Left Alone

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  第 11 章  

 翌日は生憎の曇りで、空は気が滅入りそうな鉛色だった。
 昼前になってようやくベッドから這い出したアタシたちは慌しく身支度を済ませて、今宿新道を姪浜の葉子のアパートへと向かっていた。
 由真のBMW328iツーリングはロードスターとは比べ物にならないほどパワフルで、その大きなボディとは裏腹にきびきびとよく走る。本当は他人のクルマを運転するのは好きではないが、天気予報は午後から激しい雨が降ると伝えていて、雨漏りの不安を拭えないロードスターで出かけるのは気が進まなかったのだ。
 スピーカーからはセルジオ・メンデスの〈マシュ・ケ・ナダ〉が流れていた。ポップなのに何処か哀愁のあるメロディは最近のアタシのお気に入りだ。ドライブ・ミュージックは基本的にジャンケンの三本先取で決めることになっていて、今日は三連勝でアタシの圧勝だった。
 当然の帰結として、由真はCDのケースを弄びながら不満そうに口を尖らせていた。彼女は洋楽、特にこの手のワールド・ミュージックにはまったく興味がない。助手席のシートの上で膝を抱えて、ブツブツ文句を言っているのは聞こえなかったふりをした。

「CD、替えていい?」
 曲が〈プリーズ・ベイビィ・ドント〉に変わったところで、堪えきれずに由真が言った。
「いいよ。B’z以外ならね」
「……真奈のイジワル」
「何とでも言ってちょうだい」

 とは言え、いつまでもお預けを喰らわすと後で宥めるのが大変になる。それでなくても、アタシが有無を言わさずにハンドルを握っていることにむくれているのだ。ブラコン気味の由真にとって、今は東京にいるお兄さんが残していったこのクルマは、大げさに言えばお兄さんの代わりなのだ。
 曲を止めると、由真は横目でこっちを伺いながらCDを取り出した。代わりに挿し込んだのはB’zではなく、稲葉浩志のソロ・アルバムだった。彼女なりのささやかな抵抗と言ったところだ。
「でもさ、やっぱりおっきなクルマは運転してて楽だね」
 少し場を和ませようと朗らかに言ったが、由真はむくれたままだった。
「だいたい、コレ、あたしのクルマだよ。何であたしが運転しちゃいけないの?」
「だって、まだ死にたくないもん。それにあんた、道知らないでしょ」
「あ、ひどーい。ちゃんとナビがあるもんね」

「誰だっけ、この前、ナビの画面に見入ってオカマ掘りそうになったのは」
「ふーんだ。二日酔いのくせに」
「……あんたが飲ませたんでしょうが」

 なんでもないような顔をしているが、さっきからこめかみに鈍い痛みがぶり返している。
 昨夜、カラオケボックスで汗だくになるまで大騒ぎしてから、アタシと由真は留美さんの行きつけだというバーに連れて行ってもらった。そこで、どういう経緯かは思い出せないが由真と飲み比べをすることになって、テキーラやラムを交互にショットグラスで飲み干したのだ。途中、由真が選んだガソリンのような口当たりのラム――多分、レモンハートだ――を何とか飲み干したあたりまでは何とか覚えているのだが、それが致命傷になったのか、そこから先は脳みそが溶けたような曖昧な記憶しかなかった。
 そもそも中学生のときにグラッパを一本空けたことがある由真と酒量で勝負するのは、アーネスト・ホーストに立ち技で真っ正面から挑みかかるようなものだ。それが分かっていながら飲み比べに応じたのだから、その時点でアタシは相当酔っ払っていたのだろう。よく急性アルコール中毒にならなかったものだ。
「で、白石葉子の部屋の部屋を見て、どうするつもりなの?」

「どうするって?」
「……アタシが訊いてるんだけど」
「そうだね。とりあえず彼女の高校生のときの交友関係とか――特に渡利純也の繋がりを知ってそうな人物の手掛かりを捜そうかなって」

「アタシには見つけられなかったよ」
「真奈にはね。あたしを誰だと思ってるの?」
「そんなこと、自慢げに言われてもねぇ……」
 とは言え、家捜しのプロフェッショナル(?)である彼女になら、アタシには見つけられなかった何かを見つけられるかもしれない。

