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「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 4 章  

「お〜い、亮太。ちょっとよかや?」
 翌日、月曜日の三時限目の休み時間。杉野がボクの教室に顔を出した。
「なんだよ?」
 ボクは言った。杉野はただでさえ細い目をさらに細くして、意味ありげな含み笑いを洩らした。
「佐伯から伝言。昼休み、体育館に来いって」
 体育館?
「ま……佐伯さんが?」
「おまえ、今、マナ・サップって言おうとしたろ?」
 ボクは「真奈」と言いそうになったのだけれど、彼女を名前で呼ぶ仲(というのも事実とちょっと違うけど)だというのは周囲には秘密だ。特に目の前のこいつには。
「なんだろ、一体?」
「さあ? 俺はただ、佐伯から「三浦を呼んで来てくれ」って頼まれただけやもん。――おまえ、佐伯か、佐伯の友だちに何かしたんか?」
 杉野は無意味に声をひそめた。
「まったく心当たりないけど。どうして?」
「今まで、佐伯が誰かに呼び出されることはあっても、誰かを呼び出すこととかなかったけんな。ウチのクラスの男子の間じゃ「眠れる獅子が遂に目を覚ました!!」とか言って大騒ぎになっとるんぜ」
「意味分かんないけど……。まあ、いいや。とにかく行くよ。そう伝えて」
「分かった。俺、こっそり着いてったほうがいいか?」
「何で”こっそり”なんだよ?」
「俺、まだ死にとうないもん」
 ボクは心の中で盛大なため息をついた。どうしてこんな薄情者と友だち付き合いをしてるんだろう。
「いいよ、一人で行く」
「そうか。覚悟はできとるってわけやね」
 杉野の中では勝手に妙なストーリーができあがっているようだった。バカバカしくて付き合っていられないので、教室の時計を指してやった。四時限目が始まるまであと二分しかない。
「そんじゃな、亮太。――冥福を祈る」
「健闘を祈る、の間違いだろ」
「相手がマナ・サップなら同じやろ」
「さっさと行けよ」
 ボクは手で杉野を追い払った。
 二十一世紀になってずいぶん経つけど、気に入らないやつを校内の目立たない場所に呼び出すという伝統は、どこの学校にも残っているらしい。前の学校じゃプールの裏が不良少年・少女たちの屋外特設リングだった。ここでは昼休みの体育館がそうなんだろうか。
 もちろん、真奈にそういう目的で呼ばれるはずも覚えもない。何か他の理由があるのだろう。それが何なのか、まるで見当がつかないけど。
 
「――おそいッ!!」
 真奈はとんでもなく不機嫌だった。
 体育館の一角には六メートル四方くらいにマットが敷き詰められていて、彼女はその上で軽くストレッチをしていた。学校の体操服じゃなくて、ナイキのトレーニング・ウェアの上下を着込んでいる。足にはサポーター。手には総合格闘技で使うようなオープンフィンガー・グローブ。その真新しいブルーがやけに禍々しく見える。
「ど、どうしたの?」
 ボクは恐る恐る訊いた。真奈は獲物を射殺すような視線をボクに向けた。
「昼休みになったら、体操服に着替えてすぐ来いって言わんかったっけ? あと、給食は食べるなって」
「えーっと……、そうなの?」
 杉野とは後でキッチリ話をしておかなければなるまい。度し難いお調子者なのは知ってたけど、伝言も満足にできないとは思わなかった。
「って言うか、何でボクが給食を食べてきたって分かるのさ?」
「シャツの胸にケチャップが跳ねとるって。あのね、そういうのってなっかなか落ちんとよ?」
「あのー、中学生とは思えない発言なんですけど……」
 真奈はボクの指摘を素っ気なく聞き流した。
「とにかく、始めるけんね」
「……始めるって、何を?」
「昨日、言ったやんねって。明日から実戦的な練習をするからってさ」
「えーっ、ここで!?」
 ボクは思わず大きな声をあげた。
 その拍子に体育館の窓越しに空気がざわつくのを感じた。外にはかなりのギャラリーがいるようだった。まあ、杉野あたりにボクを呼び出させるのは、メガホンを持ったサンドイッチマンに伝言を頼むのと同じだった。
「ちょっと待ってくれよ。練習は道場でやるんじゃないの?」
「冗談。あんたが道場で練習しよる間、誰がお姉さんを見張ると?」
 ――なるほど。そういうことか。
 
 昨日、家に帰る道すがら、ボクと真奈はどうやって姉貴とあいつを見張るかについて話した。真奈を巻き込むつもりはまったくなかったけど、彼女はそれが当たり前のようにアイデアを出してきた。
