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「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 5 章  

 マンションの敷地の木陰で、真奈はボクを待っていた。
 それはいい。問題はその傍らに真っ赤なバイクが停まっていることだ。シートの上には黄色と黒のライン、そして「46」の番号が入ったヴァレンティーノ・ロッシのレプリカ・ヘルメットが載っかっている。
「ねえ、ちょっと訊いていいかな?」
 ボクは言った。真奈は白々しいくらいキョトンとした顔をしている。
「なに?」
「君、ボクと同じ中学生だよね? それ、いったい何?」

「これ? スズキのバンディット250。カッコよかろ?」
「そうだね、ってそういう問題じゃないから」
 まあ、そのバイク――バンディットは確かに格好良かった。カウルのないネイキッドと呼ばれるタイプで、ボディ・フレームを構成する鋼管がそのまま流れるようなデザインのテールエンドにまで繋がっている。タンクには筆記体のような書体の”Bandit”というロゴが見える。
「どうしたの、これ」
「父さんのバイク借りてきたと。友だちと遠出するからって」
「えーっと、君のお父さん、警察官だよね?」
 真奈はボクの疑問をさらっと受け流すと、何事もなかったように「行こっか?」と言った。手にしていたヘルメットをボクに押し付けて、さっさとシートにまたがる。
 いくぶんの(いや、かなりの)心配がなくはないけど、ここでゴネても仕方ない。ユニオンジャックをデザインしたヘルメットをかぶって、彼女の後ろに乗った。
 腰に手を回していいものか迷ったけど、振り落とされたくないのでそっと手を回した。女の子なのにウェストにはまったく無駄な肉がなかった。これで本人は太りやすいとか寸胴だとか言うんだから――練習中、ずいぶん愚痴を聞かされた――女の子の気持ちは理解できない。
「じゃあ、行くよ」
「オーケイ。安全運転で」
「努力はする」
「なんだよ、努力って?」

 返事を待たずにエンジンが始動した。同じスズキでも従兄弟が乗ってたGSX−R400に比べると一回り小さいけど、それでも野太い排気音には充分な迫力があった。
 無免許だというのが信じられないくらいスムーズに、ボクらを乗せたバンディットは道路に飛び出した。
 走り出してしまえば、捕まるとか捕まらないとか、そんなことはどうでもよくなった。風を切る音で会話はまったくできないけど、二人で一つの空間を共有しているということがボクの胸を熱くしていた。前後が逆だったらよかったのにな、と少しだけ思った。
 何かを感じたのか、真奈は首を後ろに向けて、小さくうなずいた。