「まあ、夜になるまではそれくらいしかできることもないしね」
 由真の声には明らかなトゲがあった。クルマの運転やCDのことでアタシが意地悪したこととは関係ない。アタシが事件当時の経緯や関係者のこと(渡利純也が仕切っていたグループの名前など)を村上に訊くのを渋ったからだ。
 関係がこじれていなくても、村上が警察の捜査情報を話してくれたかどうかは怪しいのだけれど、それでも何の手掛かりもないよりはマシだ。それは分かっている。しかし、どの面を下げて村上にそんなことを訊けというのか。

 あの六月の雨の夜からずっと、アタシは村上のことを避けていた。
 会いたくなかったというよりも、会って何を話せばいいのか分からなかったからだ。向こうは元々アタシの動向には無頓着だったので、こっちが会おうとしなければその機会はなかった。

 それでも二週間ほど前、偶然に天神のど真ん中ですれ違ったことがあった。
 アタシは視線を合わせるのを露骨に避けながら、その場を通り過ぎた。そのせいで村上がどんな表情をしていたのかは見えなかった。
 手に負えない家事に音を上げて泣きついてくればいいのに、と思わなくはなかった。けれど村上はそんな男ではない。ケイタイには電話はおろか、SOSのメールすら入ってくる気配はなかった。
 二週間ほどして留守の間を狙って覗きに行ったら、部屋はきれいに片付けられていた。
 ――何だ、やればできるんじゃない。
 独り言のように呟いて、預かっていた合鍵を郵便受けに放り込んだ。

 福岡南環状線とぶつかる手前で姪浜方面へ右折した。フロントガラスに小さな雨粒が落ちてきていて、アスファルトが少しずつ黒っぽくなり始めている。
「……そんなに怒らなくたっていいじゃない」

 沈黙に耐え切れずにアタシは口を開いた。
「そりゃ、あいつから話を訊いたほうが手っ取り早いけど――」
「あたしが言いたいのはそういうことじゃなくて」
「……何よ?」
「どうして村上さんとそんなことになってるの、あたしに話してくれなかったの?」
 気に入らないのはそっちか。
「……だってあんたに話したら、また仲を取り持とうとかヘンなことするじゃない」
「あのねぇ、真奈。あたしだって男と女のデリケートな部分に、周りがウカツに手を出しちゃいけないことくらい分かってるよ」
「アタシとあいつはそんなロマンティックな関係じゃないけど」
「また、そういうこと言うんだからあ。……ま、真奈がどう言おうと思おうと自由だけど。でも、相談くらいして欲しかったな」