 実際のところ、あの二人はそれほど頻繁に会っているわけじゃなかった。姉貴の高校は意外と厳しくて、親が休みの届けをしない限り、休んだ生徒の家に電話がかかってくるからだ。つまり、週五日の朝から夕方までと土曜の昼までは問題ない。それに姉貴はボクと同じく香椎にある塾に通っている。ここはさらに厳しくて、サボれば間違いなく親へ連絡が行く。ここが火、木、金の週三日。女の子一人での電車通いは危ないという理由で、終わると母親が迎えに行くことになっている。今は母親は不在だけど、その間は父親が行くはずだ。したがって、塾がある日に二人が会うことはまず不可能だ。
 問題はあとの四日だ。
 この四日のうち、日曜以外の三日は夕方六時から一〇時まで家の近くのコンビニでバイトしている。あいつとの接点があるとすればここだ。出会ったのもおそらくはここじゃないかとボクは睨んでいる。
 ただ、バイトが終われば姉貴はすぐに家に帰らなくてはならない。一度、そのまま友だち(女)の家に行って遅くなり、今度やったらバイト禁止を言い渡されているからだ。それにコンビニ周辺には人の目がある。ボクが夜の通りで見たような事態にはならないだろう。
 つまり問題になるのは土曜の午後と日曜日だ。ボクはそう言った。
「でもさ、バイトは休んだって親に連絡は行かんよね?」
 真奈は言った。
「そうだけど……。じゃあ、どうすればいいんだよ?」
「手っ取り早いとはバイトしよるはずの時間帯に店に居座ることやけど、そういうわけにはいかんよね。まあ、遠巻きにでも見張るしかなかろうね。幸い、あんたは道場に行っとる時間やから、その間は出歩けるし」
「なるほどね」
 道場に払った月謝がもったいないけど、そんなせこいことを言ってる場合じゃなかった。
「でもさ、だったら、さっき言ったボクの特訓はどうなるのさ?」
「うーん、それはちょっと考える」
 
 その考えた結果が、昼休みの体育館というわけだった。
「だったら、こんな「真昼の決闘」みたいなことしなくてもよかったじゃないか」
「ああ、これ? そのほうがウケるやろうって思って」
「……誰に?」
「外で見てるギャラリーに。秘密にしとったってどうせ知れ渡るし、それなら最初からオープンにしといたほうがウダウダ言われんで済むしね。学校側にはあんたがウチの道場に入ってきたけどまるでダメなんで、特別に稽古をつけてやってるってことになってんの」
 ――何ですと?
「ちょっと待ってよ。空手のこと、みんなにしゃべったの?」
「しょうがないやん。そうせんと体育館、使わせてもらえんし。あ、みんなに在らぬ誤解されんように、あんたは空手を教えてあげる代わりにアタシの宿題とか面倒なことをやらせる子分ってことになってるから、話は合わせとってね」
「マジかよ……」
 在らぬ誤解をされるほうが三〇〇倍くらいマシなんだけど、言っても始まらなかった。真奈の態度に一片の悪意も感じられないのが、ボクの憤りを行き場のないものにしてしまっていた。
「何か、質問は?」
「……ないよ」
「オーケー、じゃあ、始めよっか」
 着替えに戻る時間がもったいないからとりあえず靴下を脱げ、と言った。ボクは言われた通りにした。
 その間に真奈はダンスのような軽やかなステップでシャドウ・ボクシングを始めていた。左のダブルから右、そして左のボディアッパー。軽くバックステップしてから、左にサークリングしながら軽快に矢のようなジャブを集める。
 閃光のようなハンドスピードだった。一発一発に体重を乗せて撃ち込む空手の突きより、手数を放つこの手のパンチのほうが彼女に向いているような気がした。実際、彼女は突きはあまり得意でもないし好きでもないと言っていた。
「へへっ。付け焼刃にしてはサマになっとるやろ?」
 呆然と見つめるボクに真奈は笑いかけた。
「そうだけど……。どうしたのさ、いきなり?」
「あのヤンキーがどんなスタイルかは分からんけど、ちょっとでも対策しといたほうがいいけんね」
 そう言えば真奈はあいつをボクサーだと言っていた。
「だからボクシング?」
「そう。実はウチの半居候が元ボクサーなんよ。で、ご飯すっぽかした罰にちょっと教えてもらったってわけ」
 真奈は事も無げに言う。しかし、それはいくら彼女が格闘技に関するセンスに恵まれていても、口で言うほど簡単なことじゃない。よく見ると真奈の目は充血していた。ひょっとして寝不足になるくらい練習したんだろうか。
