間を置いてから急に吹き出した。ボクは恥ずかしさと気まずさに思わず口を尖らせた。
「――なんだよ、空手のライバルの話じゃないの?」
「あったりまえやん。アタシだって格闘技ばっかりしよるわけやなかよ?」
「だったら、誰に勝てないのさ?」
「それはナイショ」
 真奈はボクの目を覗き込むように見ると、意味ありげな微笑を浮かべた。


 ハードディスクの中から動画ファイルを選んで、DVDライターを起動した。
 本当はグラウベが映ってるところ――中でもブラジリアン・キックのシーンだけを抜き出したほうが短くまとまるし、そうするつもりだったのだけど、真奈が待っているのでまとめて全部放り込むことになった。ファンの彼女にすれば他のシーンだって見たいだろうから、それはそれで良いのかもしれない。
 外付けの高速ドライブにまっさらのディスクを挿し込んで、画面の”開始”をクリックした。
「よし、あとは焼き終わるのを待つだけ、と。――どうしたの?」
 真奈はボクのベッドにちょこんと腰掛けて、部屋の中を見回していた。なぜか眉間にシワが寄っている。
「きったなあ……」
 ボソリとした呟き。
 真奈はベッド脇のテーブルに載せてあるプレイステーション2のカバーを指で撫でた。白い綿のようなホコリが指先に纏わりついている。
「なんコレ。ホコリだらけやん。あーあ、幻滅。亮太って、もうちょっときれい好きって思っとったとに」
「あ、いや、その……」
 ボクは彼女の部屋、というか、彼女の家の中を思い出した。仕事が忙しくて家のことをできないお父さんと二人暮らしならば、家事はぜんぶ彼女がやっているということになる。なのに、散らかったり汚れたりしている様子はまったくなかった。
 指先をティッシュで拭うと、真奈はそれでプレステの本体の汚れも拭き取った。意識してやってるというより、そうするのが当然のような手つきだった。
「……そんなにひどいかな?」
「時間があったら掃除したかくらい」
「オトコの部屋なんて、誰だってこんなもんだと思うけど」
「知らんって、そがんこと。男の子の部屋とか入ったことなかし」
 真奈の目には呆れの色が浮かんでいる。と言うより、かなり怒っている。自分の部屋がどうだろうと他人にとやかく言われる筋合いなんてないのに、ボクは首をすくめて恐縮するしかなかった。
「そんなに掃除が好きだったら、今度、片付けてよ」
「してあげてもよかけど、知らんよ、ベッドの下のエッチな本とか見つかっても」
「ないよ、そんな物」
 少なくともベッドの下には。
 これ以上、真奈を不機嫌にするわけにはいかなかった。ボクは彼女をリビングに連れて行った。そこだって真奈の家に比べればかなり雑然としているけど、ボクの部屋よりはマシだった。K−1の放送を見るかと訊いたら、録画予約してるから見ないという返事が返ってきた。
「もうちょっと時間かかるから、それまでゲームでもやんない?」
 ボクは言った。真奈は顔をしかめた。
「えー、アタシ、ゲームせんけんよう分からんよ。プレ2とか持っとらんし」
「大丈夫、教えてあげるから。何やろうか?」
 真奈はボクが置いたゲームディスクのケースを覗き込んだ。そのうちの一枚に彼女の目は釘付けになった。
「ねえ、これやろ」
 彼女が取り出したのは「K−1 world GRAND PRIX 2002」だった。ホント、好きなんだな。
「えー、それ、かなり操作がややこしいよ?」
「よかけん。教えてくれるとやろ?」
「そうだけど……」
 基本的な操作のレクチャーと、彼女のコントローラーだけ一発で大技を出せるように設定してから試合は始まった。
