Left Alone

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  第 7 章  

 姪浜駅の高架橋の南側、西区役所やショッピング・モールなどが建ち並ぶ通りから折れた路地裏に、白石葉子が住んでいたアパートはあった。外壁はクリーム色、スレート葺きの屋根と羽目板の部分はスカイブルー。アタシの通う福大近辺でもよく見かける、いかにも急ごしらえという感じの軽量鉄骨の二階建てだ。
 もっとも、それらは洗いすぎたシーツのように色褪せてしまっていて、建物全体が時間の流れの中に置いていかれてしまったような古びた印象を放っている。外階段の手すりはペンキが剥がれて金属の地肌が覗いていて、ベランダの柵だけが塗り直したばかりのようでやけに真新しい白になっていた。
 敷地の入口のフェンスには入居者募集の看板が出ていて、”姪浜パシフィック・ハイツ”という名前と市内中心部で見かける物件よりも三割以上は安い家賃が書かれていた。福岡が太平洋に面していないことはこの際追求しないでおくとしても、目の前の建物をハイツと呼ぶのはいささか無理があるように思えた。
「……あっつぅ」
 道路沿いの自動販売機で買ったアクエリアスのペットボトルを首筋に当てながら、誰に言うともなくぼやいた。近辺に駐車できるスペースがあるかどうか分からなかったので、近くのファミリー・レストランにロードスターを停めて、ウンザリするような暑さの中をここまで歩いてきていた。パウダーシートとハンドタオルで何度も汗を拭ったせいでメイクはほとんど落ちてしまっている。日焼け止めの効果がなくなっていなければいいけど、と思った。変な焼け方をすると由真の小言を喰らうことになりそうだった。
 葉子の父親から預かった合鍵のプレートには<二〇二>と記してあった。
 二階の階段側から二つ目の部屋の窓にはカーテンが掛かっていた。ベランダのフェンスにはガーデニングを始めたばかりという感じでまばらにプランターがフックされている。洗濯物の類が見当たらないのは二階ということで葉子が外に干さないようにしていたか、母親が片付けたのかのどちらかだろう。
 正面からでは見えないが、階段を上りながらだと建物の横と裏手が入居者用の駐車場になっているのが見える。すっかり傷んでしまったアスファルトに普通のセダンなら何とか収まりそうな幅で区割りしてあった。各部屋に一台分のスペースがあるようで、それぞれに部屋番号と思しき数字が割り振られている。
 父親によると葉子はペーパー・ドライバーでクルマは持っていなかった。あまりにも危なっかしいので周囲に運転を止められていて、免許は身分証明書としてしか使っていなかったらしい。
 だとすれば空いているはずの二〇二のスペースには、シルバーのAMGメルセデスのクーペがいかにも窮屈そうに停まっていた。
 葉子の恋人でも来ているのだろうか。彼女はアタシが出たブライダルのショーを見に来ていた。そういう相手がいてもおかしくはない。
 しかし、単に葉子が自分が使っていないスペースを誰かに又貸ししているだけかもしれないし、あるいは他の部屋を訪ねてきた誰かが勝手に空いているスペースに突っ込んでいるだけかもしれない。どちらかと言えば後者のほうがありそうな感じがした。
 にもかかわらず、アタシはその場からメルセデスをじっと眺め続けていた。福岡でもそう珍しいクルマというわけではないのに、その佇まいはアタシの心を捉えて離さなかった。
 理由は分かっていた。これとまったく同型のAMGメルセデスに乗っていた知り合いがいたからだ。
 アタシの脳裏に、このドイツの高級車と結びついて離れないある男の面影が浮かんでいた。
 
 アタシは子供のころからメルセデス、それもシルバーのメルセデスにちょっとした思い入れがある。洒落者の祖父は昔からずっとシルバーのメルセデスを乗り継いでいて、アタシには「お祖父ちゃんのクルマと言えばコレだ」という親しみのようなものがあった。
 何だかんだ言っても父の国産車とは乗り心地や周囲の視線も雲泥の差で、二台で連れ立って出かけるとき(母の生前にはよくあったのだ)などは悪いなと思いながらも祖父のメルセデスを選んでいたものだ。父が拗ねていたという話を後で母に聞かされてからは二回に一回は父の隣に乗るようにしたが。
 しかし、二年前の事件で知り合ったある中年男性が、アタシにとってそんな微笑ましい思い出のあるメルセデスを見るたびに苦いものを思い出す存在へと変えてしまっていた。
 その人の隣には一度しか乗ったことはない。夏の夜、家まで送ってもらったほんの一時間ほどのことだ。取り立ててアタシと彼の間を埋める何かがあったわけではなかった。話してくれたことは大半がアタシを騙すための嘘だったし、アタシは彼の背中にべったりと貼り付いた暴力の影への抜き難い嫌悪に捉われていた。
 しかし、アタシは同時に彼に対して奇妙な親近感も覚えていた。話の行きがかりの中で、彼がかつて愛した女性とその忘れ形見である娘――アタシの親友――への想いを語ってくれたからだ。
 今にして思えばそれは彼がアタシに話した、たった一つの真実だった。残念なことにその想いは彼を復讐に駆り立てただけで、何の救いももたらさなかったが。
 
