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「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 6 章  

 西新まで歩いて市営地下鉄に乗った。中洲川端で貝塚行きの空港線に乗り換える。地下鉄は貝塚で西鉄の宮地岳線と接続しているので、三苫までは割とすんなり帰ることができた。
 それでも予定よりはちょっと遅かった。ボクが家に着いたときには姉貴はすでに模試から帰ってきて、バイトに向かったあとだった。
 ボクは楽な格好に着替えて、自分のベッドにひっくり返った。
 正直、何もする気が起きなかった。
 怒りはとっくに収まっていた。だいたい、ボクが怒る筋合いじゃなかった。最初から心のどこかで気づいていて、でも、必死で目を背けてきたことをハッキリ指摘されたというだけの話だ。ボクが救いようのない馬鹿だったというだけの話だ。
 首を回して時計を見た。午後六時ちょっと過ぎ。
 姉貴がちゃんとバイトに行ってるかどうかの確認なんて、電話で済ませればいいことだ。わざわざコンビニまで行かなくたっていい。
 実際、姉のバイトの日に必ずコンビニに現れる弟のことは、ちょっとした噂になってるらしい。
ボクは姉貴のことを心配してやってるつもりだけど、傍から見れば紛れもない家庭内ストーカーなことはちゃんと自覚してる。姉貴も面と向かっては言わないけど、かなりウザがってることだろう。
 ボクは家の電話の子機を手に取った。
 変声期は過ぎているので、声を押し殺せば父親のフリをしてもそんなに不自然じゃないはずだ。もし電話に出たのが姉貴ならそれで目的は果たされるわけで、そのときは無言で電話を切ればいい。

(もしもし、私、ミウラハルカの家族の者ですが。はい、いつも娘がお世話になっております。仕事中に申し訳ないのですが、ちょっと伝えることがありまして。娘はもう、そちらにおりますでしょうか?)

 そんな文面を思い浮かべて、あまりの馬鹿馬鹿しさにボクはそれを頭から追い払った。父さんのフリをすれば、今度は父さんに事情を話さなきゃならなくなる。そんなことができるんだったら、最初から両親に告げ口して終わらせてる。
 ベッドから身体を起こして、出かけるために着替えを引っ張り出した。
 
 姉貴はちゃんとコンビニにいた。
 いつもは店内にまで入るんだけど、今日はそんな気にならなかった。外からしばらく様子を窺っただけで引き返すことにした。
 すぐに帰る気にはならなかったので、ゆっくりペダルを漕いで大通りを流した。
 先週の日曜日、真奈を送っていく途中に寄った公園に差し掛かった。特に理由もなく、ボクはその中にマウンテンバイクを乗り入れた。
 キャッチボールをしている小学生の兄弟が一組と、数人でボールを追っているサッカー少年のグループがいる。それとカップルらしい高校生の二人連れ。
 ボクはベンチに腰掛けて、キャッチボールの兄弟をぼんやりと眺めていた。
 日は暮れかけていて、そろそろボールは見えなくなるはずだ。兄のほうは弟に向かって「いい加減に帰ろうぜ」と言っている。弟はまだ帰りたがっていないようだ。グラブを叩いてボールを要求する。
 さっきから見ていると弟はまだ野球を始めたばかりのようで、兄が投げるボールをお手玉したり、そのまますっぽ抜かして後ろへ全力ダッシュしていた。
 これが最後だぞ、という声と共にボールが飛んだ。弟は必死にそれを眼で追いながらキャッチしようとする。でも、夕暮れの薄暗がりの中では軟球は見えづらい。弟は飛んできたボールを見事に額でキャッチした。
 公園中に盛大な泣き声が響きわたった。
 カップルの女の子が心配と笑いが入り混じった顔で隣の男に何か囁いている。まるで「うわあ、今の痛かったよねえ」とでも言っているようだ。
 それは違っていた。
 痛かったから泣いてるんじゃなかった。悔しかったから泣いているのだ。その証拠に、弟はグラブを足元の地面に叩きつけていた。
 兄はやれやれといった感じで弟に近寄った。