 ハンデということでボクは日本人ファイターしか使わなかったけど、初心者の彼女がまともな操作なんかできるわけがない。ジェロム・レ・バンナVS武蔵というボクの苦戦必至の組み合わせでも、ハイパー・バトル・サイボーグはあえなく撃沈した。
「あぁん、ちょっと待ってって! なんで武蔵がそんな前に出てくると!?」
「ゲームだから」
 ボクは含み笑いを浮かべながら冷たく言い放った。こんな機会でもなければボクが彼女を負かすことなんてありえないので、大人気ないと思いつつ手を抜いたりはしなかった。
 結局、選手を変えながら五試合をこなした。マーク・ハントVS中迫剛で(たぶん偶然に)中迫の右ハイキックをかわしたハントのロングフックが炸裂したときにはヒヤリとしたけど、結局はボクの全勝だった。
「ふーん、しょせんゲームやもんね」
「負け惜しみはみっともないよ」
 真奈がプウッと頬を膨らませる。ボクは笑いを噛み殺した。
 
 時計を見ると、ちょうど一時間くらい立っていた。部屋に戻るとDVDは焼き上がっていた。インデックス画面からちゃんと再生できるかを確認して、ディスクをケースに収めた。
 リビングに戻ると、真奈はテレビのニュースをつまらなそうに見ていた。ボクは真奈の前にDVDを置いた。
 そのとき、玄関のほうで鍵を開ける音がした。無意味に陽気な声がそれに続く。
「たっだいま〜っ!!」
 リビングと仕切りなしで繋がってるダイニングに姉貴が顔を出した。
「あー、遅くなっちゃった。――あれっ!?」
 姉貴は家を間違えたように目を丸くしている。真奈は立ち上がると、軽く頭を下げて「こんばんわ、お邪魔してます」と卒のない挨拶をした。
「……こんばんわ。えーっと、亮太のお友だち?」
「道場で一緒なんだよ」
 ボクは口を挟んだ。
「DVDを貸してあげることになったんで、取りに来てんの」
「何よ、そんなにつっけんどんに言わなくてもいいじゃん。あんた、このごろ態度悪いよね」
「うるせえよ。また、あのヤンキーと一緒だったんだろ?」
「あんたに関係ないでしょ。あたし、また出かけるけど、ゆっくりしていってね」
「あ、えーっと……」
 真奈は当惑していた。当たり前だ。
「バカじゃねえの? もう帰るに決まってんだろ。それになんだよ、また出かけるって?」
「せっかく親が両方ともいないのに、家にいるなんてもったいないでしょ。トモコんちだからヘンな想像しないで」
「どうだか」
「ホントだってば。信じないなら別にいいけど。でも、あんた、お母さんにチクったらただじゃおかないからね」
 それだけ言うと、姉貴はさっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。
「なんだよ、いったい」
 振り返ると真奈が何とも気まずそうな顔をしていた。当然の反応だった。よその家に遊びに行って家庭内の諍いを見せられれば誰だってそうなる。
「あ、ゴメン。気にしないで。いつものことなんだ」
 真奈は何か言いたそうな顔をしていたけど、何も言わなかった。
 家に帰る彼女を送っていくために、ボクは部屋に薄手のパーカーを取りに行った。Tシャツとハーフパンツの真奈にも何かあったほうがいいだろうと思って、クローゼットの中を引っ掻き回した。
 賃貸マンションらしい薄い壁のせいで、隣の部屋の姉貴の声が聞こえてきた。携帯電話で誰かと話しているらしい。内容は聞き取れないけど、声の弾んだ感じは最近付き合い始めた彼氏との会話のように思えた。ついさっきまで一緒にいたのに、わざわざ電話で話さなきゃならない理由がボクには理解できない。
 出かけるときはちゃんと鍵をかけていけ、とドア越しに怒鳴ってから家を出た。自転車で送ろうかと思ったけどボクのマウンテンバイクは二人乗りには向かない。なので、行きは押して歩いていくことにした。
