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Left Alone

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  第 5 章  

 六月の終わりの土曜日。外は気が滅入りそうな雨が降り続いていた。
 バイク乗りだった去年までは一年でもっとも憂鬱な季節で、それも今年からは関係ないなと高をくくっていた。ところが、ロードスターの幌が意外に雨漏りしやすいという事実に、アタシは相変わらずほぞを噛む思いをしていた。
「……で、何で俺だったんだい?」
 デパートの紳士服売り場を出ると、藤田知哉は釈然としない面持ちで言った。この大陸系のシャープな顔立ちの男は村上の同僚で、県警の捜査四課の刑事だ。いわゆるマル暴というやつだ。とてもそうは見えないけど。

 彼は二年前の事件のときに、由真を監禁していた一味のワンボックスに引きずり込まれそうになったアタシをクルマごとの体当たりで助けてくれた恩人だったりする。それの恩を着せるというわけではないけれど、会うたびに「友だちを紹介しろ」と警官らしからぬ軽薄なことばかり言っている。

 しかし、そうかと思えば、三十歳そこらでありながら捜査主任を任されていたりと、どうにも捉えどころのない男だった。

 振り込まれたモデルのギャラと居酒屋の給料、それと以前からの残高で目標金額を達成したアタシは、非番だというこの男を呼び出してお目当てのものを買いに街に出て来ていた。
「だって、アタシの知り合いで紳士服のことに詳しそうなのって、藤田さんしかいないですもん」

「別に詳しいってほどじゃないけどね。――あれだろ、村上へのプレゼントとか言ってたけど」
「ええ、まあ」
 アタシはうなづいた。

 手にはヒューゴ・ボスのスーツバッグとショッピングバッグを抱えている。チャコールグレイにピンストライプの入った三つ釦のシングル・ブレスト・スーツ。パウダーブルーとアイヴォリーのドレスシャツがそれぞれ二枚。革のベルトとレジメンタルのネクタイが三本。ネクタイピンとカフスボタンが一揃い。
「でも、このことは村上さんには内緒ですよ」
「言わないよ。最近は忙しくて、そんなに顔も合わせないし」
 雨が降っているのでデパートの地下二階まで降りて天神地下街に入った。

 天神周辺は地下街を中心に地下通路で連結されているので、渡辺通り沿いの主だったビルには雨に濡れずに移動することができる。荷物を地下街の駐車場に停めたロードスターに放り込んでから、しばらく街をブラブラすることにした。せっかくの非番だというのに雨で予定が流れた藤田が夕方まで時間を持て余していたからだ。
 旧西鉄駅ビルの三フロアを占めるタワーレコードを見て回った。若いのに年寄りぶってジャズやクラシックを聴く村上と違って、藤田とは比較的聴いている音楽の趣味が近いので話があうのだ。ワゴンセールの並行輸入CDを買ったり藤田がお奨めだというヘヴィメタル系のものを試聴したりした。デートと呼ぶには微妙な距離感だったけれど話はそれなりに盛り上がった。
 ただ、ヒールのある靴を履いていた(できるだけ履き慣れるようにと言われているのだ)せいでアタシは普段より早く歩き疲れた。新天町にあるプロントでアタシはコーヒーを、藤田はエスプレッソを頼んだ。
 藤田はモデル業界の話を聞きたがった。アタシは差し障りのない(つまり彼の夢を壊さない)範囲で業界で見知ったことなどを話した。一方で藤田は捜査中の裏話のようなことを話してくれたのだけれど、大半は笑うに笑えないきわどいエピソードで、アタシはイ・ビョンホン似のハンサムである藤田が彼女いない歴五年(本人談)の独り身である理由を何となく理解した。
「ところで、一つ訊いてもいいかな?」
「何です?」
「プレゼントとか言ってたけど、村上の誕生日っていつだっけ?」
「二月八日です」
「だったら何で今ごろプレゼントなんかあげるんだい? しかもヒューゴ・ボスで一揃えっていったら十五、六万じゃきかないだろ」
「……まあ、そうですけど」
 実際には二十万円を少しだけ越えている。けれど、藤田の口調に咎めるような響きがあってそれは言えなかった。
「そりゃ自分でアルバイトして稼いだ金なんだから、俺がとやかく言う筋合いでもないんだろうけどな。でもちゃんとした理由がないと、あのお堅い村上さんはいい顔しないと思うぜ」
 確かに十八歳の小娘が他人への贈り物に使う金額としては度を越しているという思いはある。けれど、アタシにはそれを贈るだけの充分な理由があった。少なくとも自分ではそう思っていた。
「お祝いのつもりなんです」