 スポーツクラブは薬院六つ角の近くにあった。
 入館料を払って更衣室に入った。さっそく着替える。学校で使う水泳パンツでは情けないので、海水浴に行ったときのサーフパンツにした。タオルとスイミングキャップ、ゴーグルを持ってプールに向かう。
 スポーツクラブに来るのなんて初めてで、どういう態度でいればいいのかなんてまるで分からなかった。プールサイドにいるのはみんなボクらよりずっと年上で、一番近そうな人でもやたら筋肉質の大学生だった。水泳部の人なのか、競泳用のブーメランみたいなパンツだった。恥ずかしくてボクにはとても履けない。
 ビルの二階にあるとは思えない広々としたプールには、秋晴れの陽射しが差し込んでいた。それがゆっくりと揺れる水面に反射してキラキラと光っている。もっと消毒液の匂いがするもんだと思っていたけど、そんなことはなかった。学校のプールとは違うんだろう。
 ボクはプールサイドでストレッチをしながら、真奈が出てくるのを待った。
 かつて、これほどドキドキしたことがあっただろうか。
 どんな水着で出てくるんだろう、とか、ひょっとしてスクール水着だったらボクだけそうじゃないのは悪いかな、とか、ひたすらどうでもいい考えが頭の中をグルグルと駆け巡っている。
「――亮太!!」
 真奈の声がボクを呼んだ。振り返ると、こっちに小走りに駆けてくる彼女が見えた。
 声が出なかった。
 胸元に”SPEEDO”のロゴが入ったブラックのワンピース。サイドにブルーの幅広のラインが入っていて、ただでさえ長身の彼女をよりスマートに見せている。ちょっと胸の起伏には欠けるけど、そんなことは気にならないほど彼女は魅力的だった。
 さっきの大学生がボクと真奈を交互に見て、怪訝そうな顔をしていた。大人びた長身の真奈と痩せっぽちのボク。傍から見ればかなり不釣合いに見えるに違いなかった。好意的に解釈しても姉と弟か。
 空手を始めて、それなりに筋肉がつき始めてはいるけど、それが鍛えた感じに見えるまでにはまだ時間がかかる。その前に真奈の身長を追い抜かないと、どれだけ横幅が増えても同じだ。それにはどれくらいの時間がかかるんだろう?
「お待たせー。更衣室が混んどったんで、時間がかかったんよ」
「プールサイドを走ると危ないよ」
 ボクは素っ気なく言った。真奈はちょっとムッとしたように口を尖らせた。
「ふーんだ。亮太ってホント、小言が多いって」
「どうせ若年寄だよ、ボクは」
 そっぽを向くとどうしてもぶっきらぼうな物言いになる。もちろん、気に入らないことがあるわけじゃない。彼女のほうを向いていたら、視線を引き剥がすことができなくなりそうだったからだ。
 真奈はそんなボクの気持ちになんてまったく気づいちゃいなかった。彼女はストレッチもそこそこに水中に身体を滑り込ませた。
「真奈! ちゃんとゴーグルしないと!!」
「えっ!? あ、そうだ、忘れとった!!」
 真奈は弾けるように笑う。ボクはその笑顔を――それと彼女の水着姿を――懸命に目に焼き付けようとする。

「ふわあ、楽しかったあ」
 真奈は言った。風呂上りの上気した顔がほんのりと赤く染まっている。手元のジンジャーエールがまるでビールのように見える。普段は甘いものを飲まないという彼女も、さすがに運動のあとはコーヒーじゃないらしい。
「はしゃぎ過ぎだってば。周りのひとが睨んでたよ」
「そんなん、楽しんだ者勝ちって。気にせん、気にせん」
 真奈はパタパタと手を振ってみせる。
 ボクらはスポーツクラブを出て、すぐ近くにある真奈のお祖父さんの会社が入ったビルにいた。法人会員のカードを返さなくちゃならなかったのだ。
 返したらそのままお昼を食べに行くつもりだったんだけど、「来客が終わるまで待ってろ」とお祖父さんに言われて、ボクらは場違いにも社長室に通されていた。社長の孫娘とその友だちということで、ジュースを運んできてくれた事務のお姉さんもなんだか畏まった感じだった。

 真奈はその場にあったスポーツ新聞を広げていた。野球もサッカーもあんまり興味がないと言っていたから、たぶんプロレス欄を読んでいるんだろう。
 ボクは部屋の一角にある高級そうなオーディオ・セットを眺めた。
 アンプにはSANSUI、スピーカーにはJBLのロゴが燦然と輝いている。よく見るとラックの中のメーカーはバラバラだった。本当のマニアはメーカーのフルセットじゃなくて、パーツごとにそれぞれのトップメーカーのものを揃えたがるという話を聞いたことがある。そういえば真奈のコンポも中学生にしては贅沢な代物だった。彼女が音楽にうるさいのは血筋なのかもしれない。
「真奈って、けっこういいとこのお嬢様だったんだ?」
 ボクは言った。真奈は紙面から顔を上げて、ちょっとだけはにかんだ。
「意外?」
「そんなことないけど。――でもさ、すごいオーディオ・マニアなんだね、君のお祖父さん」
「まあね。でも、そんなんで聴くんがクレイジー・ケン・バンドっていうのも、正直どうよって思うんやけど」
「確かに……」
 CDプレイヤーの前には「GRAN TURISMO」のド派手なアメ車のジャケットが立て掛けてあった。真奈はリモコンに手を伸ばした。スピーカーからタイトル・チューンが流れ始めた。このメロディ・ラインが時代を先取りしてるのか、それとも時代遅れなのか、ボクには正直よく分からない。
「おう、待たせたな」
 真奈のお祖父さんは「GT」のリフレインにあわせるように、口笛を吹きながら部屋に入ってきた。
 面長で鼻筋が通っているところは真奈のお母さんと似ている。でも、目元が鋭いところはむしろ真奈のほうに引き継がれているような気がした。肌は健康的に陽に灼けていて浅黒い。フサフサの真っ白い髪と口ひげ、サックスブルーのシャツと緩めたネクタイ、白っぽいベージュのスーツの組み合わせは、麦わら帽子とサングラスがあればハワイ旅行のパンフレットのモデルが勤まりそうだ。少なくとも建設会社の社長には見えない。しかもこれで市議会議員だというから驚きだった。
「なによ、いったい。わけも言わずに待っとけとかさ」