「DVD、ありがと。お礼は何がいい?」
「今日のご飯で充分だよ。あと、ちゃんと蹴れるようになったら見せてくれれば」
「いいよ。あっ、そうだ。亮太、練習台になってくれん?」
「カンベンして。まだ死にたくない」
 真奈がカラカラと笑う。このままずっとその笑顔を見ていたいけど、そういうわけにもいかなかった。
 マンションの敷地を出たところで、真奈が急に眉をひそめた。
 視線の先の路肩にライトを消した黒塗りのグロリアが停まっていた。街灯の下でも中が見えないスモークガラス。ドドドドド、という不機嫌な野良犬の唸り声のようなエグゾーストが洩れている。金色のモールドと大げさなエアロパーツのおかげで、まるで品の悪い霊柩車のように見えた。
 姉貴と付き合ってるヤンキーのクルマだ。
「――行こう。関わるとロクなことないよ」
 ボクは真奈の袖を引っ張った。幸い、彼女の家にいく道とは反対側にグロリアは停まっている。
 向きを変えようとしたとき、グロリアの運転席が開いた。
 降りてきたのはクルマと同じくらい――いや、それ以上に品のない男だった。

 アロハのような派手なシャツの胸元を大きくはだけていて、そこに大振りなネックレスがキラキラ光っている。スキンヘッドと言っていいほどのボウズ頭には細い刈り込みの線が何本も入っている。夜だというのに黄色いシャープなサングラス。ピアスと短いヒゲのセットも忘れていない。全体的に痩せた感じなのに、シャツの肩周りや袖から向きだしになった部分は筋肉で大きく盛り上がっている。
 ヤンキーはタバコを吹かしながら、携帯電話で誰かと話していた。いかにも何も考えてなさそうなチャラチャラした感じだけど、それはボクの先入観による偏見じゃないはずだ。
「そんでさ、ムカついたけんがあんヤツ、ぼてくりこかしてやったって。おう、たぶん、入院しとるんやないか――」
 何がおかしいのか、声には愉快そうな響きが含まれていた。
 会話の内容からして、電話の相手は姉貴じゃなさそうだった。姉貴はボクがK−1やPRIDEを見ているだけで機嫌が悪くなるくらい、その手の荒事にアレルギーがある。だったら、こんな男と付き合わなきゃいいのに。
「何かしよるね、あのヤンキー。たぶん、ボクシングと思うけど」
 真奈は言った。
「分かるの、そんなこと?」
「うん、まあ、何となく。あいつ、どっかで見たごたる気がするとよね」
「どっかって、どこで?」
「それが思い出せんとやけど……。まあ、地元の不良なら見たことくらいあったっちゃおかしゅうなかけどさ」
 真奈はそれっきり押し黙ってしまった。何かを思い出そうとするように眉間に深いシワが寄っている。
「えっ、俺? 今、彼女ば家まで送ったとこ。これから? ああ、ヒマばってんが。――マジで? 行く行く!!」
 ドラ声は静まり返った夜の住宅地ではやけによく通った。近所迷惑という単語はこの男の辞書には載っていないようだ。それ以前に辞書を持っているかどうか、怪しいものだけれど。
 ヤンキーは電話を終えるとグロリアに乗り込んだ。その場で乱暴にターンすると爆音を残して走り去った。とりあえず、姉貴がこのあと、あいつと一緒にいないのは本当のようだった。
 ボクらはそのまま歩き出した。やがて、大通りに出たところで真奈は口を開いた。
「……出すぎたことかもしれんけどさ」

「なんだい?」
「亮太のお姉さんが付き合いよるヤンキーって、さっきのあいつやなかと?」
 ボクは真奈の顔をマジマジと見た。目線が上を向くせいで、なんだか諭されているような気分になる。
「どうしてそう思うのさ?」
