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砕ける月

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  第 52 章  

 アタシは自分の部屋に戻ってコンポのスイッチを入れた。
 適当にMDを突っ込むとマライア・キャリーの「スルー・ザ・レイン」が流れ出した。アタシはそれを聴きながらベッドにひっくり返った。
 ケイタイが鳴った。末尾が”〇一一〇”ということは警察からだった。
「はい、榊原ですけど」
「組対課の毛利だ。ちょっと訊きたいことがあるんだが、いいかな?」
 組織犯罪対策課という強面揃い(藤田は例外だけど)の部署のトップとは思えない、ひどく眠そうな顔が脳裏に浮かんだ。
「なんですか?」
「君からもらったMOを開けてみた。中には君の言ったとおり、動画やら胸糞悪くなる画像やらが入っているが、君はこれを全部見たのか?」
 アタシは自分の頭の中を整理した。
「いえ、アタシが実際に見たのは村松医師の写真と徳永麻子の供述書だけですね。カルテのデータは直接は見てないですし、第一、それは専用のソフトがないと見られないはずです。他のファイルはあとで見るつもりだったけど、そっちに渡しちゃったんで」
「なるほど、そうか……」
「どうしたんですか?」
「カルテのほうは君の説明を受けてるし、中身のほうは後回しでも構わんのだが、このオリジナルとかいうフォルダの中に、一つだけプロテクトがかかっとるのがあるんだ。それで、ひょっとして君が見たのなら知っとるんじゃないかと思ったんだが……」
「いえ、アタシも知らないですね」
 それが熊谷のところから盗み出したものを丸ごとコピーしたものなら、プロテクトがかかったままになっていてもおかしくはなかった。おそらく高橋は何らかの方法でそれを破ったのだろうけど。
「解析ソフトとかで調べられないんですか?」
「今、それをやらせとるが、時間がかかりそうだと言ってる。そうか、疲れているところをすまなかったね」
 毛利はそう言うと電話を切った。
 アタシはケイタイを枕元に放った。状況としてはあまり良くない。パスワードが分かってファイルの中身が熊谷の情報提供元のリストであることが確認できるまで、警察は表立っては動けないからだ。
 靖子に電話して彼女が自分のパソコンにファイルのバックアップを残していないか、訊いてみようかと思った。しかし、そうしたところで何が出来るというものでもなかった。熊谷がパスワードに選びそうな言葉に心当たりなどなかった。
 由真や梅野、高橋たちの安否がアタシの心に重く圧し掛かった。でも、事件はとっくにアタシの手を離れていた。
 アタシは再びベッドにひっくり返った。

「――真奈、起きなさい」
 祖母の声が降ってきた。
「……んあ? どうしたのよ、お祖母ちゃん……?」
 アタシはいつの間にか寝入っていたらしかった。祖母がアタシの顔を覗き込んでいる。
「まったく、夏だからって油断してると身体壊すわよ。ほら、起きて。あなたに電話がかかってるわ」
「んー、電話って誰から?」
「いいから、早く出なさい。ずいぶんお待たせしてるんだから」」
 祖母はコードレスの子機をアタシに手渡すとそそくさと部屋を出て行った。保留音がスピーカーから洩れ聴こえている。
 アタシは電話に出た。
「もしもしぃ?」
「……ずいぶん待たせるじゃねえか」
 威勢のいい言葉使いと裏腹にかすれた弱々しい声だった。どこかで聞いたことのある声。
「あんた、誰よ?」
「久住だよ。久住賢治。修理工場で会っただろ」
 浅い呼吸と雑音が言葉尻に混じっていた。アタシはピンときた。腹を殴られたりして呼吸がままならないとこんな感じの声になる。
「――どうしたのよ、あんた!?」
「フクロにされちまったんだ。タクヤと一緒に。――ああ、あんたの彼氏も一緒だけど」
「梅野さんが!?」
 アタシは思わず大声を出した。