 気まずさと一緒にコーヒーを飲み干した。
「お祝い?」
「ええ。村上さん、今度、警部補に昇進するんでしょ?」
 藤田は何故か、唖然とした表情をしていた。
「……何で真奈ちゃんがそれを知ってるんだ? 村上が言ったのか?」
「いえ、辞令がデスクに放ってあったんです。アタシ、ときどき村上さんの部屋の掃除してるんで」
「なるほど、それで、ね」
 その紙切れを見たときにアタシの脳裏に浮かんだのは、安堵でも祝福でもない。
 いや、もちろんそういう感情もあった。けれど、アタシが感じたのは苦い申し訳なさだった。権藤という彼の元上司(アタシの父親の上司でもあった)から、実は村上が父を告発する直前に受けていた警部補昇進試験に合格していた――そして上層部に刃向かったペナルティで取り消された――という事実を聞かされていたからだ。そして、おそらく今後の昇進は絶望的とも。
「じゃあ、ホントのところは聞かされていないんだな」

 藤田の眼差しに暗い翳がよぎった。
「何をです?」
「村上が異動になったことさ」

「まあ、辞令を受けたこと自体知らないことになってますからね。でも、それって普通のことなんじゃないんですか?」
「そうなんだけどね」

 警察では昇進と異動はセットになっていて、必ず違う部署へ配属されることになっている。アタシの父親も警部補になったときにはそれまで所属していた県警薬物対策課から機動捜査隊に異動している。権藤課長に呼び戻されて一年で元の部署に戻っているが。 
 藤田は「いいかな?」と訊いておいてから、返事を待たずにタバコに火をつけた。
 その場に気まずい沈黙が漂った。話の糸口を探すように立ち上る煙を眺めてから、藤田は半分ほど吸ったタバコをプラスチックの灰皿で押し潰した。
「いずれ何処かから――たぶん権藤のオッサンから耳に入るだろうから教えておくよ。今回の村上の昇進は異動ありきのものなんだ」
「意味が分かんないんですけど?」
「あいつを捜査の現場から外したくて仕方ない連中がいるってことさ」
「どういうことですか?」
「言葉の通りだよ。村上が真奈ちゃんのお父さんの件で、上のほうに疎まれてるのは知ってるね?」
「ええ、まあ。それが理由で村上さんは博多署に異動させられたんですよね」
「まぁね。でも、それでも飽き足らないやつがいるらしいんだ」
 藤田はほとんど無意識のような手つきで二本目のタバコに火をつけた。
「あいつみたいに事情のあるやつは、下手に報復人事をやるといろいろと不都合がある。特に村上は例の情報漏洩事件の内情を知ってるからな。もし不服申し立てなんてやられて、公開審理であの事件のことなんかぶちまけられたらせっかく内通者の処分で内々に済ませたのが無駄になるし、マスコミにも叩かれかねない」

 情報漏洩云々というのは二年前の事件の副産物のようなもので、殺人を犯した母親を脅迫していた熊谷という男との取引のために、由真が彼の手元から盗み出したMOディスクに記されていた福岡県警の内通者の名簿のことだった。熊谷はその内通者からの捜査情報を売り渡していた情報屋だったのだ。
「その点、昇進に伴う異動なら文句のつけようがない。知ってるかい? 村上のやつ、あれから試験なんか受けてないんだぜ。それなのに推薦枠で昇進だとさ」
 予想もしなかった話にアタシの心は千路に乱れた。お祝いどころの話ではなかった。佐伯真司は――そして、その娘であるアタシは――まだ彼を苦しめ足りないのか。
「異動先は何処なんですか?」
「県警の警務課だったかな。警察訴訟を扱うセクションの係長か何かになるんだったと思う。上手い落とし所だよな。あいつ、西南の法学部卒だろ?」
「そうですけど」