「あいつを見よる亮太の目が、すっごく怖かったけん」
「怖かった? ボクが?」
「そう。こいつにだけは何があったって負けられんって感じの、ね」
 真奈は「男の子の目やね」と付け加えた。
 自分があいつをそんな目で見ていることに、ボクはちょっと驚いていた。

 一ヵ月ちょっと前に初めて姉貴と一緒のところを目撃したとき、ボクは思わずあいつから目を背けていた。これでも結構要領はいいほうで、あまり苛められたりカツアゲされたこともないけれど、自分のひ弱さ――暴力に対する恐怖心は拭えなかった。
 それが微妙に変化したのは、あの霊柩車もどきを香椎駅の近くで見かけたときだ。
 塾が終わって帰ろうとしていたときで、グロリアの周りにはあいつと、あいつの仲間がたむろしていた。ボクがいるところは向こうからは見えづらいところだったけど、そもそも周囲を気にしている様子もなかった。
 グロリアの横には、どこかの高校らしい制服の女の子がへたり込んでいた。何を話しているのかまでは聞こえなかった。でも、遠目にも肩が大きく上下して、彼女が嗚咽を洩らしているのは分かった。
 取り囲む男たちは下卑た笑い声を上げていた。やがて、そのうちの一人が女の子を無造作に蹴り上げた。女の子はグロリアのボディに倒れ掛かり、あいつは慌ててその子の髪を掴むと、そのまま右で殴り倒した。顔を上げたとき、女の子の鼻腔からはダラダラと血がしたたっていた。
「おう、マコト。そう言えば、お前ん新しか彼女――」
 男たちの一人が口を開いた。あいつはその男のほうに向き直った。
「ハルカんこつや?」
「そうそう。あれはどがんするつもりや?」
「どがんって……まあ、そのうち、押し倒すつもりじゃおるけど」
「あの子、結構良かとこのお嬢さんじゃなかとや?」
「お嬢さんっていうわけやなかばってんさ。でも、親はどっかの一流企業の福岡支店長とか言いよったぜ」
「やったら、あんまり長引かせんと、さっさとやることやったほうがよかっちゃなかよや?」
「まあな。ま、あんまり焦って逃げられたっちゃ困るし、俺のタイミングでどげんかするよ」
「どげんかって?」
 あいつはニタリと笑って腰を卑猥に前後させた。男たちは顔面を血だらけにして倒れる女の子を尻目に、ヒューヒューとそれを囃し立てる。もちろん、その場での前後運動の被害者になるのは彼女だ。
 気がつくと、ボクは手のひらに爪の痕が残るほど拳を握り締めていた。
 もちろん、その場で飛び出していったところでボクに何かができたわけじゃない。余計なケガ人が一人増えただけだろう。その子のためにボクにできたことは警察を呼ぶことで、事実そうした。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくると、あいつらは女の子を残してその場を逃げ去った。そして、その女の子も口許をハンカチで押さえてよろめく足でその場を離れた。警察に保護されるわけにはいかなかったんだろう。たとえ被害者でも警察と関われば親や学校に連絡がいってしまう。
 ボクは逃げ去った女の子と姉貴を重ね合わせていた。
 たぶん、あの子はそれまであいつらを”楽しい遊び相手”くらいに思っていたんだろう。しかし、実際にはヒツジの皮をかぶった狼――いや、ただの野良犬に過ぎなかった。そして今、姉貴もその野良犬の群れの中にいる。
 何としても、今のうちにあいつらと縁を切らせなくちゃと思った。
 でも、家に帰ってボクが見たのはあのヤンキーと楽しそうに携帯で話している姉貴の姿だった。それはどんなに愚鈍な人間でも”こりゃ話しても信じてはくれないよ”と悟るほど、二人だけの世界だった。
 ――どうすればいい?