 由真は傷ついたような目でアタシを睨んでいた。
「……ゴメン」
「分かればよろしい」

 アタシの間違っても履歴書には書けない特技のひとつにピッキングがある。
 手先が器用だった元彼に教わったものだ。最初は身に付けたいとも思ってなかったのだが、やり始めると面白くて、今ではある程度のものなら外せるようになってしまっている。
 もちろん滅多にやらないし、今回も本当はやりたくなかったのだ。しかし、もう一度鍵を借りに行くには、それを求める妥当な理由が思い付かなかった。亡くなった娘の部屋に頻繁に他人が出入りするのは、いくら生前のことを知っておきたいと思っていたとしても気持ちのいいものではないだろうし、アタシも気まずい思いをしたくはない。初七日が終わったら部屋を引き払うために掃除に行くと父親は言っていたけれど、それを買って出るのもおかしな話だ。
 それでも前回、アタシは掃除魔の本能に逆らうことができずに部屋を片付けてしまっていたが。
「……せーの、よいしょ」
 あまり意味のない掛け声と共に、鍵穴のシリンダーが回るカチャンという音がした。
「開いたの?」
 由真は興味深そうにアタシの手元を覗き込んでいた。返事の代わりに鍵穴から耳かきのようなピッキング・ツールを引き抜いて、ゆっくりとドアノブを回した。
「お〜。さすが、元彼仕込みのフィンガー・テクニックだねえ」
「その表現って何だかやらしくない?」
「そう聞こえるのは、真奈が欲求不満だからだよ」
「バカなこと言ってないで、早く入んなさいよ」
 ドアを開けると、室内からは降り始めた雨を感じさせる湿った匂いが流れてきた。生ぬるい風が開け放たれた窓から吹き込んで、レースのカーテンを僅かにはためかせている。
「……おっかしいな」
「どうしたの?」
「ちゃんと窓は閉めて帰ったはずなんだけど」
「誰か来たんじゃないの?」
 確かにアタシが入った後に誰か――まあ、両親だろうが――がこの部屋に立ち入ったようで、収納できなかった分を三和土に並べておいた葉子のパンプスが隅に押し退けられている。
 窓を開けっ放しにして、雨が振り込んだらどうするのかと思いながら部屋に上がりこんだアタシは、室内の様子を見て言葉を失った。
「うっわ、何これ!?」
 由真が隣で声を上げる。
 室内は滅茶苦茶に荒らされていた。時間もなかったし物が多すぎてどうしようもない部分はあったけど、明らかなゴミは大きなポリ袋に押し込んでキッチンに集めてあったし、雑誌の類は紐でくくってまとめてあった。カーテンレールに鈴なりになっていた衣服もすべて片付けてあった。葉子はハンガーや物干しから直接洗濯した下着や衣服を着るタイプだったようで、収納スペースは逆にガラガラだった。
 途中で目詰まりしたフィルターの替えが見つからずに、中途半端にしか掃除機をかけられなかったのが心残りだったが、短時間でやったわりにはなかなかの出来だと内心でほくそ笑んですらいたのだ。
 それが、まるで部屋の様相を主の在りし日に戻そうとでもしたかのように、ドレッサーやファンシーケースの中身が床にぶちまけられていた。押入れの襖は乱暴に扱われて敷居から外れている。中を漁るのに邪魔だったのか、葉子の仕事着である派手な色合いのスーツやドレスがベッドに無造作に積み重ねてある。箪笥の抽斗は開けっ放しで元に戻そうとすらされていない。
 明らかに誰かが何かを捜した跡だった。
「空き巣……かな」
「かもね。金目のものがありそうには見えないけど。この部屋もそうだし、それ以前にこのアパート自体が」
「そりゃそうだけど、でも、そんなの空き巣だって入ってみなきゃ分かんないじゃない」
「どうだか。空き巣は入る前にちゃんと下見をするもんだよ」
「……何でそんなこと知ってんのよ」
 由真はニコリともせずに「一般常識」と答えた。どこら辺の常識なのだろう。
 壁際のドレッサーの前に、葉子が身の回りのものを入れていたセシル・マクビーのポーチが落ちていた。中を漁った跡はあったけれど預金通帳や印鑑、保険証、クレジット・カードなどは無事だった。
 変だなと思ったが、考えてみれば通帳は窓口で、カードは防犯カメラで足がついてしまう。警察に通報されて手配が回るのが早ければ現金を引き出そうとしたその場で御用だ。空き巣が諦めて置いていっていても不思議はないのかもしれない。
 由真は何かを捜すように部屋を見渡していた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっとね。――ねえ、ひょっとしてこれが例のスクラップ・ブック?」
 由真の視線の先には、葉子の母親から借りたクリア・ファイルの黒い背表紙があった。返さなくてもいいと言われていたが、持って帰る気にもならなかったのでここに置いていっていたのだ。それもロー・ボードの上の数少ないハードカバーの書籍類と一緒に床に放り出されていた。
「見ていい?」
「別にいいけど。昔の写真ならちゃんと抜いてあるから」
「なぁんだ、つまんないの」
 由真はさして残念そうでもなくファイルを手に取った。
「ふうん……。真奈の言ったとおりだね」
「どういうこと?」
「これが、白石葉子が真奈のお父さんのことを気にかけてた証拠だってことよ。つまり、彼女が例の事件に関わってた女子高生だって証拠でもあるけど。――でもねぇ」
「……でも?」
「あまりにも……何ていうか、タイミングが合いすぎてるんだよね。白石葉子が三年もたった今になって真奈に会おうとしたこと。彼女がひき逃げされたこと。そして、この部屋に何者かが忍び込んで何かを捜したこと。そしてこのスクラップ・ブック」
「ちょっと待って。これは何の関係があるの?」
「確か、これってお母さんがこの部屋で見つけたものなんだよね?」
「そうだけど。部屋の真ん中の卓袱台の上に置いてあったって」
「どうして?」
「……アタシに訊かれても。彼女が見てたんじゃないの」
「それがおかしいんだよ。何で今さら、彼女がこれを見なきゃいけなかったの? 真奈を捜していたのは一ヵ月以上も前のことだし、それだってあのファン・レターを出して終わったことなんだよ。もし、真奈と会って話をするつもりだったんなら読み返していても不思議はないけど」
「そうだけど……。ふと、当時のことを思い出したとか?」
「可能性はないこともないけどね。でも、よく考えて。白石葉子は関わっていた麻薬の売人――何て言ったっけ?」
「渡利純也」
「そう、その渡利のグループから抜け出したくて、真奈のお父さんに助けを求めたんだよ。そして、予想外の形ではあるけどそれは叶った。渡利の死後、彼女は普通の生活に戻れたんだよね?」
「おそらくね。姪浜の運送会社に就職したそうだけど」
「だとしたら一連の出来事も、こう言っちゃなんだけど真奈のお父さんのことも、彼女にとっては思い出したくない嫌な記憶のはずじゃないかな?」
 それは確かにそうだった。
「じゃあ、彼女が探偵まで雇ってアタシを捜したのは?」
「そこが問題だよね。白石葉子の真奈への想いが嘘だったとは言わないけど、それ以外の理由があったことは充分に考えられるね」
「そして、それがこの空き巣とも関係あるってこと?」
「そういうこと。ついでに言うと、ひき逃げともね」
 由真は不愉快そうに言い捨てた。