 真奈はいきなりつっけんどんな口調だった。
「二人で何か美味かもんでも食べられるごと、小遣いばやろうかと思ったとさ。それに真奈がボーイフレンドば連れてくるとか初めてやけんな。ちゃんと挨拶しとかんといかんやろ?」
「ちょっと、ヘンなこと言わんで」
 ……なんだよ、ヘンなことって。
 ボクはソファから腰を上げて、ちょっと緊張しながら挨拶した。お祖父さんはニッコリと笑って手を差し出した。そんなにガッシリした感じでもないのに、節くれだったとても力強い手だった。
 真奈は握手の様子を膨れっ面で見ていた。
「あのさ、お小遣いくれるんなら早うちょうだい。お祖父ちゃん、そんなヒマと?」
「お前、それが人にモノば頼む態度かって?」
 お祖父さんは顔をしかめた。
「昨日も急に「明日、プールに行くから法人カード貸せ」とか言い出すし。おかげで総務のお局さんたちがエアロビに行かれんかったとぞ」
「えっ?」
 思わず言葉が洩れた。今朝の電話の口ぶりではたまたま借りられたような感じだったし、それも”誰も使わないから勿体ない”という話じゃなかったっけ?
 目をやると、彼女は挙動不審な目の逸らしかたをしていた。その様子を見て、お祖父さんは意地悪そうな笑みを浮かべて咳払いした。
「ばってん、なんや。スポーツクラブのプールでデートとか、中学生にしてはなかなか洒落とるやないや。おまえも母親に似て男っ気んなかけんが心配しとったが、こげん立派な彼氏ば連れてくっとは驚いたぞ」
「ちょっとお!!」
 真奈はうろたえていた。お祖父さんの笑みがますます深くなる。
「違うとや? わしはてっきりそうだと思っとったとに」
「バ、バ、バカなこと言わんでよッ!!」
「おいおい、バカなこつってなんや。彼氏に失礼やろ」
「だから彼氏やなかって!!」
 ボクとしては彼女の狼狽っぷりが微笑ましく思える反面、そんなに激しく否定しなくてもいいじゃないか、とも思う。しかも本人の目の前で。
「二人のツー・ショット撮って良かか? 祖母さんに見せたら泣いて喜ぶぞ」
「だけん、人の話を聞かんねってッ!! もう耳が遠くなっとうと!?」
「お前、相変わらず素直やなかなあ。わしにとぼけたってしょうがなかやろうに。なあ?」
 最後の「なあ?」はボクに向けられたものだった。同時に真奈のきつい視線が飛んでくる。ボクは「あははは」と曖昧極まりない苦笑いでその場をやり過ごした。他にいったい何ができる?
 それからしばらく、真奈とお祖父さんは掛け合い漫才のような言い合いを繰り広げた。