 グラブをそっと拾って弟を宥めながら公園を後にする。それが合図だったようにカップルも腰を上げる。いつの間にかサッカー少年たちも姿を消していて、公園にいるのはボクだけになった。
 ボクはその場でボーっとしたまま、どうして真奈が急にあんなことを言い出したのか、そのことをずっと考えていた。
 自惚れるつもりはないけど、今日一日の様子だと真奈はボクのことを、少なくとも友だちだとは思ってくれている。それには確信がある。

 なのに、真奈はその関係がぶち壊しになるのを分かった上で、あえてボクに厳しい言葉を浴びせかけた。
 ボクのことが嫌いになったから? ひょっとしたらそうかもしれない。
 でも、たぶん真奈はそんなことはしないだろう。愛想を尽かしたんなら相手にもしてくれないはずだ。彼女はそういう女の子だ。
 ――いい加減に認めなさいよ。自分がどうしようもない弱虫だって。
 鋭利な刃物のような言葉が耳に甦る。
 真奈が言うとおり、そろそろ認めるときだ。
 短時間では強くなれるはずがないことは分かっているのに、ボクは空手を習うことで「自分にやれることはやったんだ」と一人だけ納得する材料を作っていたにすぎない。本当に立ち向かうべきことから目を背けて、自分の言い訳の中に逃げ込もうとしていただけだ。
 ボクはさっきのキャッチボールの弟にも劣る弱虫だった。

 ふと、無意識に握っていた拳に視線を落とした。
 さんざんうるさく言われたおかげで、ボクは自然に正しい握りができるようになっていた。肉の薄いゴツゴツと骨ばった拳だけど、手そのものは割と大きいし、自分ではそうは思っていなかったけどボクは意外と骨太らしい。真奈は「当たったら痛いよね」と言ってくれた。
 どうせそんなに何種類も覚えられないのと、短時間では手首を鍛えられないからと、彼女は正拳突きとは別にバックナックル――裏拳の練習を集中的にやらせた。
 他に教えてくれたのは、相手の出足を止めるための膝への前蹴り(要するに蝶野のケンカキック)と基本中の基本の下段回し蹴り、そしてもう一つ、とんでもない必殺技だった。

「――亮太、一つだけ必殺技、教えてあげよっか?」
 一昨日の放課後の練習中、真奈は悪戯っぽく笑いながらそう言った。
 何のことか分からないでいるボクにスタスタと近寄ってくると、真奈はボクの後頭部に手を回した。真奈の顔がボクの顔の目の前――吐息を感じられる距離まで迫ってくる。
 えっ、なんだ?
 次の瞬間、額のあたりで脳みそが揺れるような衝撃が炸裂した。
「いってえッ!!」
 ボクは額を押さえて、その場でのた打ち回った。真奈はほんの少し口の端をゆがめただけで、涼しげな顔をしていた。
「必殺技って、頭突きかよ!?」
「そう。あ、馬鹿にしとうでしょ。当たればかなり効くんやけんね」
 確かに効いた。まだ目の奥で火花が散ってるような気がする。
 初日ほどではないけど、体育館でのトレーニングにはギャラリーがいる。ボクのあまりの痛がりように、そいつらの中からヒソヒソと様子を窺うような声も聞こえてくる。ムカつくのはその大半に忍び笑いが重なっていることだ。
 いや、ホントに痛いんだから。
「でも、これってかなり接近しないと使えないんじゃ?」
 ボクは何とか身体を起こした。まだ頭がクラクラしている。
「まあね。でも、そんために相手の手を捕る練習しよるんやないね。ねえ、亮太。ケンカで一番有効な技ってなんや知っとる?」
「なに? クイズ?」
 真奈は「真面目な質問」と言いながらしゃがみ込んで、ボクの額にデコピンを喰らわした。ボクはあまりの痛み(というより猛烈な熱さ)に思わず「ヒッ!」と情けない声を上げてしまった。
「……なんだよ。金的蹴り?」
「それも強烈やけど、男の子にしか効かんやないね。正解は体当たり――別名、ぶちかまし。力士ケンカ最強説の根拠でもあるけど」
「えーっ!?」
「意外?」
「っていうか、ダサい」
「確かに」
 真奈はカラカラと笑う。
「でも、この技――とも呼べんとやけど、これの怖いとこは小手先の技術じゃどうにもならんってとこなんよ。組み技系はともかく、打撃系の格闘家には避ける以外の対処法がなかけんね」
「そうかも知れないけど、ボクみたいに身体が軽いと効かないだろ?」
「やけん、今の必殺技なんやろ。二、三発喰らう覚悟で身体ごとぶつかっていって、とにかく相手の身体に頭突きを喰らわすんよ。うまく骨に当たったらすっごく痛いんやけんね。で、あとは指先をどっか身体の柔らかいところにめり込ませたり、噛み付いたりとか。つねるっていうのも意外と効くとよ」
「そこまでいくと、もはや格闘技じゃないね」
「プリミティブな攻撃が一番強いってこと。見栄えは悪かけどね」
 真奈は不意に真面目な顔つきになった。
「だいたい、あんた、勝ち方にこだわってる余裕とかあるとね? あんたは自分とお姉さんの二人を守らなにゃならんとよ?」
 