「あんたたち、無事なの!?」
「無事ってのが、生きてるって意味なら。俺は足腰が立たねえだけだ。ただ、あんたの彼氏はひどい。腕の骨は折れてるし、顔色もおそろしく悪くてぐったりしてる。ラオウみたいなヤツにこっぴどく殴られたからな」
 おそらく大沢のことだろう。アタシは須崎埠頭で抱いた怒りが戻ってくるのを感じた。
「話が見えないんだけど、あんたたち、何処にいるのよ?」
「それが、分からねえんだ。何て言うか、つぶれた病院みたいな建物だけど……。ケイタイをぶっ壊されてGPSも使えねえ。それで救急車も呼べない状態だったのさ」
 確かにケイタイからではなかった。何処かの(〇九二ということは福岡近郊には間違いないけど)固定電話だ。局番が”三”で始まっているということは市内からじゃない。アタシは机に駆け寄ってその番号をメモした。
「そこから動けないの?」
「ダメだな。何せ、三人ともまともに歩けねえ。一番ケガの軽い俺でも、寄りかかるものがないと立てねえくらいだ……痛っ!!」
 アタシは思わず受話器を耳から話した。
「……何とか固定電話が生きてたんで、とりあえず、あんたに連絡しようと思って」
 アタシに何を期待したのかよく分からないけど、それを追求しても始まらなかった。一一九番にかけて事情を話せば向こうで電話番号から場所を割り出してくれると思うのだけど、そういう冷静な対応を今の彼に求めるのは酷というものだろう。
 アタシは久住に救急車を呼んでからの対応をレクチャーした。
 本来は警察に届けるべきことで、そのほうが消防署よりも早く彼らの居場所は割れる。しかし妙なところから梅野たちが監禁場所を脱したことが知れるのは避けたかった。おそらく熊谷も警察内のアンテナを最大限に張り巡らしているはずだからだ。
「とりあえず、そっちへ行くわ。連絡先を訊かれたらアタシのケイタイ番号を言って。もし警察を呼ぶって話になったら、県警の組織犯罪対策課の毛利課長って人に連絡を取ってもらって。いいわね?」
「そ、組織犯罪対策課?」
「詳しい説明をしてる暇はないわ。すぐ電話してね」
 久住は分かったと言って電話を切った。
 子機を置いて自分のケイタイを拾った。時計は午後十一時すぎを示していた。
 アタシは村上のケイタイを鳴らした。
「……もしもし、どうした?」
 捕らわれそうになったアタシを見て取り乱したというのが信じられないくらい平静な声だった。
「あんた、今、何処にいるの?」
「博多署にいるよ」
「ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」
「言ってみてくれ」
 アタシはメモした番号を読み上げた。
「この番号、何処のだか分かる?」
「”三”で始まるってことは糸島郡か前原市か。そっちのほうだな」
 村上は難なく答えた。そもそもアタシに福岡の局番と地域の対応を教えてくれたのはこの男なのだ。カタカタとキーボードの鳴る音がした。
「糸島郡志摩町芥屋、中尾医院。――さっき、芥屋がどうとか言ってたな」
「アタシを彼らと同じところに連れて行くつもりだったのね」
 ホテルでの会合のときに梅野と高橋、久住の三人が熊谷たちに捕らわれていることは話してあった。アタシは久住から連絡があって、彼らに救急車を呼んで警察への連絡は毛利課長を窓口にするように指示したことを伝えた。
「課長には俺から話しておこう」
「そうして。ところで芥屋で救急車に乗ったら、何処の病院に運ばれるのか知ってる?」
「ちょっと待て」
 受話器の向こうでキーボードを叩く音がした。
「糸島半島に一度に三人も受け入れられる救急病院はない。前原市内だろうな」
 アタシは礼を言った。
「ところで、どう? 熊谷は見つかった?」
「まだだ。幹線道路は避けてるんだろうな。手の内は読まれてるよ」
「キャラバンは?」
「それはさっき臨港署から連絡があって、長浜の倉庫街に放置されてるのが見つかった。その辺で乗り換えたんだろう」
 だとすれば、警察の網に引っかかるにももう少し時間がかかるということだ。