「ホント、そろそろボケが始まっとうとやなかと?」
「馬鹿言え、おまえほどやなかとよ。そういえば真司くんから聞いとったが、お前、こん前の試験、ボロボロやったらしかな」
「うっ……」
「栄養が脳みそやなくて、身長にばっかり行っとうとやないとや?」
 こう言っちゃなんだけど、彼女の成績はそう言われても反論できないレベルだ。決して頭が悪いわけじゃないし、知恵も回る(特に悪知恵が)のに、どうしてあそこまでペーパーテストに弱いのかはちょっとした謎だ。
「せからしかね、そんなことないってッ!!」
 真奈はいよいよ顔を真っ赤にして反論した。もはやボクの存在は忘れ去られているようだ。
「そげんこつあるって。それにお前、胸もぜんぜんでかくならんな。まったく、頭が悪かだけならともかく、そげんとこまで母親に似らんでよかろうに」
「知らんって、このエロじじい!!」
「お前、自分の祖父ばつかまえてエロじじいとはなんや。わしの示現流の餌食にしちゃろうか!?」
「やれるもんならやってみらんねッ!!」
 おいおい、本気かよ。
 お祖父さんがステッキを手にし、真奈がテーブルを叩いて立ち上がろうとしたとき、一ラウンド終了を告げるゴングのように電話が鳴った。

 お祖父さんは真奈を手で制して受話器を取った。深い皺が刻まれた顔が急に真顔に変わった。どうやら仕事の話、それもちょっと真剣な話のようだった。
「行こうか?」
 ボクは言った。
 お祖父さんは受話器を肩と首で挟んだまま、財布から札を抜いて真奈に手渡した。真奈はひったくるように受け取った札を無造作にポケットに突っ込んだ。
 社長室を後にしてエレベータに乗った。バンディットを停めてある地下二階のボタンを押した。真奈の頬にはまだ興奮の名残りの赤みが残っていた。
「カード、わざわざ借りてくれたんだ」
「へっ!?」
 聞いたこともない裏返った声。否定の言葉を探していたようだったけど、やがて、真奈は諦めたように短く息をついた。
「……筋肉痛みたいやったし、稽古も行き詰ってる感じやったから、気分転換したほうがいいとかなって思って」
「ああ、そう。――ありがと」
 真奈はしばらく押し黙っていたけど、不意に別人のようにニッコリと笑った。
「ね、何食べる?」
「えっ? ああ、ボクは何でもいいけど」
「じゃあ、お鮨食べに行かん? ソラリアの近くに美味しいとこがあるとよね」
「いいけど……鮨なんて高いんじゃないの?」
「だーいじょうぶ。軍資金はたっぷりあるから」
 真奈はさっき受け取っていたお札をボクの目の前で広げた。せいぜい新渡戸稲造だと思っていたら福沢諭吉だった。
「いいの?」
「いいって。あのじじいも言っとったでしょ。二人で美味いものを食えって。――あ、でも、一つだけ条件があるとやけどさ」
「……条件?」
「今日、二人でプールに行ったんはナイショ。誰にも言ったらダメ」
 ボクは真奈とのデート(全否定されてたけど……)を自慢すらしたい気分だった。でも、彼女がそう言うのなら、そうせざるを得ないだろう。
「りょーかい。誰にも言わない」
「約束できる?」
「もちろん」
 指きりでもさせられるかなと思っていたけど、そこまで子供っぽいことは言わなかった。
 代わりにボクは拳を握って彼女に突き出して見せた。真奈はニヤリと目を細めて、ボクの拳に自分の拳を軽く打ち合わせた。