 なんだ、とっくにボクはケンカの心構えを諭されていたんじゃないか。
 真奈は決して「勝つために手段を選ぶな」と言ってるわけじゃない。ただ、大切なものの前でつまらないプライドにこだわるなと言っているのだ。美しい敗北には自己満足以外の何の意味もない。どれだけ不様でも、どれだけ卑怯と罵られようと勝たなきゃならない闘いがある。
 ボクの場合がそうだ。
 
 自転車を飛ばしていったのに、真奈はまだ家に帰っていなかった。駐輪場には彼女の名前が書かれた自転車はあったけど、あの真っ赤なバイクはない。
 携帯電話も繋がらなかった。電源が入ってないのか、電波が届かないのかは分からない。ボクのドコモと違って彼女の携帯電話はボーダフォンだ。意外と繋がらないところが多いと彼女自身がぼやいていた。
 家の留守録にメッセージを残すのもはばかられたので、仕方なく引き上げることにした。
 途中で杉野の家に寄った。
「おう、どうした?」
「お前、野球のバット持ってただろ。貸してくれないか?」
「よかけど何に使う気や? 金属バットやけんロー・キックじゃ折れんぞ。佐伯なら分からんけど」」
 いや、いくら真奈でもそれは無理だ。
 ちょっと素振りをしたくなっただけだ、と答えた。杉野はボクを家の裏のプレハブ倉庫に連れて行った。
「何本かあるばってん、どれがよかや?」
「一番ボロいのでいいよ。できたら返さなくていいくらいのがあると助かる」
「へいへい。そうすっと俺が小学校のときに使うとったやつになるな。――えーっと、これなら返さんでよかぜ」
 差し出されたのは見るからにジュニア用の短いバットだった。
 手に取ってみた。見るだけだと頼りない感じだけど、持ってみると手頃な長さと重さだった。重いバットを両手で振り回すより、取り回しのいいこっちのほうがいいかもしれない。
「サンキュー、恩にきるよ。持つべきものは友だちだな」
「馬鹿言え。貸しに決まっとうやろ」
 礼は何がいいかという話で、杉野はクラスの某ルートから回ってきたDVDのコピーを取ってくれと言った。こいつと数人の連れは”ホモサピエンスの生態研究映像”と称するDVD(テーマは交尾に限られている)をやりとりしている。