 真奈はもう一度、グラブを打ち合わせた。
「さ、おしゃべりは終わり。あんまり時間ないとやけんね」
「分かった」
 ボクは首を軽く回して肩を上下させた。そして、ゆっくりと一礼してからマット――いや、リングに上がった。


「……いててて」
 一晩中、冷却用のジェルシートを貼っていたにも関わらず、目の周りの腫れはまったく引いていなかった。
 時計を見た。七時半。もぞもぞと起き上がって、剥がしたシートを丸めて屑籠に放り込んだ。
 昼休みのスパーリングが始まって――水曜からはそれに放課後が加わった――昨日でまる五日が過ぎた。
 もともと運動慣れしていないボクの身体は悲鳴を上げていた。さすがに筋肉痛のピークは過ぎていたけど、身体が水を吸った砂袋のように重い。
 鉛のような脚を引きずって顔を洗いにいく。水のひんやりした感触がある間だけは痛みを忘れることができるけれど、タオルで拭えば擦れて痛みがぶり返す。だからって顔を拭かないわけにはいかない。他人の顔に触れるように、そろそろとタオルに水気を吸い取らせた。
 意を決して、鏡に映る自分の顔を覗き込んだ。
 唇の端は切れて青黒くなっている。目の周りに限らず、顔中の皮膚がグローブで擦られて真っ赤だ。顎のちょうつがいの部分もなんだかガタがきているようで、顔全体が歪んでしまっているような気がする。
 顔も最悪だけど、身体はもっと悲惨だ。上半身の前半分でパンチを受けていないところは一箇所もなかった。鳩尾と脇腹にだけは絶対に喰らうな、と言われたので意識してガードしたのに、覚えているだけでも鳩尾に三発、脇腹にいたっては五発も喰らってしまっていた。
 真奈が放つのは手数とスピード優先の軽いパンチ、いわゆる手打ちだ。おまけにグローブも(初日以外は)練習用の柔らかいものを使っている。だから、当たったところで単発ではそれほどのダメージはない。被弾したところにはじけるような傷みを残していくだけだ。
 ただ、それでも何発も喰らえばやがては身体の芯まで響いてくる。逆に言えば、それだけボクが真奈のパンチを避けきれていないということだ。
「ちょっとお、亮太! あんた、休みだからっていつまでも寝てんじゃないわよ!! ――あれっ?」
 ボクの部屋のほうで姉貴の声がする。自分が学校に行く日にボクが休みなのが気に入らないらしい。逆のときは何があっても起きないくせに。
「……なんだよ、とっくに起きてるっつーの」
 ダイニングに入っていくと朝ご飯が並んでいた。トーストと巣篭もり卵、ポテトサラダ。姉貴が作るご飯はガスレンジを使わないのが特徴だ。トーストはマヨネーズとチーズをのせてトースターへ。巣篭もり卵は袋売りの千切りキャベツに卵をのせてラップして電子レンジ。ポテトサラダは惣菜屋のパックから移すだけだ。今まではそれが当たり前だと思っていたけど、あれだけ料理をこなす中学三年生を見ると、姉貴がものすごい手抜き女に思えてならない。
 早く母親に帰ってきて欲しい気がしないでもない。ただ、帰ってきたところでそれほど食卓事情が改善するわけでもなかった。どうして母娘でこんなつまんないところが似なきゃなんないんだろ。
「ああ、亮太。早くご飯、食べちゃってよ。片付けらんないじゃない」
「いいよ、自分でやっとくから」
 ボクは冷蔵庫から牛乳のパックを取り出して、マグカップに注いだ。
「父さんは?」
「休日出勤に決まってんでしょ。今週、あたしの送り迎えのために残業できなかったからって。ホント、一に仕事、二に仕事、三、四も仕事で五が巨人なんだから」
「家族は?」
「一〇番目までに入ってるといいけど。あ、あたし、今日は遅くなるからね。模試があるから」
「へえ、そう。バイトは休み?」
「ううん、それには間に合うように帰ってくる」
 大学入試の模擬試験の会場が博多駅前の大手予備校なのは、事前に確認済みだ。午前中は学校だし、今日はちゃんとバイトに出てることを確認すれば、あとはゆっくりできそうだ。
「それにしてもあんた、ちょっとやり過ぎなんじゃないの?」
 姉貴はボクの顔を見ながらしみじみと言った。
「何がだよ?」
「カツアゲにでも遭ったみたいよ。ナニ考えてんのかしらないけど、空手なんてやめたほうがいいんじゃないの。あんたみたいなもやしっ子にはムリだって」
「うっせーな。さっさと学校行けよ」
 自分でも意外なほどドスが効いた声だった。姉貴は「……何よ、心配してやってんのに」とブツブツ言いながら席を立った。