 真奈が連れていってくれたのは、天神のど真ん中にある有名な店だった。
 一階は回転寿司だったのでそっちに行くのかと思ったら、真奈は迷うことなく上の階のお店に入った。そこでボクらは店員さんの不審そうな目を物ともせずに一番高い上にぎりをたいらげた。
「うっわ、美味しいね」
「でしょ?」
 真奈は少し得意げだった。
 転勤族の我が家には馴染みの鮨屋なんてないし、おまけに魚嫌いの父親のせいで、たまに回転寿司に行く以外は鮨を食べる機会はない。ボクがそういうと、真奈も「アタシもそんなにしょっちゅう食べよるわけじゃないけどね」と言った。彼女の場合、誰かと一緒にご飯を食べること自体が滅多にないらしかった。
 支払いをすませて、少し街中をブラブラと歩いた。
「これからどうする?」
「もうちょっと遊んでいこうよ」
 真奈は言った。まだ二時を少し回ったところだった。姉貴の模試が確か四時ごろに終わる。六時のバイトに間に合うように帰るには、寄り道をしてる余裕はないはずだ。五時くらいまでに家にいれば大丈夫だろう。
「オーケー。で、どこ行く?」
「亮太が行きたいとこでよかよ」
「急にそんなこと言われても、よく分かんないけど……。そうだな、福岡タワーには行ったことないや」
「ゲッ!?」
 真奈はどこから出したのか訊きたくなるようなヘンな声を出した。
「どうかした?」
「う、ううん。何でもない。えー、福岡タワーねえ……」
 真奈の目がやけに泳いでいる。ボクには何となくその理由が想像できた。
「ひょっとして、真奈って高所恐怖症?」
「そ、そんなことないって。ホラ、言うやん、馬鹿と煙は高いところが好きって」
「嫌なら別のところでもいいよ。マリノアの大観覧車とか」
「一緒やんねって!!」
 真奈が思わず突っ込む。やっぱりそうなんだ。
 ジットリした視線を受け流して、ボクは真奈の目を覗き込んだ。我ながらイヤなやつだと思いつつ、自然と笑みがこぼれる。
「ホラ、例の賭けあるよね。ボクが真奈のパンチを捕れたらってやつ」
「……それが?」
「ボクが勝ったら”福岡一日高所巡りツアー”なんていいかもしれないな、とか思って」
「サイテー」
 真奈はちょっとむくれている。ところが、彼女は何かを思いついたようにパッと表情を輝かせた。
「でもさ、それは亮太が賭けに勝ったらってことやし、要はアタシが手を捕らせなきゃよかわけよね?」

「そうだけど」
「よし、今度から本気でやろうっと」
 あれで本気のスピードじゃなかったのかよ。
「それって元々の練習の趣旨から外れるんじゃないの?」
「いいとよ、アタシの身の安全が第一なんやけん」
「そういう問題じゃないような気がするけど」
「せからし。亮太って優しそうな顔しとうくせに、意外とイジワルなんよね〜」
 真奈は顔をしかめて、思いっきり舌を出した。

 そんなわけで若干の言い合いの末、ボクらは福岡ドームに行くことになった。真奈は天神から大通りじゃなく、細かい裏道を縫うようにバンディットを走らせた。

「でも、真奈ってホントによく道を知ってるよね」
 ボクは言った。
「アタシ、一度通った道は忘れんとよね。自分の運転だけやなくて、助手席に乗ってても覚えるとよ」
「こんな道、誰が走るんだよ」
 真奈はさっき、クルマと歩行者がすれ違えない(どうでもいいけど、このクルマのすれ違いのことを福岡では”離合”という)ほど狭い道を走っていた。
「アタシの周りって裏道党が多いとよねえ。父さんもそうだし、お祖父ちゃんも。亮太も入る?」
「遠慮するよ」
 バンディットは唐突に大きな川沿いに出た。橋のたもとには室見川という看板があって、河口のほうにシーホークホテルと福岡ドームのてっぺんが見えた。
 ここも前を通ったことがあるだけで、ちゃんと敷地に入ったことはなかった。ドームの手前にあるショッピング・モールにバンディットを停めて、ドーム前のエスカレータに乗った。薄いレンガ色の建物は上のドーム部分だけが鈍い金属の色になっている。近くで見るととんでもない大きさだ。
 プロ野球のシーズンはあといくつか(よく知らない)消化試合を残すだけで、福岡ドームでのホームゲームもウィークデイに一試合あるだけだった。とは言ってもホークスには阪神との日本シリーズが控えている。当然、ドーム周辺にもそんな期待と緊張感のようなものが漂っている気がする。
 そういえばテレビのニュースでシーズン優勝が決まった夜、中洲の橋の上で馬鹿騒ぎしていたファンが川にダイブしているところが流れていた。もし、日本一になったらやっぱり同じように人が飛ぶんだろう。野球やサッカーにはあまり興味がないので応援に熱狂するファン心理はいまいちピンとこないけど、喜んでるんだなというのは伝わってきた。
 もっとも、筋金入りのジャイアンツ党である父親はその様子を苦々しそうに見ていた。しょうがないだろ、悪いのはナベツネさ。
 中には入れないので、ボクらは外の広々とした遊歩道をブラブラした。外周の植え込みの前には手の形をした色とりどりのモニュメントがある。
「何、あれ?」
「手形がくっついとうとよ。近くで見てみたら?」
 そう言いながら、真奈自身は何となく近寄りたがらなかった。
 理由はすぐに分かった。どのモニュメントにも握手をするような形のブロンズの立体手形とサインが取り付けてあるのだけど、モノによっては壁からいくつもの手がヌゥっと生えてるようにも見えて、ちょっと薄気味悪い感じがしなくもない。
「握手したこと、ある?」
「猪木とだけね」
 見るとB’zの稲葉浩志とかダイエーの王監督の手形もあるのに、わざわざアントニオ猪木を選ぶ真奈のセレクトにボクは吹きだしそうになった。