「とりあえずアタシ、前原に行くから。何か分かったら連絡するわ」
「何でお前が……って、ああ、梅野くんっていうのは、お前の彼氏なんだったな」
 アタシはちょっと口ごもってから、そうよと答えた。
「でもお前、アシがないだろ。藤田をそっちに行かせようか?」
「その必要はないわ。と言うか、あの人、何してんの?」
「俺が訊きたいよ」
 村上は電話を切った。
 この時間では筑前前原を通るJR筑肥線の終電に間に合うかどうか、ギリギリという感じだった。
 アタシは自分の財布の中身を調べた。最悪の場合はタクシーで行くことになる。いざとなれば祖父に持たされているクレジット・カードという奥の手はあるけれど、そもそも藤田がふざけた真似をしなければしなくていい出費なのだ。
 あとで請求書を送ってやる。
 アタシは急いで着替えた。シャワーを浴びたかったけれど我慢することにした。
 祖母に駅まで送ってもらおうと母屋に入ると、祖母が玄関からパタパタとスリッパの音を立てて走ってきた。
「ああ、ちょうど良かった。あなたを呼びに行こうと思ってたのよ」
「どうしたの?」
「お友だちが見えてるわよ。三村さんっていう――」
 祖母の言葉が終わる前にアタシは玄関に駆けだしていた。
 三村美幸は脱いだライダーズ・ジャケットを小脇に抱えて立っていた。Tシャツの胸元が大きく盛り上がっていて、なめらかに伸びた黒髪が汗で首筋に纏わりついている。大きな切れ長の瞳が怪しい人を見るように怪訝そうな光を湛えていた。
 アタシは自分が満面の笑みを浮かべていることに気がついた。
 美幸はおずおずと曖昧な微笑を浮かべた。
「……なんか、すっごくいいタイミングで来たみたいだね、私」

 福岡市内から西へ、玄界灘に沿って唐津、果ては長崎まで続く国道二〇二号線には場所によっていくつも別名がある。
 アタシが馴染みのあるのは天神のど真ん中を横切る国体道路、またはけやき通りという呼び名なのだけれど、これが市内中心部を離れていくにつれて別府(べふ)橋通り、今宿新道と名前を変え、やがて都市高速が終点で有料道路(今宿バイパス)と連結している辺りで唐津街道になる。
 糸島地区夜間急患センターはその唐津街道と平行して走るJR筑前前原駅に程近い、糸島医師会病院の敷地内にあった。
 駐車場に滑り込んだドゥカティ・モンスター400のタンデムシートからアタシは降り立った。
「ここで間違いないの?」
 ヘルメットを脱いだ美幸は頭を小さく振って髪の毛を揺らした。
「うん、そのはずだけど……あ、いた」
 最小限のもの以外は灯りの落とされた外来入口に痩せこけた猫背の男が立っているのが見えた。バイクのライトが見えたのか、寄りかかっていた壁から身体を離してこっちに向かって手を挙げている。
 彼らがここへ収容されたことは来る途中でかかってきた電話で聞いていた。
「ひょっとして、あれが彼氏?」
「違うよ」
「だよね。真奈の好きそうなタイプには見えないし」
「……アタシの好きなタイプって?」
「そうね、マーク・ハントとか、チェ・ホンマンとか」
「せめて空手家にしてくんない?」
 美幸はフンと鼻を鳴らした。
 アタシは二人乗りは不慣れだからと言う彼女を拝み倒して、ここまで乗せてきてもらっていた。ついでに言えば細かいことを説明する暇がなかったせいで今ひとつ事情が見えないことが、彼女を余計に不機嫌にしているようだった。
 久住は機械油の黒いシミで汚れたツナギの上半身をはだけて袖を腰のところに回して結んでいた。腫れ上がった顔のアチコチに薬を塗ったような光沢があって、左の側頭部にはこれ見よがしに大きなガーゼがテープで留められている。
「よう、遅かったな」
「ここを何処だと思ってんのよ。市内からなら一時間はかかるわ。――アンタ、歩いて大丈夫なの?」
「よく言うぜ、自分が外で待ってろって言ったくせに」
「そうだったっけ?」
 バイクを停めてきた美幸を伴って深夜の病院に足を踏み入れた。