「なんだよ、エロDVDか」
「やったらお前に頼まんって。コピーガードはかかってらんやろうが」
「ああ、そういうことね」
 杉野が持ってきたのはちょっときわどい系のグラビアアイドルのDVDだった。そんなことに自分のPCを使うのは気が進まないけど、この際、贅沢は言っていられない。
 オリジナルのディスクを預かって、ボクは杉野の家を後にしようとした。
「そう言えばさ、お前ってずっとこの辺に住んでんの?」
 玄関先でボクは訊いた。
「ああ、俺んちはこん地に三代続く由緒正しい家系やけんな。見ろよ、こん立派なお屋敷を」
 どう見ても建売住宅にしか見えないし、三代ってことは要するに祖父さん祖母さんと一緒に住んでるというだけのことだ。
 ホントにアホだな、こいつ。
「それがどげんかしたとや?」
「いや、だったら、この辺をウロウロしてるグロリアに乗ってるヤンキーとか知らないかなって思って」
 どんなグロリアかと訊かれたので、覚えている限りの特徴を話した。今さらながらナンバーを控えておかなかった自分の迂闊さを呪いたかった。杉野は面白がるようにヒュウと口笛を吹いた。
「知ってんのかよ?」
「知らんこつもなかな。地元やちょっととした有名人ったいね。そいつ、コガマコトっていうんやけど」
「どっかで聞いたような名前だな」
「国会議員とはコガの字が違ったんやないかな。名前は同じ”誠”やけどな。名前負けって言葉はそいつのためにある言葉よ」
「有名人っていうのはどういうことだよ」
「呼んで字の如し。ウチの上の兄貴の同級生なんやけどがケンカがでたらめに強くて、中学校のときからヤンキーの間で知らん者はおらんと言われるほどやったからな。またそいつが高校に行ってボクシング始めたのはよかけど、一年でいきなりインターハイでよかとこまでいったりしたもんやけん、さらに有名になったんさ」
 やはりあいつはボクサーだった。真奈の見立てに間違いはなかったわけだ。
「その後は? プロまで行ったとか?」
「いや、それが素行の悪さが目についたんか、ボクシング部は辞めさせられたって聞いとる。基本的にボクシング界っちゃ、やんちゃなやつには寛容なんやけど、そこでクビ言い渡されるってことは、相当悪かったんやろうな」
「そのコガってやつの家、知ってる?」
「えーっと、雁ノ巣のほうだったはずやけど、詳しい場所まではなあ。って言うか、お前、殴りこみでんする気か?」
 ボクは思わず杉野の顔をマジマジと見た。
「どうしてそう思うのさ?」
「素振りって言うたけど、それは凶器の持ち方やろ。右打者は普通、バットは左手に持つもんやぜ」
 杉野に言われて気がついた。ボクはそのバットをまるで木刀のように右手で構えていた。
 まだ、真っ正面からあいつとやりあうと決めたわけじゃない。真奈が言ったようにあいつの身辺を調べて追い込んでいったほうが安全で確実なことも間違いないからだ。ただ、それとは別に、いつ何があってもいいように準備をしておく必要はあった。
「ま、俺は別によかとやけどな。何かあったときには、そいつは道端で拾ったってことにしとって。古いし、マジックで書いとった字もほとんど消えとるけんが、それで通じるやろ」
「分かった。あと、他に何か知ってることないか?」
「さあな。もともと俺たちとは違う世界の住人だし。――あ、そう言えば兄貴がこん前、須崎埠頭のラブホテルの前で見たって言いよった」
 頭をぶん殴られたような衝撃だった。
「……それ、いつの話だ?」
「先週、いや、先々週の話やね。ほら、あげんとこに女の子運んでくワンボックスってあるやろ。そん運転手やったらしかな」
「なんだ、そういうことか」
 ホッと胸を撫で下ろす。職業差別をする気はないけど、あいつがまともな仕事をしていないことが分かって、ボクは無性に腹が立った。そんなやつが女子高生にちょっかいなんか出すんじゃない。
「なんや、そっち絡みの話なんね?」
 杉野の口調に、いつもの勝手にストーリーを作り上げるときの予兆のようなものを感じた。こういうときは相手にしないに限る。
「別にそういうわけじゃない。ところでお前の兄貴、そんなとこで何してたのさ?」
「俺に訊くなって、そげんこつ。女の子とラブホに入ろうとしたら寸前で逃げられてふて腐れとったとか、弟の口から言えるわけなかやろ」
「言ってるって」
 それ以上、杉野から役に立つ話は聞けそうになかった。ボクはもう一度、礼を言ってその場を後にした。

 
 家に帰って、ボクはさっそく借りてきた金属バットを手にした。
 持ち慣れないものを持っているせいか、ボクはやけに好戦的な気分になっていた。もしあいつが目の前にいたらこの場で殴りかかってしまいそうだった。そうじゃなくても家を探し出して、あの霊柩車もどきのボンネットにこのバットを振り下ろしてやりたいとすら思う。
 ただ、残念ながら事はそんなに単純じゃなかった。
 いずれ対決は避けられないとしても、今のこの状況で行動に移せば、単に家庭内ストーカーの弟が姉の交際相手に襲い掛かったことにしかならない。何の解決にもならないばかりか、姉貴を余計に意固地にしてしまいかねなかった。ひょっとしたら親だって、相手への申し訳なさから強いことが言えなくなってしまうかもしれない。
 もどかしさと歯がゆさで眩暈がしそうだった。今さらながら、真奈が言ったようにちゃんと外堀を埋めておかなかったことが悔やまれた。
 気を紛らわすというわけでもなかったけど、とりあえず杉野と約束したDVDのリッピングに取り掛かった。