 そのまま隣のシーホークホテルに入って、亜熱帯の植物がいっぱいの吹き抜けのアトリウムで休憩することにした。そこはティーラウンジにもなっている。真奈はいつものようにコーヒー、ボクは見栄を張らずにオレンジジュースを頼んだ。
「結局、今日は空手の稽古はしなかったね」
 ボクは言った。
「まあ、よかっちゃないと。根つめたって、一足飛びに上達はせんしね」
 彼女の声には、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような響きがあった。ボクをプールに誘ったんだって、思い詰めがちなボクのことを心配してくれたからだろう。
「そうなんだけどさ」
「今日は休んだほうがいいって。しっかり泳いで身体動かしたんやし」
 真奈が言うとおりなのは分かっている。
 それでも、ボクの胸のうちにはどうしようもなく焦りがくすぶっている。
 昼休みは真奈の課題――パンチを避けながら真奈の手を捕まえることをやって、そして火曜日からは放課後にも特訓をしていた。それとは別に姉貴を見張らなくていい日には道場での基礎もみっちりやった。
 自分で言うのもなんだけど、確実に進歩はしてると思う。
 最初は身体の芯がなくて、きちんと構えて立っていることすらできなかった。ほんの少しステップを踏みながら手足を動かすだけで息が上がってしまっていた。それが今では基本的な足の運びも覚えたし、スタミナだってついてきた。突きも蹴りもそれなりに形になってきている。昨日、冗談半分に杉野の脚を蹴ってみたら自分でもビックリするほど小気味いい音がして、杉野をその場で悶絶させてしまった。
 焦りの理由は分かりきっていた。ゴールが見えないからだ。
 もちろん、強くなることにゴールなんてない。
 ただ、ボクには姉貴をあいつから守れるようになるという当面の目的がある。なのに、そうなるのにどこまで強くなればいいのか、そういった目安がまるでない。あいつがいつ、あの駅前の女の子にした暴力を姉貴に向けるか、それは分からない。ただ、そのときにもしボクがあいつに勝てるほど強くなっていなかったら――。
 そう思うといても立ってもいられなくなる。これからでも何か練習をしたくなる。
「やったらいっそのこと、こっちからあのヤンキーをボコボコにしに行けばいいやんね。そのほうが手っ取り早かよ」
 真奈は事も無げにそう言った。
 それができれば、こんなにグジグジと悩んだりしない。口には出せないけど、あいつに向かって「姉貴に妙な真似をしたらただじゃおかない」と啖呵を切るところをどれだけ妄想しただろう。
「今のボクじゃ、それは無理だよ」
 真奈はフンと鼻を鳴らした。
「じゃあ訊くけど、もし今夜、あいつと対決することになったらどうすっと?」
「……えっ?」
「ありえん話やなかよね。お母さんはおらんとやし、お父さんは当てにはならんって言いよったやんね。ねえ、どうすると? あいつに向かって「ボクはまだあんたに勝てないから、もうちょっと待ってくれないか」って頼むと?」
 嘲るような口調とともに、真奈の目は爛々と獰猛な輝きを放っている。
 彼女は怒っていた。
「それは……」
「いい加減に認めんね。自分がどがんしようもない弱虫ってことを」
「弱虫?」
「そうたい。ホントにお姉さんのことが大事やったら、自分が空手ができるとかできないとか、強いとか弱いとか、そんなこと関係なかもん。相手が腕っ節が立つんやったら、ナイフでも金属バットでも用意すればよかやんね」