 姉貴が出て行ったあと、テレビを見ながらテーブルの上のものを胃に詰め込んだ。正直、食欲はなかったけど、食べないと身体が持たない。食べ終わった皿をサッと洗って、食器洗浄機に押し込んだ。
 振り返ると食器棚のガラスにボクが映っていた。寝起きというだけじゃない冴えない表情。瞼がボンヤリ腫れ上がっているせいで、やけに膨れっ面に見える。姉貴が言ったように、これじゃまるで虐められっ子だ。

「とりあえず、受けは捨てるから」
 初日の月曜日の練習開始。開口一番、真奈はあっさり言い放った。
「ちょっと待ってよ。ディフェンスの練習だって言わなかった?」
「言ったよ」
「だったら、まずは受けからやるもんじゃないの?」
 真奈から実戦的な練習をやると言われて、実は昨夜、ボクはあらためて空手の入門書を読み返していた。もちろん本なんか読んだって技は身につかないけど、理屈を分かっていたほうが少しでも覚えがよくなると思ったからだ。
「あんたがやるんが空手の試合なら、それでも良いとやけどねぇ」
 真奈は言った。反論は予想していたのか、声音に変化はない。実は「口答えするな!!」とか一喝されるだろうと思って、内心ビクビクしていたのだ。
「どういう意味だよ。相手がボクシングだって同じだろ?」
「じゃあ訊くけど、あいつがメリケンサックはめとったらどうすっと?」
「それは……」
 ボクは答えに詰まった。
「いい? 路上のケンカじゃ相手の攻撃はぜんぶかわすのが基本。ブロックは避け切れなかったときの緊急避難。みんなが見よる前でのタイマンならあんまり卑怯な真似もできんけど、あんたが相手にしようとしてんのは、メリケンサックどころか、ナイフ出してきてもおかしくない性質の悪いヤンキーなの。あんた、防刃ジャケットでも着て闘うつもり?」
「……ごもっとも」
「ま、それでも本来は防御から入るべきなんやけど、あんたの場合は時間ないから」
「分かった。で、どういう練習をするんだい?」
「アタシがパンチを撃つから、あんたはそれをかわしながらアタシが出した手を捕る。そんだけ」
「それだけ?」
「かわすんだって、ホントはそれなりの技術が要るんよ。でも、それを系統立てて身に付けるには、やっぱり時間が足りんしね。だったら、少しでもパンチを”見る”ことで経験を積むしかなかろ?」
 確かにそうだった。
「手を捕るっていうのは?」
「出した手を狙われるっていうんは嫌なもんよ。あんた、吼えながら噛みついてくる犬の鼻面、殴れる?」
「なるほどね」
 それだって相手のハンドスピードについていけなければ同じことだけれど、それを言ったら対策は何もないことになる。要は真奈のパンチを見ることで少しでも距離感やタイミングをつかめ、ということだ。
「ボクサー対策っていうから、ロー・キックの練習とかやるのかと思った」
「相手は蹴ってこないから、ローで出足を潰しちゃえばオーケーってやつ?」
 ボクはうなづいた。真奈は少し小馬鹿にしたように口許をゆがめた。
「よほどの実力差があるか、そいつがボクシング始めて間もないなら有効かもしれんけどね。蹴りを使えないからって自由に脚を蹴らせてもらえるほど、ボクサーの攻撃範囲は狭くないよ。アウトボクサーならかわされるし、インファイターならステップインで入ってこられるし。蹴り終わりは棒立ちでいい的なんよ」
 パンチは移動しながら撃てる。でも、蹴りは基本的に足を止めないと撃てない。しかも蹴り足を戻すまでは片足立ちになる。真奈が言ってるのはそういうことだった。
 真奈は時計にチラリと視線を送った。グローブの手のひらをわざと大きな音を立てて打ち合わせる。
「さ、おしゃべりは終わり。さっさと始めよっか。――あ、そうだ。せっかくだし賭け、せん?」
「賭け?」
「そ。あんたがこの一週間で一回もアタシの手を捕れんかったら、アタシの言うこと、何か一つきくっていうのは?」
「なんだい、それ。じゃあ、もし捕れたら?」
「そのときは――アタシも何か、亮太の言うこときくよ。でも、あんまりヘンなのはナシね」
 いくらボクが素人だからってそれは舐め過ぎだ。ボクはちょっとムッとしていた。いくら何でも一度も捕れないことはない。
 ボクはオーケーと答えた。
 
 しかし、ボクはそれから一度も真奈の手を捕まえることができずにいた。
 もちろん瞬間的に触れることはできるし、何度かはパンチをもらう覚悟で組み付いたりもした。ところが女の子とは思えない力で振り切られるか、反対側のパンチを喰らって押し戻されてしまうのだ。
 ――相手の軸線上で勝負してどうすっとねッ!!