 それから小一時間ほど、由真が部屋の中のものを漁ってはアタシがそれを片付けるといった具合で、葉子の部屋を捜索することになった。
 侵入者の存在を警察に通報するべきだ、という考えは浮かんだ瞬間に消えていた。自分たちも不法侵入者であることに変わりはないし、そもそもそいつらの前に最後に部屋に入ったのがアタシである以上、在らぬ疑いをかけられてヤブヘビどころでは済まなくなる公算のほうが高い。
 次から次に抽斗やら物入れを掻き回す由真の後を着いていきながら、アタシは彼女がどんなところをどんな具合に見ているのかをじっと観察した。もちろん、自分の部屋に隠し物をするときの参考にするためだ。我ながらくだらないと思うが、こういうときの由真の邪魔をすると面倒なので他にすることがない。
「――ほ〜ら、やっぱりあった」
「何が?」
「これ」
 浮気の現場を押さえた妻のような勝ち誇った物言いに思わず手元を覗き込むと、由真は下着が入っていた籠の下からコンドームのパッケージをつまみ出していた。
「……あんた、何やってんのよ」
 由真は口を尖らせた。
「だって、ぜったいあるって思ってたんだもん」
「その”ぜったい”の根拠は?」
「勘に決まってるでしょ」
「ああ、そう。で、それから何か分かった?」
「えっとね、製造年月日は二〇〇七年の五月。やだ、最近じゃない」
 何が「やだ」だ。しかし、それはつい最近まで葉子の周辺に男性の存在があったことを示すものだった。強ち無駄な発見とも言い切れない。
「あんた、弁護士じゃなくて、国税局に行ったほうがいいんじゃない?」
「国税局?」
「そう。そこで”マルサの女”になるの」
「やだよ。あたし、取り立てとかできないもん」
 自分の側に理さえあれば――そして相手の態度が気に入らなければ――誰よりも冷酷非情にやりそうな気がするのだけれど、指摘するのはやめておいた。
 しかし、そんな由真の手にかかっても、葉子の交友関係を示すものは発見できなかった。固定電話がないので履歴をたどることもできず、郵便物も雑多なダイレクト・メールとラルクのファンクラブの会報くらいだった。クレジット・カードやケイタイの請求書は母親が持って帰ったか、あるいは封も切らずに捨てていたかだ。マンガ本やCD、DVDは彼女の嗜好を教えてくれる手掛かりにはなっても、彼女の人となりまでは教えてくれなかった。

「PCもないからメールもチェックできないし、ホント、手詰まりだよ」
 由真は不満そうに口をへの字に曲げていた。
「みんながみんな、パソコン持ってるわけじゃないからね。メールもウェブもケイタイでやれるし」
「で、その携帯電話は?」
「事故に遭ったときに持ってただろうから、多分、ご両親のところ」
「見せてもらうのは……無理だよね」
「だろうね」
 アタシたちは顔を見合わせて、どちらからともなく盛大なため息をついた。
「ん〜、でも、ここまで何もないと逆に不自然だよね」
「そうだね。男がいたんなら、その痕跡があっていいはずだけど」
 由真はこれまでところの唯一の収穫にこだわっているようだった。アタシは適当に受け流した。それ以前に、この散らかった部屋でその気になる男がいるとは信じられなかったが。
 由真は小声で何やらぼやきながらベッドに座り込んだ。部屋の半分ほどは掃除機をかけてあるとは言っても、埃を気にしなくていいのはそこくらいだった。