 ふと、二階の廊下に人の気配がした。誰か降りてくるようだった。いかにも安普請な床が立てる足音とともに、階段の降り口にその男が姿を現した。
 何事もなかったようにすれ違おうとして、アタシは立ちすくんだ。
 その男は真夏だというのに、大柄な身体を仕立ての良さそうなブラックスーツに包んでいた。濃いグレーのシャツと臙脂色のネクタイ、少し時代遅れなレイバンのティアドロップという組み合わせは、まともな仕事をしている風には見えなかった。
 
 ――熊谷さん?
 
 心の中で呟いてから、そんなはずはないことに気づいた。熊谷幹夫は二年前、アタシの目の前で部下に裏切られて銃弾に倒れている。
 よく見れば、その中年男性と熊谷が似ているのはパッと見た感じだけだった。横幅の広い体格、顔の大きさと血色の良さ、押し出しの強そうないかつい物腰。年齢は一回りは年下のせいぜい四十代前半、ヒゲも生やしてなかったし、耳朶も柔道家特有の潰れ方はしていなかった。服も系統は同じだけれど、目の前の男性のほうが一段以上は良いものを着ているようだった。何よりアタシの横を通り過ぎるときの「……失礼」という声は見た目と違って柔らかく、熊谷のような錆を含んだバリトン・ヴォイスではなかった。
 男はこちらを振り返ることもなく階段を降りてメルセデスに近寄った。ジャケットを脱いで後ろの席に放ると、芝居がかった身のこなしで左ハンドルの運転席に乗り込んだ。車内の誰かに話しかけているようだったけれど、こちらからは助手席はよく見えなかった。
 メルセデスが優雅に走り去るのを見送ってから、階段を上がって二〇二号室の前に立った。
 集合式の郵便受けではなくて各部屋のドアに郵便物や新聞を挿し込む細長い蓋のついたスリットがあった。葉子の部屋のそれには何も挟まっていなくて蓋は閉じていた。
 合鍵でロックを外して、ドアを開けた。
 ムッとするような熱気の篭った一Kの和室は薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む陽射しに宙を舞う埃がキラキラと光って見える。
 靴を脱いで、その微かな明かりを頼りに部屋に上がった。灯りは今どき珍しい紐を引いて点灯するタイプのもので、変なものを踏まないように用心しながらそこまで移動した。 床は積み上げた雑誌やCDのケース、脱いだ服などで埋め尽くされていて、カーペットはほとんど見ることができない。
 灯りを点けると、とても女の子の住まいとは思えない散らかりようの室内が目の当たりになった。奥にはセミダブルのベッドがあって、今起きたばかりのようにタオルケットが大きくめくれていた。脱いだままのパジャマがクシャクシャになってわだかまっている。天井のベッドに横になると向かい合う位置にL'Arc〜en〜Cielのヴォーカリスト、hydeの顔が大写しになったポスターが貼ってあった。

 テレビに繋がったプレイステーション2の上にゲームのCDのケースと攻略本が載っていて、コントローラーは向かいの座椅子の上に無造作に転がっていた。
 カーテンレールにはクリーニングから返ってきたままの派手なスーツやワンピースが鈴なりになっている。ピンチハンガーには色とりどりの下着がぶら下がったままだ。
 母親は葉子の死後にこの部屋に入っているはずだ。なのに部屋のものに手をつけた様子はほとんどなかった。食べ滓やタバコの吸殻などが見当たらないくらいか。この時期、暑い部屋の中にそれらがあればかなりの異臭を放っているはずだ。
 おそらく遺影に使う写真を取りに来たとか、この部屋に入った目的はそんなところだったのだろう。そして、勝手に触るとブツクサ言う娘の顔を思い浮かべながら目に付いたものだけを片付けた。そんな感じだ。もう葉子が文句を言うことはないのに。
 アタシは唾を飲み込んだ。それはまだ、両親が娘の死を実感として捉えることができないでいる証しなのだ。
 