 ボクは眠れないまま、ずっと考えを巡らせた。

 途中の公園に寄って少し休んだ。
 自転車を貸してくれと言うのでハンドルを渡した。真奈は器用にマウンテンバイクを操って、前輪を上げたままホッピングで階段を下りてみせた。やったことがあるのかと聞くと、真奈は初めてだと言った。
「まだ小さかった頃、団地のエレベータが故障して、ボクと姉貴と二人で中に閉じ込められたことがあってさ」
 ボクは言った。真奈はボクのほうを振り返った。
「今、思えばほんの一〇何分の話なんだけど、中のボクらにそんなこと分かるわけないし、もう、ホントに怖くって。今でも、そのときのことはよく覚えてるんだ」
「ふーん。……それで?」
「灯りも切れちゃってるから真っ暗で、ボクはもうビービー泣いちゃってさ。でも、姉貴がそんなボクを懸命に宥めてくれてね。ギュッて抱きしめたまま、ずっと「だいじょうぶだから、だいじょうぶだから」って繰り返すんだ。自分だって怖かったはずなのに」
 小さかったときのうっすらとした記憶。どこまでが本当でどこからが思い込みなのか、まるで判然としない。それでも、姉貴が繰り返す「だいじょうぶだから」は、しっかりとボクと心に残っている。
「やけん、お姉さんを守ろうって空手を始めたってわけ?」
 真奈が言った。ボクはうなずいた。
「我ながら単純だな、とは思うよ。そんなすぐに強くなれるわけじゃないしね。でも……後悔したくないんだ」
「後悔?」
「確かに君が言うように、姉貴が酷い目に遭うことなんてないのかもしれない。あったとしても、そのときにボクがその場にいられるとも限らない。――でも、ひょっとしたら姉貴に助けが必要なとき、その場に居合わせることだってあるかもしれないよね」
 真奈は小さくうなずいた。
「なかとは言えんよね」
「なのに、今のままのボクじゃ何の役にも立たない。それが嫌なんだ。後になって”ボクが強かったら姉貴を救えたのに”なんて、馬鹿げた後悔をしたくないんだ」
 誰にも言うつもりはなかったのに、ボクは真奈に本心を打ち明けてしまっていた。
 真奈はボクの前に出ると、急に真面目な顔になった。睨んでいるといってもいいほど鋭い視線。
「でも、ケンカってそがん甘かもんやなかよ」
「分かってるよ、そんなこと」
「ううん、分かっとらん。道場で鍛えた立ち技の強さと路上でのなんでもありの強さはまったく別のもんやもん。こがんこと言いとうなかけど、亮太があのヤンキーに立ち向かうのは子猫が虎に噛み付くごたるもんよ。アタシは他の方法を探したほうがよかと思うっちゃけどね」
 ボクは真奈を睨み返した。
「もちろんそうだね。ボクがやってることは、ただの自己満足なのかもしれない。笑いたきゃ、笑ってくれても構わないよ」
 ボクは自転車の真奈を追い越して歩き出した。
 そんなことは分かってる。でも、分かってるからって逃げ出せるはずがないじゃないか。
 背後で真奈が自転車を押しながらついてくる気配がする。それがやがて、スピードを上げてボクの隣に並んだ。
「お姉さんのこと、そがん好いとうと?」
「……人をシスコンみたいに言うなよ」
 ボクは小さくため息をついた。真奈がクスッと笑う。
「見てのとおり、仲は良くないよ。顔を合わせればお互いに文句ばっかり言ってる。でも、たった一人の姉貴だからね」
「よかねぇ、そういうと。アタシ、一人っ子やけんね。羨ましい」
「そうかな?」
「そうって。あ〜あ、アタシも守ってくれる亮太んごたる弟が欲しかぁ」
 ……弟、ですか。
「ねぇ、亮太」
「なんだい?」
「明日から実戦的な練習、始めるけんそんつもりで準備しとって。まずはディフェンスの練習から」
「どうしたのさ、急に?」
「だって時間がなかとやろ? チンタラ基礎からやっとったら、あいつに勝てるくらいになった頃にはヨボヨボになっとうよ?」
「いや、それはいくらなんでも言い過ぎだろ」
「どうだか。とにかく、ビシビシ鍛えるけんそんつもりで。グローブはつけるけど、ホントに当てるけんが覚悟しとってね」
「マジ? あの……どうかお手柔らかに……」
「なんで肝心なとこで気弱になるとね!? ――まあ、よか。そがんとこも含めて叩き直してやるけんね」
 そう言って真奈はニヤリと笑った。

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