 真奈の叱咤が脳裏に甦る。
 バックナックルを除けば、どんなパンチも身体の軸線上にしか体重を乗せては放てない。さらにフックは身体の内向きにしか放てないので、いきおい、パンチをかわすには相手のリードパンチの外側に移動して、身体を開かせることが重要になってくる。
 それがいわゆる”リングを丸く使う”ということなのは、理屈としては分かる。ただ、分かっていることと実際にやれることの間には天地の開きがあった。
 タイムリミットまであと二日。
 別に真奈にボクの言うことをきかせたいわけじゃない(いや、ヘンな妄想をしたことは認める)けれど、一週間も付きあわせておいてまったく進歩がないというのも恥ずかしいというか、情けない話だった。今日こそ成功させてやろうと、ボクは目を閉じて真奈のパンチを思い浮かべた。
 そういえば今日の練習をどこでやるのか、聞いていなかった。
 電話しようと部屋に戻ったところで、携帯が鳴った。着メロは宇多田の「traveling」――真奈からだ。
「もしもし?」
「あ、亮太? 起きとった?」
 何故か、声が少し弾んでいる。朝練でもしてたんだろうか。
「うん、ついさっき。どうしたの?」
「ちょっとね。今日のお姉さんの予定は?」
「午前中は学校、午後は予備校で模試。夕方からはバイト」
「そっか。となると、怪しいのはその後ってことよね」
 そうだねと答えかけて、何かが引っかかった。
「どうして?」
「えっ? あ、いや、そうかもって思っただけ。ホラ、夜遊びさせんようにしようにもお母さん帰ってこんし、お父さんはまったく期待できんって」
「……そうだけど」
 姉貴に甘い父親はこの際、夜遊び防止装置としてはまったく役に立たない。実は水曜日の夜、敵は「ちょっと友だちのところへノートを借りに行く」とほざいて、バイト先からの帰宅時間を引き延ばそうとしていた。あっさり「いいよ」と答えそうになった父親の後ろでボクが「母さんから電話だけど何か伝えることある?」と怒鳴ったから、渋々諦めて帰ってきたのだ。
「ところで亮太、今日は予定あると?」
「ないよ。っていうか、今日はどこで練習するのさ? 道場?」
「それなんやけど、ちょっと目先を変えるっていうか――プールに行かん?」
「はあ?」
 そりゃまた唐突な。
 なんでも、真奈のお祖父さんの会社がお付き合いで入っているスポーツクラブが今泉(天神の周辺らしい)にあるんだけど、誰もカードを使わなくて勿体ないということで、彼女に回ってきたらしい。ちょうど二枚あるので一緒に行かないか、ということだった。
 いくらダラダラ暑くてもさすがにプールという季節じゃなかったけど、身体が痛いのもあるし、何より真奈の水着姿が見られる(体育の時間は男女別だった)とあっては、断る理由なんてどこにもない。
「街中かあ。この前みたいに香椎からバスで行く?」
「ううん、アシがあるから大丈夫。今から迎えに行くけん、準備しとってね」
 真奈はそう言うと返事を待たずに電話を切った。
 アシ?
 誰だろう。写真に映ってた”あいつ”だろうか。そう思うと、ちょっとだけ渋い気分になる。
 でも、真奈はカードは二枚だと言った。仮に送り迎えがあいつだとしても、一緒にプールに行くのはボクだ。それにあいつも真奈のお父さんと同じ警察官なら、そんな一日中、時間が空いてるわけでもないだろう。
 お祖父さんあたりじゃないかな、と思いながら、ボクは水着を押し込んだクローゼットを引っ掻き回しにかかった。

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