 ぼやいたところで進展があるわけでもない。仕方ないので、由真が押しのけた葉子の衣服を押入れに戻すことにした。
 葉子の仕事着はどれもブランド物に見せかけたノー・ブランド(要するにコピー品)で、ぱっと見た感じほどには身の回りの物にお金をかけてはいないようだった。ハンドバッグや靴などがそれなりの物なのは、服に比べてごまかしが効きにくいからだろう。一方、彼女の普段着はユニクロやGAP、コムサ・デ・モードといったところが主で、こちらもそんなに飾った感じではなかった。
 中洲のラウンジ嬢の時給がいかほどかは知らない。けれど、ちゃんと店に出ていたのなら収入はそれなりにあったはずだ。通帳にも働き始めた当初から、二十万円台後半から三十万円台半ばの金額が振り込まれている。

 それなのに葉子が安アパートに住んでクルマも持たず、ブランド物を買い漁るわけでもなければお金のかかりそうな趣味の痕跡もなく、おまけに友だち付き合いも希薄という地味な生活をしている理由はよく分からなかった。
「……あれっ?」
 乱暴に扱われてフレームが曲がった押入れ用のハンガー・スタンドの位置を直していて、それが何かにつっかえているのに気づいた。
「どうしたの?」
「うん、ちょっと。……何これ?」
 手を伸ばして引っ張り出したそれは、ガサガサした手触りの分厚い冊子だった。表紙に明朝体の仰々しい金文字で”平成十七年度卒業文集”と記されていた。
 表紙はちょうど押入れの床板と同じような焦げ茶色で、それが図らずも保護色の役目を果たしていた。下のほうには同じ書体で”福岡県立博多中央高等学校”という校名が入っている。両親から聞いていた彼女の母校だ。本来は葉子の自宅がある西区とは学区が違うけど、そこはそれ、越境入学の方法などいくらでもある。
 文集を持ってベッドの縁に腰を下ろした。
 目次によればA〜C組までが文T(私立文系)、DからF組までが文U(国公立文系)、GとH組が理系コースということになっている。白石葉子の名前は3−Dにあった。少し野暮ったい紺のブレザー姿の葉子が、遺影よりもいくらか不機嫌そうな表情でそこに収まっている。ページを上下に分けたスペースに三年間の総括や将来の目標を書かされるのは何処の高校も同じのようで、葉子はそこに「将来は自立した社会人として云々」と当たり障りのない文章を寄せていた。
 由真はアタシの隣ににじり寄って、肩越しに文集を覗き込んでいる。
「ねぇ、博多中央に知り合いとかいる?」
「中学の同級生はいると思うけど。あ、でも学区が違うからなぁ」
「そっか、あんたも早良区だから――」
「第六。博多中央は第四。っていうか、いても学年が違うから当てにならないよ」
「アタシらより二年上だもんね。ウチの事務所にいないかな?」
「二つ上っていうと留美さんだけど……。でも、博多中央って進学校なんだよね」
「そうなの?」
「うん。まあ、御三家ほどじゃないけど」
 由真の言う御三家というのは福岡高校、筑紫丘、修猷館という県下でも指折りの進学校のことだ。ちなみにいずれも県立高校で、”私立>公立”という図式が顕著な都会ではPTAで話が通じずに苦労したと、東京帰りの常務(中学生の息子がいるのだ)が言っていたことがある。
 何となくパラパラとページをめくった。
 ふと、指先に違和感を感じた。もう一度同じように指先を当てたままページを滑らせる。途中、三分の二ほどを過ぎたあたりでやはり指に引っかかる段差のようなものがあった。
 開いてみると、そこはページが乱暴に破り取られていた。F組の半ばほどで、五十音順の並びからするとタ行の辺りのようだ。
「何だろ、これ?」
「よっぽど嫌いな奴が載ってたんじゃないの」
「まさか」
 子供じゃあるまいし嫌いだというだけでそんなことをするかは疑問だ。しかし、それ以前にこれまでまったく見当たらなかった学生時代のものが出てきたのも妙な話だ。葉子が一人暮らしを始めたのは高校を卒業してからで、ページを破り捨てたくなるような相手がいる高校時代の思い出をわざわざ新居に持ってくる必要はないはずだ。
 答えは最後のページの奥付のところにあった。裏表紙との装丁の隙間に一枚の紙片が挟み込んであったのだ。クセのある葉子の字で”あづみ 7時 ボニー&クライドで”と記してある。その下には四で始まるものと五で始まるものの二つの電話番号があった。

 文集の最後はクラスの名簿になっていて、それぞれの名前と住所、電話番号が出席番号順に並んでいる。F組の女子の中に”千原和津実”という名前と、メモの五で始まるほうと同じ電話番号があった。
 もう一度、ページを繰った。千原和津実の名前は残されているページの中になかった。
「……ひょっとしてビンゴ?」

「みたいだね」

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