 杉野はかなりの技術が必要だと思っているようだけど、リッピングというのは実際には大したことじゃない。コピーガードのタイプに合った専用のソフトがあれば誰にでもできることだ。違法行為スレスレなので大きな声では言えないけど。
 ソフトを起動して”START”をクリックした。画面の中の小さなウィンドウに申し訳程度の面積だけを水着で覆ったアイドルの姿が映し出された。

 どこかの海辺(たぶん、ハワイかグアム)で波と戯れながら、胸の谷間を強調したり、身体を不自然に捻ったグラビアでよく見るポーズをとっている。
 健康な十五歳の男子としては、こういうのに興味がないと言えばウソになる。なのに、自分の分もコピーしておこうという気にはならなかった。昼間に見た真奈の水着姿とそれを重ねてしまいそうだったからだ。別にバレはしないんだけど、何となくそれはやっちゃいけないことのような気がした。
 DVDが焼きあがるまで、リビングでテレビを見ながら待つことにした。
 プールで泳いだり慣れないバイクの後ろに乗ったりしたせいか、三〇分も見ないうちにボクはウトウトしていた。おかげで家の電話が鳴っているのをやりすごすところだった。
 誰だろう、いったい。
 ナンバー・ディスプレイには番号しか表示されていなかった。〇九〇ということは携帯からだ。
「――はい、三浦ですけど」
「あ、春香いますか?」
 トモコとかいう姉貴のクラスメイトだ。姉貴が携帯電話使用禁止処分だったとき(使いすぎで一時期、取り上げられていた)はこっちにかけてきていたので、何度か声を聞いたことがある。「夜分失礼します」とまで言わなくてもいいけど、名前くらいはちゃんと名乗れよな。
 どちら様ですか、と嫌味ったらしく訊いてやろうかと思ったけど、時間の無駄なのでやめた。
「姉は今、バイトに行ってますけど」
「えっ!?」
 トモコは素っ頓狂な声をあげた。何かを取り繕うように彼女は「えー」だの「あー」だの意味不明の呻きを繰り返した。
「そのー、電話、繋がらんかったから……」
「バイト中は携帯は持ってないと思いますよ。何だったらコンビニの番号、教えましょうか?」
「あー、いえ、じゃあいいです」
 そのままガチャンと電話は切られた。まったく、何だって言うんだ。
 リビングに戻った。眠気はすっかり去ってしまっていた。クイズ番組(改編期名物のやたら長いアレだ)はたいして面白くなかったので、チャンネルをNHKに変えた。ちょうど八時四十五分のニュースが始まったところだった。
 昼にたらふく鮨を食べたものの、そのあとは何も食べていなかったのでおなかが空いていた。

 杉野の家からの帰りに買ってきておいた弁当を食べることにして、麦茶をグラスに注いだ。テレビの前に戻ると、昨日発表された巨人の原監督の辞任に伴う後任がどうとか、この時間に扱う意味がよく分からないニュースをやっていた。
 ――ちょっと待てよ。
 いや、別に巨人の次期監督が堀内になることに異議があるわけじゃない(ボクはこの神経質そうなオッサンのことはまったく知らない)。さっきのトモコからの電話のことだ。
 すぐ近くに住んでいることもあって彼女と姉貴は仲がいい。その彼女が姉貴のバイト中に電話をかけたことがないなんてことがあるだろうか。

 もちろん姉貴はバイト中は電話は取れないので、かけても出ないことは間違いない。しかし、だったら普通は「ああ、バイト中か」と思うだけで、家に電話をかけたりはしないはずだ。
 単にトモコが忘れっぽくて、姉貴は今日はバイトだというのを失念しただけかもしれない。そして、電話が繋がらないのを電池切れだと思った可能性はある。