「まあ、それでも一からやり直しだって言ってたからな。家に帰っても難しい本と睨めっこだろうよ」
 藤田はそう言って、タバコを深々と吸って煙を吐き出した。
 何を言えばいいのか、分からなかった。
「……じゃあ、村上さんは刑事じゃなくなっちゃうんですか?」
 それだけをようやく言った。藤田はアタシのじっと見詰めてから諦めるような淡々とした口調で言った。
「そういうことになる。今後はあいつも制服組だ。せっかくスーツを贈るのにこう言っちゃなんだが、それを仕事で着る機会はないだろうな」

 その夜、居酒屋のアルバイトを休んで、村上のマンションに向かった。
 駐車スペースにはパールホワイトのフェアレディZが停まっていた。部屋の窓に灯りが点っているのが見て取れた。
 エントランスのインターホンを鳴らすかどうかちょっと迷って、預かっている合鍵でオートロックを開けた。静まり返った廊下にアタシのヒールが立てる硬い音が響いた。
 ドアの横の呼び鈴を鳴らした。しばらくして、ドアの向こうでカチャカチャとチェーンロックを外す音がした。
 開いたドアから村上が顔を覗かせた。メガネの奥の目が訝しげに曇っている。
「どうした、こんな時間に?」
「……ごめん、入っていい?」
 村上はアタシが通れるように身体を避けてくれた。
 乱暴に靴を脱いで部屋に上がった。廊下に干してあったバスタオルを無造作につかんで頭や肩を拭う。外は昼にも増して土砂降りになっていて、駐車場からほんの少し歩いただけですっかりずぶ濡れになっていた。
 一昨日、掃除しに来たばかりなので部屋は綺麗なままだった。
 出した物を元のところに戻さないから片付かないだけで、もともとそれほど物が多いわけじゃない。シングルベッドとクローゼットが二つ。二人掛けの小さなソファ。冷蔵庫と小さな食器棚。キッチンは本格的に料理をするには役不足なオモチャのような代物だ。ローボードにはミニコンポが、やけに奥行きのあるSFっぽいデザインのパソコンデスクにはごちゃごちゃとコードが繋がったノートパソコンが乗っている。
 その横のスペースに開いたままのハードカバーの本が伏せて置いてあった。背表紙には”刑事訴訟法概論”という仰々しい文字が並んでいる。他にも数冊、法律関係の本が平積みになっている。
「明日は仕事?」
「日曜だから休みだ。このところ暇だし、呼び出されることもないだろう。――どうしたんだ、いきなり?」
「あんた、刑事の仕事から外されるんだって?」
 村上は当惑したように大きく息を吐いた。
「……誰から聞いた?」
「藤田さんから。でも、誤解しないで。アタシがあんたがほったらかしてた辞令のことを訊いたからなの」
 村上はパソコンデスクの下に押し込んであるキャスター付きのサイドチェストを見やった。その抽斗に辞令の紙が入っているのだろう。
 言葉を探すようにしばらく視線を彷徨わせて、村上は口を開いた。
「まあ、そういうことになりそうだ」
「なりそうだ!?」
 不意に出した声は自分でも驚くほど大きなものだった。
「ずいぶんと素直なのね。今まで上司に逆らい続けてきたあんたが」
「人を聞き分けの悪いガキみたいに言うな。そりゃ、納得できないことにできないとは言ってきたがな」
「へえ。今度のことは納得してるんだ。これって、三年前の意趣返しなんでしょ?」
「藤田のやつが勝手に言ってることだ」
 村上は小さく鼻を鳴らした。
「警務課の係長が一人、身体を壊して休職したんで補充の必要が生じた。警務課の課長は人事に「後任には法律に明るい人材を」と注文をつけた。そこにたまたま警部補試験に合格した俺がいた。別に規定があるわけじゃないが、係長ポストは警部補以上が就くのが慣わしでね。俺は法学部を出ているし、自慢じゃないが司法試験も短答式までは通ったことがある。現場で充分な経験を積んでもいる。打ってつけの人材だったというわけさ。俺は課長直々に「ぜひ来てくれ」と言われた。知ってのとおり警察じゃ昇進したら必ず異動することになってる。何処に赴任するかは分からないし、遠くに行くことになればまた引越ししなきゃならない。だが県警本部ならその必要もないし、どうせなら得意分野を生かせる仕事のほうがいいに決まってる」