 この時間でも(この時間だから、と言うべきか)患者は多くて、外の暗さとは裏腹に待合室は賑わっていた。
 とは言ってもこういうところは大体、急に熱を出した子供だとか食あたりしたオジサンだとか、そういった内科の患者が主なはずで、殴られてケガをした三人組というのはかなりの珍客だったに違いない。
 高橋は処置室を出て数室あるという簡易な病室で休んでいるという話だった。梅野は頭を殴られているのでより設備の充実した百道の救急センターに回されていた。
「何で、あっちに行かなかったんだ?」
 久住が訊いた。
「一応、電話はしたわ。でも、まだ検査中だって話だし、アタシがいたって出来ることはないしね」
「そんなこと言ったって彼氏なんだろ? 心配じゃねえのかよ」
「そりゃ心配よ。でも、高橋に訊かなきゃいけないことがあるから」
「タクヤに?」
 アタシは頷いた。内心では歯軋りしながら。
 高橋は処置台のような簡素なベッドに浜辺に打ち上げられたアザラシのように横たわっていた。ベッドがやけに狭く見えるのは彼自身に横幅があるからで、実際には普通のサイズなのだろう。
 アタシたちに気づくと高橋は僅かに頭を動かした。顔は青痣だらけで、ところどころ切れたのを縫った痕がある。身体ごと起き上がろうとして高橋は顔を歪めた。
 おそらく服に隠れた部分も顔と似たような状態なのだろう。こんな身体でよく病院を抜け出したり出来たものだ。
 高橋が顔を動かさなくていいように、アタシは椅子を枕元に近いところに置いて腰を下ろした。病室は狭いので久住は外で待っていると言った。美幸はアタシの背後に立っていた。好奇心満々のくせに気を利かせて席を外そうとしたのだけれど、説明の手間が省けるので一緒にいるように言ったのだ。
「お久しぶり、といったほうがいいのかしら?」
 アタシが言った。
「……かもね。話は君の彼氏から聞いたよ。梅野さんって言ったっけ」
「梅野さんから?」
「三人とも縛り上げられてたけど、口は動かせたからね。キミにはずいぶん迷惑をかけたみたいだね」
「アタシだけじゃないけどね。そういえば、警察へは?」
「君の言ったとおり、組織犯罪対策課の課長に連絡してもらったよ。――病院の人たちが何事かってビビってたけどね」
 高橋は片頬に笑みを浮かべた。
 美幸がアタシの背中をつついた。
「警察……って、そんな話になってんの?」
「そりゃ、まあ、ね」
 アタシは由真が兄の起こした医療事故に絡んである男と取引をするために、その男の事務所から重要なファイルを盗み出したこと、目の前のケガ人がそれを手伝った人物であること、それを取り戻そうとした男が由真を拘束していること、由真が盗み出したファイルは警察が追っている事件に関わるものであることを説明した。
 美幸は分かったような分からないような不可解そうな表情だった。
「ゴメンね、ホントはもっと入り組んだ話なんだけど、ゆっくり説明してあげてる時間がないの」
「まあ、それはいいけど。でも、そのことと、あなたの彼氏が何の関係があるのよ?」
「いや、彼は――」
 梅野のことをそう呼んで、アタシは頬が微かに熱くなるのを感じた。
「アタシが由真を捜すのを手伝ってくれてたんだけど」
「僕と賢治を助けようと、飛び込んできてくれたんだ」
 高橋は申し訳なさそうに目を伏せた。
「どういうことなの?」
「僕は病院を抜け出してから、須崎埠頭の倉庫に隠れてたんだ。ウチが借りてる保税倉庫があってね」
「へぇ……」
 アタシはてっきり熊谷たちが拉致に都合が良さそうだからあの場所を選んだと思っていたのだけれど、実際に高橋たちはあそこに隠れていたのだ。
「病院を抜け出してからずっと?」
「そう。普段から人の出入りもないし、隠れるのには都合が良かったんだ」
「でしょうね。でも、どうしてそこを突き止められたりしたのよ」
「賢治がつけられたみたいなんだ。勤め先からずっと尾行されてたらしい。どうやって賢治のことを調べたのか、分からないんだけど」
 アタシは記憶のどこかに引っかかるものを感じた。