 でも、それではさっきのトモコの慌てようの説明がつかなかった。さっきのあれは、まるでかけてはいけないところに電話をかけてしまって、でも、あんまり不審を招くような切り方ができなかった――そんな感じだった。
 嫌な予感がした。何がというわけじゃないけど、辻褄の微妙な合わなさが引っかかる。
 ボクは家の電話の番号登録から姉貴のバイト先の番号を呼び出した。幸い、父親のフリをするシミュレーションは済ませてあった。咳払いを何度かして低い声を出してみる。エー、ミウラハルカの父ですが。オーケー、ちゃんと出てる。
 電話の呼び出し音が、まるで死刑執行のカウントダウンのように聞こえた。愛想のいい声のおじさんが電話に出た。ボクはシミュレーションどおりに姉貴と変わってくれと言った。
 店長だというそのおじさんは、ものすごく切り出しにくそうに言った。
「えー、その、春香ちゃんは今日は具合が悪かけんって、八時ごろに早退したとですけどね……まだ、帰っとらんとですかね?」
 くそッ、やっぱりだ。
「ああ、そうですか。そうですね……まだ帰ってないんですが、そこからなら時間もかかるでしょうし。途中でドラッグストアにでも寄ってるのかもしれませんね。どうも、娘がご迷惑をかけたようで――」
 我ながらよくこれだけ口から出まかせが言えるもんだ。どう考えたってコンビニからウチまでは三十分かからないし、姉貴はいろいろと面倒なアレルギー持ちなので、薬は病院で処方されたものと漢方薬しか飲まない。
 店長さんは少し安心したように「ああ、ウチはいいんですが」と、むやみに朗らかな声で言った。何に安心しているのか分かったもんじゃないけど、そこを追求しているヒマはなかった。ボクは適当なところで会話を切り上げて電話を切った。
 すぐさま姉貴の携帯を鳴らしてみた。
 ワンコール。ツーコール。そこでブツリと切れた。
 この切れ方からすると、姉貴はディスプレイの表示を見て着信拒否をしている。
 すぐさま自分の携帯で呼び出してみる。
 今度は最初から繋がらなかった。ほんの一〇数秒の話なので、今、設定を変えたわけじゃないだろう。姉貴はボクの携帯をあらかじめ着信拒否に設定している。つまり今夜、ボクからの電話を取らないつもりだったということだ。
 間違いない。姉貴は最初からバイトを適当なところで切り上げて、とっとと夜遊びに出かけるつもりだったのだ。そして、その相手はあいつ――古閑誠しか考えられない。
 ボクはまんまと出し抜かれたというわけだ。


 実際にこうなってみると、ボクには手の出しようがなかった。
 GPS付きの携帯電話は基地局を経由して位置情報がサーバに残るので、かなり正確に追尾できるという話は聞いたことがある。でも、その機能を利用する方法までは分からない。携帯電話会社に電話しても相手になんてしてもらえないだろう。
 警察も同じだ。今のところ、姉貴もあいつも何も犯罪行為は犯していない。女子高生がバイトを抜け出して男に会いに行くのをいちいち追跡していたら、警察はそれだけで手一杯になってしまう。
 仮に二人がいるところが分かったとしても、そこまで行く方法がない。相手には悪趣味極まりなくてもクルマがある。ボクには自転車しかない。真奈のようにバイクがあれば話は違ってくるけど、まさか彼女にそんなことは頼めない。
 結局、ボクは無力な子供にすぎないのか。
 できることと言えば、あいつが本性を表すのが今夜じゃないことを祈ることしかない。金属バットなんか用意して、何を準備をしてるつもりになっていたのか。自分の頭をバットでぶん殴りたい気分だった。
 呆然としていると携帯電話が鳴った。
 ディスプレイに表示されていたのは”佐伯真奈”の名前だった。着メロが「urtra soul」ではなく「traveling」だったことにすら、ボクは気がついていなかった。

 通話ボタンを押した。
「――もしもし?」
「何ね、その露骨に落胆した声は?」
 真奈が言った。声に苛立ちのようなものが混じっている。そんなつもりはないけど、彼女から電話をくれた嬉しさと、今ごろ何だろうという戸惑いが半々といったところだった。
「ひょっとして亮太、まだいじけとうと?」
「あ、いや、そんなことないよ。ちょっと取り込んでるもんだからさ。――それより、昼間はゴメン。あんなこと言うつもりはなかったんだ」
 一瞬の沈黙。微かな吐息が聞こえたような気がした。
「ううん、こっちこそゴメン。アタシもあんなキツイこと言うつもりじゃなかったんやけど――」
「いいんだ。おかげで目が覚めたよ」
 それは偽らざる気持ちだった。
 本当は電話越しじゃなくて、ちゃんと会って謝りたかった。彼女が気づかせてくれなかったら、ボクはとんでもない思い違いをするところだったのだ。
「その……怒ってない?」
 ボクは恐る恐る訊いた。真奈は少しおどけた調子で「怒っとらんよ」と言った。