「でも、それじゃあ――」
「卑怯って? あんた、馬鹿やないと? 相手はあんたが弱いけんってハンデとかくれんとよ。そうやないでも女の子を夜道で殴るようなやつが、正々堂々と勝負に応じるわけないやんね。あんたが立ち向かったところで、何人かでフクロにされて終わりって」
 真奈は乱暴な手つきでカップを取ると、コーヒーを苦々しげに飲み干した。
「ケンカの強さはいろいろあるよ。もちろん技術的なんもあるし、身体のサイズ的なこともある。やっぱり身体が大きいってことはそれだけで有利やしね。でも、ケンカって最終的にはハートの強さの問題なんよ。もちろん、とても褒められたもんやないよ。アタシもくだらんって思ってる。ホントにそう思ってる。でも、やっぱり自分の意志を曲げるわけにはいかんときがあるったいね。他人の横暴に屈するわけにはいかんときがあるんよ。ふだんは事なかれ主義でもいい。でも、争いが避けられんなら躊躇わずに拳を振り上げる。そして、相手がくたばるまで拳を振り下ろし続ける。そんなハートの強さがなきゃいけんってアタシは思う」
「それがボクにはないっていうのかい?」
「まったくないとは言わんけどね。でも、あんたには何がなんでも勝つっていう気迫が決定的に足りんのよね。お姉さんを思う気持ちは嘘やなかろうけど、そのためになら他のもんを犠牲にしてもいいっていう覚悟がね。だから、一生懸命トレーニングして、自分を無理やり納得させなゃならんとよ」
 真奈はつまらなそうに「それじゃ勝てんよ」と付け加えた。
 猛然と腹が立ってきた。ボクは思わず真奈を睨みつけていた。
 でも、同時に頭のどこかで自分を嘲るような笑い声が鳴り響いていた。――なんだ、図星じゃないか。
「じゃあ、どうすればいいのさ?」
「最初に言ったやん。他の方法を考えたほうがいいって。あいつの素行の悪さを証明するとかさ。あれだけのヤンキーやもん、叩けばいくらでもホコリは出てくるって」
 確かにそうだ。そのほうが何倍も確実だし、しかも効果的だ。わざわざ痛い目に遭う必要だってない。
「それにちゃんと外堀埋めてからやないと、どんだけ亮太が奮闘したってお姉さんの気持ちは変わらんと思うよ」
「……そうだね」
 なんだ、やっぱりボクがやってたことは、ただの自己満足だったんじゃないか。
 しばらくボクは黙っていた。真奈もジッとぼくを見つめるだけだった。
「じゃあ、どうしてこの一週間、ボクに付き合ってくれたんだい? ボクが可哀そうだったから?」
 真奈はゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。亮太にどれだけの覚悟があるとか、それが見たかったんよ」
「なるほどね。そしてボクは試験に落ちたわけだ」
 真奈は何も言わなかった。
 ボクは席を立った。これ以上、この場にいたくなかった。
「帰り、どうすると?」
「大丈夫、一人で帰れるよ。子供じゃないんだから」
 目頭が熱くなるのを感じた。ボクはそれを必死にこらえた。腐ってもボクは男だ。女の子の前で泣くわけにはいかない。
 でも、声が震えるのを止めることはできなかった。
 財布から取り出した千円札をテーブルに置いて、ボクはティーラウンジを出た。一度も振り返ることなく。

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