「――さて、と」
 誰に言うともなく呟きながら、雑然とした部屋の中を見渡した。この散らかった部屋の中で、何を探すのかも定かではない捜索をするのは徒労以外の何者でもないような気がしていた。
 念のために手で埃を払ってから、ベッドの縁に腰を下ろした。
 母親はスクラップ・ブックを座椅子の脇の小さなテーブルの上で見つけたと説明してくれていた。そこは他にお徳用のウェットティッシュのプラスチックの箱、ペンや耳かき、爪切りなどの小物を雑然と押し込んだファンシーケース、メイクに使っていたらしい鏡が載っているだけだ。
 母親が言ったように本の類は見当たらない。少女マンガなら古本屋が開けそうなほどあったけれど、ざっと見渡して読んだことがあるのは「ガラスの仮面」だけだった。
 うず高く積み上げられた雑誌の山の一つに手を伸ばしてみた。大半は「Cancam」や「JJ」といった売れ筋のファッション誌で、中に数冊、傾向の違うギャル系のものやちょっと背伸びした感のある大人びたものが混じっている。
 あるかもしれないと思っていた、アタシが出たドライブ特集の記事の載った地元のタウン誌は見当たらなかった。
 アタシの名前――佐伯真奈のほう――が一般の人の目に触れる形で出たのはその記事しかない。全国区ならともかく地方の広告やカタログの類にモデルの名前が出ることはまずないからだ。ショーの際にモデルの名前がパンフレットに載ることはあるにしても、葉子が見ていたブライダル・ショーではアタシは代役で、打ち合わせ用の資料でさえも差し替えはされていない。彼女がどうやって父が渡したであろう写真の”ザ・ビースト”と今のアタシを結びつけたのかは謎のままだ。
 仕方ないので、葉子の身辺や近況に関わるものがないかを探し始めた。
 遺影を見たときから何となく疑問には思っていたのだが、葉子の部屋には若い女性の部屋には大抵あるはずのものが見当たらなかった。写真やプリクラの類だ。アタシの部屋にすら由真と一緒に撮った(というか、撮らされた)プリクラがあるというのに。
 勤め先で使うような派手な化粧をした写真では差し障りがあるだろうけど、遺影はあまりにも化粧っ気のない証明写真のような代物だった。もちろん、それでも彼女の素顔の美しさは伝わってきた。それでも、もうちょっと若い女性に相応しいものがあったはずだ。
 交友関係を示すような手紙の類も見つからなかった。ケイタイが出来てからというもの、アドレス帳を持ち歩く習慣というのは滅びつつあるようで、葉子もその例外ではなかった。日記は探すまでもないような気がしたし、実際にそれらしきものは見当たらなかった。
 ベッドの下に半ば潜り込むように置いてあったセシル・マクビーの大振りなポーチの中に預金通帳や印鑑、保険証などがこれまた雑然と押し込んであった。
 通帳は一冊だけで西日本シティ銀行のものだった。最初の一ページに二〇〇六年五月二十日の口座開設のときに一万円入金したことと、そのおよそ一か月後の二〇〇六年六月二三日に”給与”という項目で”ユウゲンガイシャナンヨウカンコウ”から二十七万円が振り込まれたことが記されていた。そのあと、公共料金やケイタイの料金などが引き落とされた記録がズラリと続いて、およそ一か月後の二〇〇六年七月二十五日に次の給与、三十五万円が振り込まれていた。
 記帳がされているのはそこまでだった。通帳が作られたのは葉子が二十歳を迎えてすぐで、言い渋る父親から訊き出した中洲で働き始めた時期とも一致している。
 それ以前には彼女は姪浜にある小さな運送会社で事務員をしていたそうだ。周船寺から通えない距離でもないのに一人暮らしをすると言い張った葉子と両親はかなり揉めたらしい。転職後に通帳を替えた理由は定かではないけれど、給料の振込先の銀行を指定されることはたまにある。アタシのモデルのギャラもそうで、居酒屋のバイト用と合わせてアタシは西日本シティと福岡銀行にそれぞれ口座を持っている。ナンヨウカンコウがどういう字を当てるかは分からないけれど、アタシには中洲の生き字引のような知り合いがいる。割り出すのはそう困難なことではないだろう。
 通帳を持ち出すのはさすがにやりすぎのような気がした。念のために口座番号を書き写すものを拝借しようと見回していて、別の雑誌の山の間に挟まった見覚えのあるレター・セットが目に入った。葉子がアタシに宛てて書いた手紙に使われていたラベンダー色のものだ。
 注意深く雑誌の山を動かして、レター・セットを引っ張り出した。
 封筒はまだ三通分残っていたけれど、便箋は一枚も残っていない。その代わりに雑誌の間には書き損じた手紙が挟まっていた。あの短い文面を書くのに相当に呻吟したらしく、大きなバツ印でボツにしたものや途中で気晴らしのように関係のないイラストを描いたものもあった。
 白石葉子がアタシの父親とどういう会話をしていて、彼女にとってアタシがどういう存在であったかは知る由もない。何故、今になってアタシの前に現れようとしたのかも分からない。
 彼女が父に助けを求めなければ。そして、渡利という男の策略に陥らなければ、アタシの人生はずいぶんと違うものになっていたはずだった。それは正直にそう思う。
 しかし、今さら彼女にぶつける怒りの感情の持ち合わせはなかった。父は刑事として渡利たちを追ったのだし、仮に密告者が彼女じゃなくても――アタシと同じ歳若き少女でなかったとしても――やはり父はその身を守ろうと拳を振り上げただろう。
 会って話をしていれば。手紙を受け取ったあのとき、彼女のことを探していれば。
 もはや叶わない望みの前に胸が詰まる思いだった。

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