「亮太こそ、気にしとらんと?」
「してないよ。弱虫なのは本当だしね」
「気にしとるやないね」
 ちょっとだけ沈黙があって、ボクらは静かに笑いあった。
「ところで、取り込み中って言ったけど、どうかしたの?」
 話すべきかどうか、ちょっとだけ迷った。これはあくまでもボクの問題だ。彼女を巻き込むべきじゃない。
 でも、ボク一人ではどうすればいいのか分からなかった。何かいい解決策があるわけでもない。つまらないことにこだわらずに、今は誰でもいいから知恵を借りるときだ。
「実は姉貴がバイト先を抜け出したんだ。たぶん、あのヤンキーと一緒にいると思うんだけど」
「ああ、そうみたいね」

「ヘッ!?」
 思わず奇妙な声が洩れた。なぜ、真奈がそれを知ってる?
「どういうことだよ?」
「だって、二人ともアタシの目の前におるもん。えーっと、正確には五〇メートルくらい前方かな」
 何がどうなってるのか分からない。
 電話の向こうでマイクが風を切る音を拾った。アクセルが開く金属的な唸りも微かに聞こえる。真奈は例の真っ赤なバンディットに乗っているらしい。
「君、今どこにいるのさ?」
「和白通りを新宮方面に北上中。って言うか、もう新宮町に入ったんかな。どうでもよかけど、この辺ってカラオケ屋さん多かねえ。やっぱり郊外やけんかな?」
「何を呑気なこと言ってるんだよ。なんでそんなところに?」
 いよいよ意味が分からなくなってきた。ハッキリしてるのは真奈が新宮町の国道を走っていて、その五〇メートル先に二人がいるということは……。
「ひょっとして君、あの霊柩車もどきを追いかけてんのか?」
「あったり〜」
 真奈の声は無意味に朗らかだった。尾行という普通はありえないシチュエーションにテンションが上がっているのかもしれない。
「夕方からあのヤンキーに張り付いとったとやけど、八時過ぎくらいにお姉さんのバイト先に向かったけん、こりゃやるかなと思っとったら案の定、ね」
「貼り付いてたって、ずっと?」
「今日はね」
 思い返してみると、学校での特訓の前後に真奈はやたらと生あくびをしていた。杉野から「佐伯のやつ、授業中に思いっきりイビキかいて寝とったぞ」とは聞かされていた。それもこれも、ボクはてっきりグラウベのDVDを見たり、ブラジリアン・キックの練習をしているもんだとばかり思っていた。

 しかし、実際はそうじゃなかった。
「まあ、やるとしたら今夜、とは思っとったとやけどね」
「何が?」
「古閑がお姉さんを呼び出すとが。ついでに言うと、お姉さんにその――危害を加えるんもね」
「どうして、そうだって分かるんだ?」
「古閑誠の二十歳の誕生日が明日なんよ。今夜までは何やっても少年法が適用されるとやけど、午前零時を過ぎればそうやなくなるけんね。ちゃんと刑法で裁かれるし、晴れて実名報道やもんね」
 だからその前に、というわけか。
 今週に限って姉貴を水曜日に連れ出そうとしたのもおそらくそのためだ。あのときはボクが邪魔をしたせいで目的は果たせなかった。だから今夜、姉貴にアルバイトを早退させてまで、邪な企みを実行に移そうとしている。
 クソッ、なんてやつだ。
「ところで真奈、どうしてあいつの――古閑誠の誕生日が明日だなんて知ってるんだよ?」
「調べたに決まっとるやろ」
 真奈は例によって事も無げに言う。ボクは思わず盛大にため息をついた。
「どうしてそこまでしてくれるのさ?」
 ボクの声は自分でも驚くほど冷たかった。真奈は少し当惑したようだった。
「どうしてって……。友だちのお姉さんが危ない目に遭うのを防ぎたいって思うとが、そんなにいけんこと?」
「いけないとは言ってない。でも、あんなやつの周りをウロウロして、もし真奈の身に何かあったらどうするんだよ。自分がどれだけ危険なことをやってるのか、分かってんのか?」
「あ、心配してくれとるんね、アタシのこと」
「いい加減にしろよ。ボクは真面目に話してるんだぞ」
 声に込められるだけの真剣さを込めて言った。真奈の不満そうな沈黙が電波を介して伝わってくる。 
「……アタシがやってることってお節介?」
「そうじゃない。気持ちは嬉しいし感謝もしてる。それは本当だよ。でも、君に危ないことはして欲しくない」
「危なくなんか――」
「相手は名の知れたファイターなんだってね。そりゃ君は強いんだろうさ。でも、夜道で女の子を殴るようなやつが真っ当な勝負に応じるわけがない。君がボクに言ったことだよ?」