 村上は理路整然とそう言った。まるでアタシに問われたときの答えを用意していたかのように。
 けれど、彼の言うことには大きな穴があった。
「刑事を外されても何ともないの?」
「そりゃ慣れ親しんだ仕事だからな、寂しくないと言えば嘘になる。でもまあ、休みもろくに取れない仕事はいい加減疲れたよ。内勤になれば週休二日、バッチリだしな」
「そんなもの?」
「お前の言いたいことは分かるよ。刑事一筋の佐伯さんを見て育ってきたんだからな。だが刑事だけが警官の仕事じゃないさ。それに二、三年で現場復帰の可能性だってある。捜査には経験が不可欠だし、何と言っても俺は経験豊富な捜査員だからな」
 村上はニヤリと笑った。
 いつも仏頂面だからといって村上がまったく笑わないわけじゃない。大好きなクルマ雑誌を眺めているときは子供のように顔をほころばせるし、一度、ビリヤードで勝負したときにはブレイクショットでナインボールを落として憎らしいほど得意げな笑みを浮かべたこともある。何が可笑しいのかアタシには理解できないようなことで爆笑することだってある。
 でも、それは今まで見た中でもっとも不似合いな笑みだった。
「……嘘ばっかり」
「何だって?」
「どうしてそんな嘘つくの?」
「俺が何の嘘をついたと言うんだ?」
「あんた、警部補の試験なんて受けてないんでしょ? なのにどうして”そこにたまたま”いられるのよ!?」
 疑問の答えはすでに藤田から聞いていた。上層部にとっての爆弾を抱えた村上に異を唱えさせないためだ。もしそれを不服として村上が警察を辞めれば、その後に何を言っても”異端分子の戯言”として握り潰すことができる。情報漏洩事件は確かにスクープだが、警察との関係を悪化させるリスクを冒してまでマスコミがそれを取り上げることはない。
 村上は何か言い足そうとして、思い止まったように黙り込んだ。
「……ごめんなさい」
「えっ?」
「ごめんなさいって言ったの!!」
「……何か、お前に謝られるようなことがあったか?」
 アタシは村上を睨みつけた。
 彼にその経歴と幸せだった結婚生活を投げ出すようなことをさせたのはアタシの父親であってアタシじゃない。今度のことだってそれが遠因であってアタシが責任を感じる必要など何処にもない。村上はそう思っているのだろう。
 そうじゃなかった。アタシの心の中にはそうまでしてくれた彼を、父を告発した裏切り者として恨み続けたという事実が抜けない棘のように刺さったままだった。
「どうして、何にも言ってくれないの!? 父さんの事件のときだってそう。本当のことを話してくれてれば、あんなにあんたを恨まずに済んだ。そうやって何でも自分一人で抱え込んで、何でもないよって顔するのが格好いいとでも思ってるの?」
 村上はしばらくアタシの顔をじっと見詰めて、魂を吐き出すような深いため息をついた。
「お前が何と言おうと、これは俺の問題だ。――悪いが帰ってくれ」
「嫌よ。絶対に嫌。あんたが本当の気持ちを話してくれるまで帰らない!!」
 村上の目が怒りで煌った。しかしそれはすぐに消えて、いつもの深く昏い井戸のような眼差しに戻った。
 乱暴な手つきでジャケットを掴むと、村上は「出かけてくる」と言い残して部屋を出て行った。
 アタシはたった一人で取り残された。

 どれくらいそうしていたのか。アタシは床に座り込んで呆然としていた。

 何もかもぶち壊してやりたい衝動に駆られながら、しかし、何もする気が起きなかった。
 立ち上がって勝手に冷蔵庫を開けた。中にはアタシが作り置きしたお惣菜のタッパーとギネスの缶が並んでいる。吸っていた輸入物のキャメルが手に入らなくなって禁煙した分のお金はビールに回っている。
 缶を一本とってプルタブを押し上げた。一息に半分ほどを飲んだ。コクのある苦みとほんのりした甘みがギネスの特徴だ。普通のビールのように喉越しを云々するものじゃない。
 でも、アタシは残りの半分も一気に飲み干した。味を楽しみたかったわけじゃない。ただ少しでも――ほんの少しでもいいから酔いたかったのだ。

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