「ひょっとして、熊谷たちの一味の中にヨン様みたいなヤツいなかった?」
「ペ・ヨンジュン? ……そうだね、メガネをかけた髪の長い男はいたけど。笑ってれば似てなくはないかもね。コミヤって呼ばれてたけど」
「やっぱり」
 アタシは早合点してしまっていたけど、高橋の叔母のところへ聞き込みに現れた博多署の刑事は村上ではなかったのだ。確かに母親に訊けば分かることをわざわざ聞き込みにいったというのは、いかにも不自然だった。
「それで、熊谷たちは久住のあとをつけて、アンタの隠れ家に現れたってわけね」
「ああ。顔に包帯を巻いたエラそうな男と角刈りの大男と。あと、そのメガネと翳の薄そうなヒゲ面のオッサン」
 古瀬、大沢、そして小宮と(おそらく)永浦。宮田という女以外はFBRのメンバー全員、揃い踏みだったというわけだ。
「僕はこんな状態だし、賢治は威勢はいいけどケンカはからっきしだからね。二人ともあっという間にボコボコにされちゃって、ワンボックスに運び込まれようとしてたんだ。そしたら、そこに梅野さんが現れて、ボクたちを助けようと――」
 高橋はそこで絶句した。
 四人が相手でしかもその中に大沢がいては、多少は腕も覚えがある梅野でもひとたまりもなかっただろう。いくら気が荒い元ヤンキーでも、それが分からないほど梅野が向こう見ずだとは思えなかった。
「それで芥屋に連れて行かれたってわけ? ――何て言ったっけ」
「中尾医院だよ。あそこはあいつらのアジトっていうか、何かあったときのためにキープしてるとこみたいだね。多分、由真ちゃんのお父さんの実家だと思うんだけど」
 高橋は由真の父親、徳永圭一郎の旧姓が中尾だということを教えてくれた。
「……それって、徳永さんのお父さんも関わってるってことなの?」
 美幸が恐る恐る口を挟んだ。
「いや、それはないと思うよ。あそこはずいぶん前に廃院になってたようだから」
 アタシは大きく息をついた。
 徳永麻子は由真の脅迫行為を偽装したのは夫と息子の目を欺くためだと言っていた。それは嘘ではなかったことになる。何の救いにもならないけど。
「ところで、いくつか教えてほしいことがあるんだけど、いい?」
 アタシは訊いた。
「いいよ。なんだい?」
「アタシにあのディスクを送ってきたのは、どういう意味だったの? 由真に頼まれたっていうのは、どうやら嘘みたいだけど」
「そうだね、それは確かに嘘だ。彼女にはあのディスクは処分しておいてって言われてたんだ。でも、僕はどうしてもそうすることが出来なかった」
「どうして?」

「……多分、由真ちゃんが破滅に向かってることを、何となく感じていたからだと思う」
 高橋はまた目を伏せた。
「彼女の気持ちも彼女のやろうとしていることも、僕は理解しているつもりだったし、彼女がやることなら、僕も最後まで付き合うつもりだった。それがハッピー・エンドじゃないとしてもね。でも、もしそうなったときに誰かに彼女がやろうとしたことを知らせておかなくちゃ、彼女の身に何が起こったのか、その手掛かりを残しておかなくちゃ――そう思ったんだ」
「一度、ディスクに入れたファイルを消したのは?」
「苦肉の策だったとしか言いようがないね。もし由真ちゃんの計画が思惑通りにいくとしたら、当然、熊谷のファイルを公表するわけにはいかない。でも、最初から見られる状態にしておいたら、内容が内容だけに警察に持ち込まれるかもしれない。キミのお父さんが元警察官だという話は聞いていたからね。だから、コンピュータの知識のある人間が調べれば分かるようにああいう形にしたんだ」
「悪かったわね、コンピュータ音痴で。それじゃ、もう一つのファイルは?」
「もう一つ?」
「徳永麻子――由真の母親の供述書よ」
「あれは……」
 高橋の顔が違う意味での苦痛に歪んだ。しかし、口を開こうとはしなかった。







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