「分かっとうよ、そんなこと」
「いいや、分かってない」
 真奈はしばらく黙っていた。口を尖らせて頬を膨らませている表情が脳裏に浮かんだ。
「……そんなに怒らんでもいいやん。なによ、喜んでくれると思ったとに」
 そりゃボクだって喜んでいるさ。でも、それを彼女に見せるわけにはいかない。見せれば彼女はさらにムチャをするに違いないからだ。
「じゃあ、どうすっとよ?」
 真奈は言った。
 彼女にこれ以上、危険なことをさせるわけにはいかない。

 しかし、今、真奈が目を離せばいよいよ姉貴の行先の手掛かりはなくなってしまう。矛盾に苛立たされつつも、とりあえず行先がハッキリするところまでは彼女に尾行を頼むしかなかった。
「ボクもそっちに行きたいんだけど、何か方法はないかな。まだJRはあると思うんだけど」
「まさかタクシーで乗りつけるなんて言わんでよね」
「そうだよな……」
 他に手がなければ父親を呼び戻すしかない。いくら仕事の虫でも事情を話せばすぐに戻ってくるだろう。いくら父親が姉貴に甘くても――いや、甘いからこそ古閑のような男の存在は許せないはずだ。その後の家庭内冷戦を想像すると恐ろしく気が滅入るけど、最悪の事態よりはマシだ。
「ねえ、亮太。あんた、原付には乗れる?」
 真奈が言った。
「原付? うん、茨城の祖父ちゃんちで何度か乗ったことはあるけど」
 祖父ちゃん(今、ぶっ倒れている母方のほうだ)の家は土浦で農業をやっている。関東に住んでいたときには田植えや稲刈りの時期には手伝いに行かされていて、そのときに弁当やお茶を運ぶのに農道を原付バイクで何往復か走ったことがある。
「何よ、自分も無免許で公道走ったことあるんやない。アタシのこと、さんざん不良みたいに言っとってさ」
「田舎の農道をチンタラ走るのと、福岡みたいな都会をブッ飛ばすんじゃ罪の重さがぜんぜん違うよ。で、それがどうしたのさ? まさかバイクを盗んでこいなんていうんじゃないだろうね」
「冗談やろ、尾崎豊やあるまいし。ウチに乗っとらんヴェスパがあるとよ。お祖母ちゃんちから乗って帰ってきて返してなかやつがね」
「それを貸してくれるのかい?」
 真奈は彼女の家のカギの隠し場所(お父さんがよくバッグごと仕事場に忘れてくるのでそうしてあるらしい)と、ヴェスパのキーや予備のヘルメットが置いてあるところを教えてくれた。
「――あ、カギが入っとる小物入れの横の抽斗は絶対開けんでよね。いい?」
「開けないよ。泥棒じゃあるまいし」
 真奈は他にいくつか、持ってきて欲しいもののリストを並べ立てた。ボクはそれをメモしてポケットに突っ込んだ。ボクが新宮町に着くか、グロリアの行先がハッキリしたら電話を入れることにした。
「絶対に危ない真似はしないって約束してくれ。――もし、姉貴の身に何かあったとしても」
 ボクはもう一度、声に力を込めて言った。
 ジレンマはある。でも、姉貴のために真奈を危険に晒すわけにはいかない。それは身内であるボクの役目だ。
 真奈はいかにも渋々という口調で「……分かった」と答えた。

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